第2章 前途多難な日々のはじまり_2


 夕暮れ間近になると、あるじたちはそれぞれの予定でけていった。

 心底安堵したジルは、外の空気を吸いたくなって庭園を歩き、ふんすい周りにこしを下ろす。とたんに、激しいろうかんおそってきた。

(ものすごく、つかれたわ……)

 こんな日々があと三六三日も続くのかと思うと、先のことが思いやられた。

 ゆうやみの庭園は、げんそう的で美しい。みきったあいいろの空の下、銀王宮の窓に明かりがともり、宝石のようにキラキラとまたたきはじめる。その光景は、本当にきれいだった。

(……ううん、ここで働けるなんて、とても光栄なことだわ。たったの一年じゃない。一つひとつ乗り越えなくては)

 そっとんだジルは、気持ちを切りえるために大きくびをした。と、こちらに向かって来るひとかげが視界に飛び込む。目をらすと、使用人のユアンだった。どうやら彼もきゆうけいらしい。

「やあ、調子はどうだい」

「ええ。なんとかやっています」

 ジルのとなりに腰を下ろした彼は、ナプキンに包まれたチョコレートを差し出した。

「よければどうぞ」

「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」

 欠片かけらを口に入れる。ほろ苦い甘さに、ジルの疲れはいっきにき飛んだ。

「昨日はバタついてて、ちゃんとした自己紹しようかいをしてなかったよな。ユアン・エイブラハム。ドーセット地方のしやく家、次男だ」

 右手を差し出されて、あくしゆわした。

「ジル・シルベスターです。出身はイーゴウ地方、父は男爵です」

「俺と同じ田舎貴族か。ここじゃなんだか、かたせまいよな」

 近衛このえ兵はもとより、使用人たちも貴族の子息だ。だが、彼らのほとんどは地方出身者だった。

 士官学校をしゆうりようできる素質にめぐまれず、芸術の才能もなく、廷臣になれるほどの学位を得られなかった彼らは、学舎を卒業して高位の貴族のつてをたより、使用人になる。その目的は、ささやかながらも一族と王族とのけ橋になることだ。

ひとつき前に仲良くなった助手は、ベイフォード公爵にこっぴどくやられて、一週間でいなくなったよ。君はどうだい。続けられそうか?」

「そうですね。なんとか続けたいと思っています」

 それから、とりとめのない世間話をした。彼の家も裕福ではなく苦労をしていると知り、ジルは自然に親近感をいだいた。

 会話をしながら、おたがいにチョコレートをつまむ。最後の欠片をナプキンごとジルにわたすと、ユアンは腰を上げた。

「俺はそろそろもどるよ。ばんさんの時間だ」

「チョコレートをありがとうございます。久しぶりに食べました。おいしかったです」

「いいさ。俺はもうすぐめるけど、それまでは仲良くやろう」

「そうなんですか?」

 はげまし合うあいだがらになれそうだと思っただけに、残念だ。

「父の具合がよくなくて、田舎いなかに帰るんだ。ここに居続けたとしても、だれかに引き立ててもらえるわけじゃないしな。戻って兄を手伝うよ」

「そうですか。お父様、お大事に」

 ありがとう。そう言って笑い、ユアンは王宮内に戻った。彼のうしろ姿を見つめながら、今夜は家族に手紙を書こうと、ジルは微笑ほほえんだ。



 主たちのいない芸術棟とうは、ジルだけの自由な空間だ。

 夕食を終えたジルは自室に戻り、明かりを灯してテーブルに着いた。

 テーブル上には、四人のカテゴリーにそくした書物を分けて、積み重ねている。ふくしよくと装飾、建築や調度品、文学に音楽、そして絵画をはじめとした美術書。

 一時間ごとにカテゴリーを変えて学ぶ合間に、ジルは家族に手紙を書いた。ふうをして引き出しにってから、なにげなく奥のドアを見る。

(……いない、のよね)

 そくに輪をかけた精神的疲ろうから、いますぐ寝間着にえ、ベッドにもぐりたいしようどうにかられる。ささやかな胸に巻いているうすぬのも息苦しくて、できることなら外してしまいたい。

