過去語り その一:初恋地獄

 『初恋』とは、何であるか?


 初恋とは、物知らぬ子供が初めて味わう大人の果実である。

 初恋とは、時が過ぎても色あせる事なく咲き続ける心の花である。


 しかし、それは時として人の心に大きな傷痕を残す事もある。

 犯した咎を胸に秘め、それでも尚、立ち上がった一人の男。


 ――人は彼を、自宅警備員と呼ぶ。




 ■  ■  ■





 いつの世も変わる事なく、少年時代に失敗はつきものである。

 多くの例に漏れる事なく、自宅警備員・守宮継嗣やもり つぎつぐも、かつて少年時代に一つの大きな過ちを犯した。

 それは忘れられる事なく、今も継嗣の心の奥深く、大きな傷痕を残している。



 それは小学校低学年、未だ継嗣の心身が未熟だった頃の話である。


 父・守宮順敬やもりじゅんけいが課す修行の日々は、生まれつき虚弱であった継嗣にとって、まさに地獄の日々であった。

 全身の生傷が絶える事はなく、幼子に対する稽古としてはあまりにも過酷。

 それでも継嗣は父の言いつけに背かず、与えられた無理難題にも果敢に挑み、必死に耐え続けてきた。

 その先にあるものが自宅警備員――――父が歩んできた道ならば、その命を賭けるに惜しくない。

 継嗣少年は幼心おさなごころに、その事をよく理解していた。

 

 しかし、その決意に結果が伴わない。

 どれほど懸命に、どれほど努力を重ねても肝心の成果が上がらない。

 その未熟な腕は岩一つ持ち上げる事も出来ず、その未熟な脚で飛び跳ねても屋根先にすら届かない。

 全てが未熟である。そして、それ以上に『才能』がない。

 実りのない、無為な日々は無情にも淡々と流れていった。


 だが、それでも順敬の態度は変わらなかった。

 修行をつけてくれる父の眼差しはいつも厳しく、そして大きな期待を孕んでいた。

 期待に応えられない自分。

 それが、ただただ惨めで、故に日々は地獄そのものだった。



 悩み苦しんだ継嗣は、自身を更に過酷な修練へと追い込んだ。

 父に命じられた鍛錬の他に独自の練習メニューを組み立て、家人の目を盗んでは自分の身体を極限まで虐めぬいた。

 必然、限界が訪れる。

 そして、それは小学校、国語の授業中に起きてしまった。


 疲労が蓄積した肉体が、数十分前に口にした給食を受け付けなかったらしい。

 教科書の朗読を命じられ、立ち上がるとほぼ同時。

 継嗣は胃の中に入っていた今日の献立を洗いざらい吐き出しながら倒れると、そのまま動かなくなってしまった。


 継嗣の異変に、たちまち教室内は阿鼻叫喚あびきょうかんちまたと化した。

 クラスメイトは一様に悲鳴を上げ、本来、真っ先に駆け寄るべき教師も、その惨状に躊躇してしまっていた。

 いつの間にか倒れた継嗣を中心に、まるで隔絶されたかのように円形の溝が出来上がっている。


 自身の異変に気付いた継嗣も立ち上がろうとするのだが、指先以外、まるで石のように動かない。

 何度も何度も。腕も、足も、首も。繰り返し、繰り返し。

 だが、いくら足掻いても身体は一向に動かない。


 終いに、瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちた。

 努力が報われず、焦がれた夢は遠く、周囲の期待を無為にし、無様に生き恥を晒す己の現状。

 そんな自分がひどく惨めで、声を押し殺しながら、継嗣はついに涙した。

 もしや限界を迎えていたのは身体ではなく、心の方だったのかもしれない。

 