(昨日だって、一晩中いなかったんだもの。今夜だっておしきから戻らないわよ)

 よし! 急いで上着とベストをぎ、アスコットタイをゆるめようとしたときだ。

「──ジル」

 奥のドアがとつぜん開いて、ジルは「ひゃっ!」とたたらをんだ。

「ラ、ライナス様!? お、おお屋敷に戻られていたのではないのですか! というか、ノックくらいしてください!!」

「やっぱりね。この部屋だと君はあわてる。どうして?」

 男装しているからです、とは口がけても言えない。

「プ、プライベートな空間だから、守りたいんです! それよりも、どうしたんですかっ!?」

「君に礼拝堂を見せていなかったなと、ふと屋敷で思い出してね。さあ、行こうか」

 たったそれだけのことで、戻ったというのだろうか。しかも、いまから? それは明日では、いけないのでしょうか……?

 固まるジルにかまわず、ライナスは室内に入った。テーブル上の書物を見下ろすと、感心と言いたげにしようする。と、けげんそうにまゆを寄せると、はなやかなそうていの本を手に取った。

(あっ──それは!)

「……『愛と裏切りのはん』?」

 終わった、とジルはうなだれた。もうダメだ。いや、あきらめてはいけない!

「い……妹がおもしろいと言っていたので、読んでみようと思いまして」

 信じてくれるだろうか。食い入るように彼を見つめていると、なつとくしたのか「ふうん」ともらし、本をテーブルに置いた。心臓が冷えて、生きた心地ここちがしない。

 彼を前にすると、平静だった感情はり子のようにれ動き、ジルはどうようかくせなくなってしまう。そんなジルを見ることが、ライナスは楽しくてたまらないらしい。

「君は最長記録の助手になるかもしれない」

 動けずにいるジルに近寄り、ニヤッと笑ってうでを組む。

「アンドリューを黙らせた助手は、君だけだからね」

「そう……ですか」

「それに、午後はれいじようをうまく帰したね。君は女性をなぐさめるのも上手らしい」

(あのとき気配を感じたのは、ライナス様だったんだわ!)

 ライナスからじりじりと退いたジルは、きゅっときつくタイを結ぶと、ベストと上着を急いで羽織った。さっさと礼拝堂を案内してもらい、自室に引っ込んでいただかなければ!

「では、礼拝堂へのご案内を、よろしくお願いいたします」

 先にドアノブに手をかけて、ろうに出る。かすジルとは対照的に、ライナスはのんびりと笑んだ。

「じゃあ、夜の散策といこう」



 思いついたら行動せずにはいられない。彼はそんな人らしい。マイペースのかたまりだ。

 無数のしようぞうかざられている廊下を歩く。現国王やおう、領地に暮らす王太子のオルグレン公エリオット殿でん、その妹であるアイリーン王女殿下の肖像画は、彼がいたものだと教えられた。写実的な筆さばきは、幻想的な風景画とあきらかにちがう。ひとみかがやき、はだの質感、服のしわ、そしていんえい。まるでいまにも、彼らの息づかいすら聞こえてきそうなほどリアルだ。

「なんてすごい……いまにも語りかけられそうです」

 立ち止まって肖像画を見上げるジルを、ライナスは横目にして笑んだ。

「僕の肖像画は多くない。これまでに描いたのは、現王族の方々と数人だけだ」

「えっ? そうなんですか」

「僕は他人に興味がないからね。だから、尊敬の念を抱くか興味をかれた相手しか、描く気になれないんだ」

 ライナスが歩き出し、ジルも歩みを進めた。

「そういうわけで、いまは君を描いてみてもいいかなと、久しぶりに考えている最中だよ」

 ジルを見て、ニヤリとした。うっ、とジルは視線をそらす。話題を変えなくては。

「げ……芸術棟に飾られているのは、ライナス様が描いたものですか?」

「そう、学生のときの作品だ。ちなみに君は、どうしてここへ来たの」

 っ込まれないよう、ジルはしんちように言葉を選んだ。

「芸術には、興味があります。生み出すことよりも学ぶことが好きなので、美術教師の資格を得たいと考えて来ました。僕の家はゆうふくではないので、学舎に行けませんでしたから」

 ライナスが立ち止まった。

「なんだ。じゃあ、一年もしたら辞めるのか。残念だな」

「はい、そうです……」

 ライナスは口をざすと、また歩き出した。突然話さなくなったのが不気味だ。

(私、女性だってバレるような発言は、していないわよね)

 不安を振りはらうべく、ジルは会話の糸口をさぐった。

「あの、ライナス様はどうして、ステンドグラスをつくったり、絵を描くようになったのですか」

 それを聞いた彼は、横顔にひかえめなみをかべた。

「君の子どものころの夢は?」

「えっ? ええと……」

 ない……いや、はなよめだ。純白のドレスを着て、てきな王子様とさいだんに立つのが夢だった。いつからかそんな夢も見なくなり、すっかり失ってしまったけれど。

「いまは美術教師ですが、子どものころは……とくにはありません」

 ジルを流し見たライナスは、ふたたび前を向いて口を開く。

「僕は、じゆつになりたかった」

「魔術師……ですか?」

 びっくりするジルに、彼は口のはしを上げる。

「そう。でも、この世界に魔術はないし魔術師もいない。だけど、ゆいいつそれに近づけるのが芸術家だ」

 げんそう世界を生み出してかんしよう者の心をうばい、その世界のなかへ引き込んでしまう。それは魔術と同じなのだと、ライナスは言った。

「ステンドグラスや絵画は、僕の魔術だ」

 さらりとしたその言葉に、ジルはまどった。かたくなに閉ざされた胸の奥にあるとびらを、コツンと小さくノックされた感覚を覚えたからだ。

(……あれ。なにかしら……この感じ)

「ジル?」

 ライナスが振り返る。ジルははっとして、ふたたび彼のうしろに続いた。

「あなたのステンドグラスを、父といつしよにエルシャム聖堂で見たことがあります。本当にらしくて、魔術師が生み出したものだと父と話しました」

「それは光栄だ。あれからステンドグラスは創っていないから、僕の魔術は絵画だけになってしまったけれどね」

(──えっ?)

 エルシャム聖堂の修復が終わったのは、五年前だ。それから一度もステンドグラスを創っていないのは、なぜなのだろう。そんなジルの疑問を制するように、ライナスは言った。

「創れないのはただのスランプだ。たいしたことじゃない」

 五年間も? そう言いそうになってやめた。

(話したくないことみたい。気になるけれど、せんさくはよくないわ。でも……)

「……あなたのステンドグラスを見て、僕も父もとてもはげまされました。そういう人がたくさんいると思います。ですから、いつかまた、どうか創ってください」

 ライナスはやわらかく笑んだだけで、なにも言わなかった。

 廊下を曲がり、階段を上る。二階に上がると、そうごんな教会を思わせる廊下が視界に広がった。奥まで行ったライナスは、れいな両開き扉に手をかける。

「そこが礼拝堂ですか」

「ああ。王女殿下のこんやく式も、ここで行われる」

 彼が扉を引き開けた。優美なそうしよくが織りなす、純白の礼拝堂。ドーム形の高いてんじよう──クーポラには、天窓を囲むように天使たちがえがかれており、あわい月明かりが礼拝堂を照らしていた。

(……きれい……!)

 細やかな飾り細工の二階柱がずらりと続き、真正面にはまばゆく輝く銀のパイプオルガンがある。眼下の身廊には赤いじゆうたんめられ、段上の祭壇へと続いていた。

「婚約式当日のせいたくには、アンドリューがもんようをデザインしたタペストリーがけられる予定になってる」

「いまは見られないんですか」

「アーヴィル地方の職人たちによる手刺しゆうのもので、まだここにはない。届くのは二週間後だ」

 アンドリューはその仕上がりのかくにんをするために、アーヴィル地方におもむいていたらしい。

 王女への祝福を込めたそのタペストリーは、イルタニアをしようちようするしろはとと、デイランドを象徴するしろ薔薇ばらを模した力作だとライナスは話す。りに腕をのせてほおづえをつきながら、彼は眼下を見つめた。