 涙で歪んだ視界。

 見える教室の天井は余所余所しく、まるで自分が見慣れぬ異世界に迷い込んだ錯覚すら覚えた。

 周囲と隔絶され、まるで自分以外の人間が存在しない異世界。


「……守宮くん、だいじょうぶ?」


 そんな奇妙な感覚を打ち砕く声がした。

 冷たくなっていた身体に、いつの間にか暖かく柔らかな指先が添えられていた。

 継嗣を優しく抱き起こし、汚物に塗れた周辺の惨状を気にも止めず、心配そうに声をかけてくる少女。


「ねぇ、守宮くん」


 それは継嗣もよく知るクラスメイトの一人だった。

 友人ではない。会話も数えるほどしかない、ただのクラスメイト。

 幼いながらに整った容姿が眼を惹き、クラスでも輪の中心になる事が多い少女だった。

 継嗣もまたその容姿に少なからず惹かれるものを感じており、教室で何気なく少女を視線で追ってしまう事もあった。

 時折、少女と視線が交錯して密かに胸を熱くする。そんな日も、確かにあった。


 だが今は何よりも、少女の心遣いが継嗣の胸を強く打った。

 誰一人として近づこうとしない、汚物の海に溺れていた継嗣を抱く優しげな手。

 気付けば、口一杯に広がっていた不快な酸味が魔法のように消えている。紫色をした唇が、かすかに動いた。


「……だ、大丈夫」

「――――よかった」


 そう言うと、少女は継嗣の手をそっと握った。

 満面、嬉しそうな笑顔。

 指先を伝う温もりをそのまま表したような優しげな微笑みに、継嗣は思わず見とれていた。

 

 ほどなく、教師がようやく自らの職務を思い出し、継嗣を慎重に保健室へと運び出した。

 幸い、大事には至らず、その日は用心して早退したものの、継嗣の心身に大きな異常は見られなかった。

 その後、迎えにきた母と共に帰宅すると、持病の痛風によって顔面蒼白状態であるにも関わらず、順敬は不動の直立で健康管理の大事さを継嗣に説いた。

 今日の事件と目の前の父。継嗣は二つの教材を前にその重要性を深く理解し、過度な無茶をする事は無くなっていった。




 ■  ■  ■



 

 翌々日。元気に登校した継嗣には異国の噴水式獅子像に因み、『マーくん』という不名誉なあだ名が進呈された。

 だが、継嗣は上機嫌だった。

 なぜならあの事件をきっかけに、件の少女と会話する機会が目に見えて増え、時には一緒に遊ぶほどの間柄にまで進展したからである。


 さらに当初は侮蔑の意味合いが強かったあだ名も、本名である『つぎつぐ』が子供には発音しにくかった事もあり、次第にあの一件を揶揄する意味合いは薄れ、継嗣の愛称として気兼ねなく使われるようになっていった。