「デザイン画しか見ていないけれど、かなり素晴らしいものになるよ」

「楽しみです」

 そう答えたジルに顔を向けて、ライナスは小さく笑んだ。

 こちらの内面をかすような、灰青色の瞳。そのまなしに、ジルの背筋はひやりとする。正体がバレたのではないかというわくが、どうしても頭をもたげてくるからだ。

(やっぱり苦手だわ。早くもどらなくては)

「礼拝堂、見せていただけて感謝します。ではあの……そろそろ戻りましょう」

 ジルがきびすを返そうとした直後、彼が言った。

「一年後、〝教師になるのはやめてまだここにいたい〟と、君に言わせることにしたよ」

「えっ!? ぼ、僕に、ですか?」

「僕たちは気難しくて不器用だ。かしこい君ならそんな僕らと、うまくやっていける気がする。そんな貴重な助手を、がすわけにはいかないからね」

 近づいたライナスは、もののがさないと言わんばかりの視線を向けてきた。さっきとうとつに無言になったのは、そんなことを考えていたからか。

(おかしいわ、どうしてこんなことになってしまったの? 私はなにもしてないのに!)

 現実離ばなれしたたんせいな顔を間近にしても、ジルはれるどころかおびえてしまう。

「ど……うすれば、僕への興味を失ってくれるのでしょうか。昨日も言いましたが、僕はたいした人間ではないですし、あなたにそこまで言っていただけるようなとくちようは、なにもないのです……!」

「だから、それを決めるのは僕であって、君じゃない」

 そうであれば、つまらないやつだと思われるしかない。でも、どうやって?

 仕事で失敗する? そんなめいわくはかけられない。そうとなれば、できるかぎりあわてないことだ。冷静に騒がず、確固たるきよを保って冷たくやりすごす。

(それにきっと、いまだけのことよ。私がめずらしいだけで、慣れたら興味をなくしてくれるわ。だって私は、つまらない女の子だもの)

 ぎやくに過ぎるとわかってはいるが、いまはそれにけるしかない。

「…………はい」

 彼が自分にきるのを、待つしかない。ジルは落とした視線を遠くした。

 ゆっくりねむれるのはいつになるのだろうと、思いながら。



 翌朝。

 りんしつで物音がたつたびにビクビクして落ち着かず、テーブルにして眠ってしまった。それでも少し眠れたのか、昨日よりは頭がすっきりしている。

 ジルは奥のドアに耳をあて、ライナスの様子を探った。

(こんなはしたないことをするはめになるなんて、思いもしなかったわ)

 となりは静かだ。ジルはそっと部屋を出た。

 洗面室で顔を洗い、身なりを整えてからちゆうぼうに急ぐ。かいろうを歩きながら、ライナス以外のだれが戻っているのか、あくしていないことにはたと気づいた。

(彼らのスケジュールを管理するのも仕事よね。そうすれば、いつ誰が不在かわかるわ。もう少し慣れたら全員にたずねて、整理しなくては)

 思いきり湯を浴びるのは、それからのほうがよさそうだ。

 厨房のユアンとあいさつわし、とりあえず全員分の朝食をワゴンにのせていく。それを見ていたユアンが、手を差しべてきた。

「おっと、待って。バクスターしやくは、他人の手がついたものを絶対に食べないんだ。グラスと水差しは別にして、こういったサンドイッチも、バゲットとはさむ食材は別に。そうじゃないとげつこうして大変なことになる」

「ありがとうございます。なにも知らないので、助かります。でも、どうして僕に親切にしてくれるんですか」

 ユアンはかたをすくめて笑った。

「俺はもうすぐいなくなる。最後くらい、なにかいいことをしておこうと思ってさ」

 親切でやさしい人だ。礼を告げたジルは、ワゴンを押しながら厨房を出た。



 食堂に入ろうとしたとき、紅茶を飲んでいるアンドリューが視界に飛び込んだ。いちの乱れもない身なりはさすがだ。ジルを見るなり、彼はいまいましげにまゆをひそめた。

 昨日のことがあって気まずいものの、グズグズしていたら朝食が冷めてしまう。ゴクリとつばを飲んだジルは、なんとか平静をよそおって食堂に足をみ入れた。

「おはようございます。紅茶のご用意もせず、申し訳ありません」

 無言で紅茶を飲むアンドリューの前に、朝食を並べる。気に入らないと言いたげなするどい視線も、ライナスのそれに比べたらはるかにえられる……はずだった。

「お前は本当に、男なのか」

 この一言が、飛び出すまでは。

(──え)