 少女も最初は遠慮していたものの、本人が特に気にしていない旨を伝えると、他の友人たちと同じく『マーくん』呼びが定着していった。



 地獄に思えた日々が、いつの間にか一変していた。

 鬱屈していた心の中にいつも爽やかな風が吹き抜ける。


「マーくんは頑張り屋さんだね」


 相変わらず修行の成果は捗々しくない。

 だが、継嗣は焦るのを止めた。


「マーくん、あんまりムチャしちゃダメだよ?」


 少女と言葉を交わすだけで、長年蓄積した焦りが消えていく気がした。

 継嗣は、それが『初恋』と呼ばれる妙薬がもたらした、ささやかな薬効である事を知った。

 そして、ほのかな恋心は更なる奇跡を巻き起こす。



 その日、父から課せられた修行は河原の石を100個。道具を使わず素手で叩き割るという定番の荒行だった。

 いつもなら拳を潰して終わり、すごすご帰宅して悔し涙を浮かべながら母からの治療を受けるのが関の山だった。


 やはりいつものように、河原の石はどれも継嗣が振るう全力の拳を跳ね返す。

 様々な石を試してみたが、未熟な腕ではその端を欠けさせる事もできない。

 だが、この日の継嗣は決して焦らなかった。


 黙々と修行を続けていく内、継嗣は、ふと、少女の笑顔を思い浮かべる。

 その余裕が、拳から余計な力を取り除いた。

 河原に乾いた音が響く。

 すると足下には、中心から見事に割れた石が、その断面を惜しげもなく晒していた。


 継嗣は絶叫した。



 必要だったものは脱力。がむしゃらに拳を振るうだけでは駄目だったのだ。

 それがこの修行を通して父が伝えたかった事。初めて受け取った父からの贈り物に、継嗣は驚喜した。

 コツを掴んだ継嗣は面白いように石を叩き割っていく。

 気がつけば周囲に200を超える割れ石。

 その日、継嗣は夕暮れを待たずして修行の終わりを迎えた。


 証拠の石片を家に持ち帰ると、母は涙ぐみ、父は満足げに頷いた。

 そんな両親の喜びようを尻目に、忙しくなく身の汚れを落とそうと入浴した継嗣は、また声を押し殺して泣いた。

 浴槽の中、初めて流した嬉し涙は水に紛れ、無味無臭であるのに、その記憶、脳髄奥深くにまで刻み込まれていった。

 この日の成功は継嗣の人生においても掛け替えのない財産となっていく。


 順風満帆。この世の春。

 全ての歯車が合致し、全回転しているような高揚感。

 しかし、得てして悲劇とは、こんな時に訪れる。




 ■  ■  ■





 その日、継嗣は、陽が傾き茜色に染まった保健室で怪我の治療を受けていた。

 見ればあちこちに引っかき傷、ところどころに殴られた跡があり、皮膚が青くなっている。

 そんな満身創痍の継嗣を丁寧な手つきで治療していたのは、またしてもあの少女だった。


 惚れた少女、手ずからの治療となれば飛び上がって喜びそうなものだが、継嗣は気まずそうに無言を貫いている。

 一方、少女は口元にささやかな笑みを残しつつ、その瞳にはかすかな憂いを帯びていた。


 怪我を負ったきっかけは些細な口論だった。



 継嗣の父・守宮順敬は、家庭を守り、国家を守る偉大な自宅警備員である。

 だが、世俗の人々がその姿を知る事はない。全てが極秘裏に隠され、その真実に触れる者は少ない。

 ならば、世間から見た守宮順敬とは如何なる人物であるか?

 

 いい年して働いている様子もなく、外でその姿を見たものは誰一人としていない。

 塀越し窓越しに時折見える姿は物の怪かと見紛うほど醜悪で、稀に聞こえてくる中年の声は、いずれも妻子を叱り飛ばす大声だった。

 妻である恵穂めぐほ、子である継嗣はいずれも世間受けがよく、そんな妻子を一方的にがなりたてる順敬の罵声は、飛ぶ鳥を地面にめり込ませる勢いで当人の評判を落としていた。


 故に、恵穂の人徳により隣近所においてその話題は避けられてきたものの、裏では順敬を悪し様にこきおろす者も少なくはなかった。

 それもまた必要悪。自らを凡夫と侮ってくれる事で『地鐸』を隠し通せるならそれも本望と、順敬当人は気にも止めずにいた。

 しかし、子とは親の真似をするものである。

 間の悪い事に、親が語る順敬の悪口を耳にしてしまったクラスメイトの少年は、愚かにもその息子である継嗣の目の前で、親が語った悪口を再現してしまったのである。

 

 火のようになった継嗣はすぐさま少年に掴み掛かり、殴り飛ばそうとした。

 だが、守宮流警備術をみだりに人前で使用する事は禁じられている。 

 その事に気付いた継嗣は為す術もなく殴り返され、あっけなく返り討ちに遭ってしまった。



 そして、運び込まれた保健室。

 いつも常駐しているはずの保健教諭も今日は忙しいらしく、たまたま離席していた。

 だが二人きりになっても、継嗣はうつむいたまま、決して少女と目を合わせようともしない。


 少女もあの喧嘩の場に居合わせていた。

 父の非ぬ噂を聞かされて、少女は何を思ったか。

 継嗣はそれが気がかりで、とても二人きりの時間を楽しむ余裕などない。

 しかし、少女はそんな懸念はどこ吹く風とばかりに、淡々と手当を施していく。


「マーくん、手、あげて」

「……」


 言われるまま両腕をあげる。いきなり右脇の擦り傷に消毒液が染みたが、少女の手前、継嗣は無表情を貫いている。

 そんな継嗣の痩せ我慢を知ってか知らずか、少女は穏やかな声のまま、叱責した。


「あのね、マーくん。ケンカはダメだよ」

「…………」


 その言葉に、継嗣の表情が更に曇った。

 少女にそのつもりはなくとも、言外に『お前は弱いのだから大人しくしていろ』とたしなめられた気がしたのだ。

 だが、非は向こうにある。継嗣は半ば意固地になっていた。

 父へ向けられた誹謗中傷が耳の中で再生される度、強く噛み締めた唇にうっすら血がにじんでいく。


「……父上を馬鹿にされて黙っていられるか」

「マーくんの、お父さん?」


 継嗣は思わず息を飲んだ。

 ようやく返ってきた答えに、少女は機嫌良く継嗣の顔を覗き込んだのだが、不自然な体勢であった為、その顔は息がかかるような距離にまで接近していた。


 継嗣の肌が見る見る茹でダコのように燃え上がった。鼓動は嘘のような早さで乱れ鳴っている。

 いつしか抗いようのない、心の昂りが継嗣の心を支配していた。


 少年と少女。とはいえ、とどのつまりは男と女である。

 何事かを成せ。何事かを起こせ。何事かを生みだせ。

 『二人きり』というシチュエーションが、継嗣の本能に何事かを訴えかけてくる。

 だが、幼い継嗣にはその行方が分からない。彼女に何をしていいのか分からないのだ。

 今この好機を用い、二人の距離をより密接なものに。

 狂おしい劣情を心身が持て余し、ついにそれは思いもよらぬ方向で、弾けた。


「父……」


 継嗣は静かに目を閉じると、大きく息を吸い込んだ。


「……そうだ! 父は、この神州が誇る四十八の『自宅警備員』! 国家の為にその身を捧げた誉れ高き武人なんだ!」

 

 信じてもらえるかは分からない。だが少女には真実を知っていて欲しい。

 自分が敬愛する父は穀潰しなどではない。誰よりも、何よりも働き続けている神州一の戦士なのだ、と。


 幸い、今は二人きり。誰に聞きとがめられる事もなく事情を説明出来る。

 だが、その裏には継嗣本人も気付かない、薄暗い情念が渦巻いていた。

 ――さっきクラスメイトにやられたのは、特別な事情があったから。

 愛する人の前で晒した失態。その挽回への想いが、継嗣の口の滑りを良くしていく。


「今、神州が平和なのは神の宝『地鐸』のお陰で、父上はそれを守る為に日夜戦っている! つまり、父上は正義のヒーローなんだ!」


 継嗣はこのまま衝動に任せ、己の知識を全て吐き出すつもりでいた。

 舌が敏捷はしっこく回り、弁舌にますます拍車を掛けていく。


「市井の人々には知らされぬ世界で、今日も父上はたった一人で戦いつ――――」


 だが、その舌がぴたり止まった。


 まぶたを開くと、視線の先にいた少女は今にも泣き出しそうな顔でこちらを見つめていた。

 潤んだ瞳に射抜かれ、継嗣は絶句した。


「あ……」


 少女は無言のまま、消毒液の入ったビンを置くと、振り向きもせず、脱兎の如く立ち去っていく。

 制止しようとしたが、継嗣には何と言って彼女を引き止めればいいのか分からない。

 無情にも遠ざかっていく少女の足跡を聞きながら、継嗣は一人、うなだれた。


「信じては、もらえなかったか」

 

 改めて口にしてみれば実に荒唐無稽。世の常に逆らう類いの話である。

 次第に腹の底から震えが湧き、己の滑稽さがひどく笑えてきた。

 拒まれた。軽蔑された。背を向けられた。嘘つきと思われた。


「――嫌われた」


 継嗣は笑いながら、その後、大きな声でむせび泣いた。

 

 初恋が終わった。

 継嗣はこの時、無邪気にもそう思っていた。

 だが、初恋は終わってなどいない。

 むしろここから。初恋は地獄となって継嗣に牙を剥いた。




 ■  ■  ■




 あれから歩いた帰路の事は記憶にない。

 継嗣がようやく意識を取り戻した頃には、既に自宅の前。

 だが、普段なら気兼ねなく玄関ドアを開く所で奇妙な虫の知らせを感じ取っていた。

 意を決してドアを開くと、やはり玄関先には、ずらり見慣れぬ靴が並んでいた。


 自宅とは継嗣たちが暮らす棲家であるが、『地鐸』を祀る神殿でもある。

 人の出入りは制限され、みだりに家族以外の人間が立ち入る事は原則として禁じられている。


 だが、一部において例外が存在する。

 それは親戚郎党が集い、これから一族が進むべく道を話合う『家族会議』において他はない。

 

 その事に気付いた継嗣の臓腑はたちまち冷え込んでいく。

 『家族会議』が、それも緊急で開催されるほどの一大事に、心当たりがある。


 だが、あれから一時間も経っていない。

 もしどこからか漏れたのだとしても、いくらなんでも早すぎる。

 

 継嗣は臆する己を鼓舞しながら、居間のドアに手をかけた。

 ――――そして、心まで凍りついた。


 

 一番奥に腰掛けていたのは、正装である自宅警備装束に身を包んだ父・順敬。

 その隣には母・恵穂と、副自宅警備員を務めている叔父の守宮枝重やもり えだしげの姿があった。

 その手前に政府派遣の東都警備補佐官・須藤礼峰すどう れいほう氏と、見知らぬ壮年の男性。


 いずれも真剣な面持ちで、その視線が継嗣に集中すると、まるで喉元に刃物をつきつけられたような緊張がその身を支配した。

 そして、ドアのすぐ側に控えていた者の姿に、継嗣は言葉を失った。


「お帰りなさいませ、継嗣さま」


 そう言って、恭しく頭を下げていたのは着物姿の少女だった。

 小さな梅花をあしらった薄紅色の着物に身を包み、まるで下僕のように慇懃いんぎんな態度を取っている。

 それは継嗣が懸想し、恋いこがれ、秘密を暴露したあの少女――井森鯨波子いもり ときこ本人だった。


 『マーくん』

 かつて親しげに微笑みかけてくれた鯨波子が、今は別人のように、白々しく継嗣の本名を呼んでいる。

 いつも見せてくれた明るい笑顔はなく、もの言わぬ木石のように感情の起伏が見られない。


 まるで悪い夢でも見ているようだった。

 混乱する継嗣をよそに、その場で一人、素性の知れなかった男性が挨拶をしてきた。


「やあ、継嗣くん。こうしてお話しするのは初めてだね。自分は守宮の遠縁に当たる、井森家の家長・井森柳間いもり りゅうけんと言う者だ」


 ちらり、鯨波子にも視線を送り、 


「……そこにいる井森鯨波子の父でもある。初めての挨拶がこんな形になってしまったのが残念でならないよ」


 沈痛な面持ちで、その素性を明らかにした。


 継嗣はようやく悟った。

 己がどれだけ愚かであったかを。己がどれだけ間抜けであったかを。

 井森鯨波子は継嗣を陰ながら支えるべく用意された守宮の駒に過ぎず、そんな彼女の仕事ぶりを好意と勘違いし、浮かれていた己の道化っぷりを。

 

 あの時、鯨波子が真っ先に駆け寄ってくれたのは、次期当主を守るため。

 あの時、微笑みかけてくれたのは、大事な跡継ぎに何事もなく安心したため。

 いつも、優しくしてくれたのは、継嗣が守宮の嫡男だったため。


 あの時、見せた優しさは。

 あの時、見せた笑顔は。

 全ては、幻だったのだ。

 この時、継嗣は己の初恋が儚く散った事を、ようやく理解した。



「――では報告せよ」


 立ち尽くす継嗣を捨て置き、沈黙を貫いていた父・順敬が口を開いた。

 応じて、鯨波子は今一度、順敬の方へ頭を下げ、感情の匂いがしない声色で粛々と報告した。


「御報告申し上げます。先刻、継嗣さまは色香に惑い、民間人に扮した私に対して『自宅警備員』の秘を暴露なさいました」

「……相違ないか? 継嗣」


 振られても継嗣は答えられなかった。状況に混乱し、未だ意識は彼方に漂っている。

 順敬は立ち上がり、そんな煮え切らぬ我が子を叱咤する。


「答えんか! 愚息!」

「……は、い。相違、ありません」


 貫くような面罵に叩き起こされた継嗣は、肺から空気が漏れたような声でようやっと答える。

 すると、順敬はおもむろにその場に列席していた面々に頭を下げた。


「そういう訳だ。貴様らには迷惑をかける。これを甘やかしてきた、わしの監督不行き届きよ」


 これにはその場に同席していた全ての人間が驚いた。

 これまで誰に憚る事なく唯我独尊に振る舞い、『真夏の夜の悪夢』とまで呼ばれた男が頭を下げたのだ。

 順敬が人前で頭を下げる所など、誰も見た事がない。

 

「本来なら今すぐ責任を取って割腹し、果てる所存だが、自宅警備の職務を放棄する訳にもいかん。そこで――」

 

 常に一気呵成。己の言いたい事は全て押し通してきた男が、口ごもった。

 ややあって、二の句を告げる。


「柳間。先日の一件、進めてもらって構わん」

「……本当に宜しいので?」

「二言はない」

「――承知致しました」

「次は貴様だ、継嗣」


 継嗣は順敬と柳間のやり取りの意味が分からず呆然としていたが、再び名指しされ、思わず身がすくむ。

 

「まさか貴様がここまで愚かだとは思わなかった。――――今すぐ、腹を切って死ね」


 射るような言葉が継嗣の意識を釘付けにした。

 実の父から言い渡された死刑宣告。


「――――と言いたい所だが、恵穂に枝重、須藤からも助命の嘆願があった。幸い、貴様は内部者に漏らしたので実害はなかった。故に命までは取らん」

 

 継嗣は思わず忘れていた呼吸を再開する。だが父の言葉に安堵したのも束の間。

 その先に待っていたのは、更なる絶望だった。


「だが今後、貴様には警備術の伝授を行わない。守宮家はこれより養子を迎え、その子に全てを託す事にする」

 

 順敬が何を言っているのか、継嗣は理解できなかった。

 『自宅警備員』の職務はその秘匿性故、主に世襲で行われている。その為、跡継ぎがいない警備員は他家より養子を取る例も少なくはない。

 だが、それはあくまで苦肉の策。跡継ぎが存在しないケースに限っての対策である。


「御苦労だったな。もうお前には


 その意味を理解してしまうと、床が抜け、永遠に落下していくように思えた。

 継嗣は頑に目の前で起きた現実を否定し、震えながらうずくまった。

 五感を殺し、いくら時が過ぎ去る事を願っても、己の犯した罪が消えない事をよく理解した上で。



 継嗣にとって、ここから真の地獄の日々が始まる。

 この後、守宮家の命運は更なる紆余曲折を経ていくのだが、それはまた別の話。

 かくして継嗣の初恋は、実に無惨な形で終わりを迎えたのである。

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