がらとはいえ、お前のような男は見たことがない。お前の体型はあきらかにドレスサイズだ」

 女性のサイズを熟知している、彼らしいてきに手がふるえる。すまし顔で食事を並べるも、ナイフとフォークを反対に置いてしまった。落ち着きはらって置き直し、次の席に移っても、まだ視線を感じる。ジルは言い訳をしぼり出した。

「そ……れは、僕にとってコンプレックスの一つです。もっとたくましい体型に、生まれたかったと思います」

 これでどうだろう。ちらりとうわづかいにすると、フォークをサラダにすアンドリューと目が合ってしまった。ジルはとっさに視線を落とす。

「お前は昨日、俺の価値観に追いつく努力をすると言ったな」

「はい。言いました」

「口だけならば、どうとでも言える。俺の指摘から逃れるためにうそをついたのであれば、お前はざかしいしようの持ち主ということだ」

 針のような彼の視線が、ヒリヒリとジルのはだを突き刺してきた。

「俺は向上心のない者や、口先だけの人間がきらいだ。だから、こうしよう。王女殿でんの婚約式までに、俺を認めさせてみろ。それができたら、お前を助手として受け入れてやってもいい。だが、それができなければお前を〝噓つき〟として、ほかの三人がどう言おうとも、ここからほうり出してやる」

 婚約式は約一ひとつき後だ。そんな短期間で、できるだろうか。

(いいえ、だいじようよ。まだ一月もあるわ)

 そう思い直したジルは、レイモンド用の朝食をのせたトレイを持って、ドア口に立った。

「わかりました。婚約式までにあなたに認めていただけるよう、せいいつぱい努めます」

 彼の険しいひとみをまっすぐに見返しながら、ジルは頭を下げた。食堂を出たとき、両手の震えでトレイがカタカタと鳴りはじめる。

(クビになるわけにはいかないもの。なんとしてでも、認めてもらうしかないわ)

 意志を強くして深呼吸をし、手の震えを止める。姿勢を正したジルは、しっかりとした足取りで大階段を上った。しよさいの前に立ったしゆんかん

 ──古ぼけた気色の悪いぬいぐるみをコレクションしてる。

 今度は前助手の言葉がのうよぎって、ふたたび手が震え出した。

(……気色の悪いぬいぐるみって、なに?)

 れいこんが宿っているかのような、おどろおどろしいものだろうか。たとえそうであったとしても、失礼のないようにしなければ首をめられるらしい。見ないようにするしかない。

 意を決して、レイモンドの書斎をノックする。返事はない。もう一度ノックをしてから、そっとドアノブを押し開けた。

 かべ一面のしよだなにはびっしりと本がおさまっており、いたるところに紙束や積まれた本が散乱している。おそるおそる奥を見ると、マホガニーの大きなデスクを前にして、一心にペン先を走らせるレイモンドがいた。そんな彼を見守るかのように、無数の古ぼけたぬいぐるみが背後の出窓に並んでいた。

(あっ……なんだ。テディ・ベアじゃない!)

 大小あわせて、かなりある。どれもきちんと服を着ており、大切にされていることがよくわかった。しかも足の裏には、製造年がしゆうされている。

(あれはお祖母ばあさまも集めていた、〝ベルージ社〟のものだわ)

 毎年新しいものが出回り、年代物にはかなりの値が付くぬいぐるみ界のさいこうほうだ。しきいつしよに手放してしまったが、残した一体は妹とこまめに手入れし、宝物として大切にしていた。

(まさかここで見られるなんて、うれしい!)

 はしゃぎたくなる気持ちをおさえて、ジルは静かに話しかけた。

「レイモンド様、おはようございます。朝食です」

「いりません」

「それではここに置いておきますので、あとで食べてください」

 ローテーブルに置くと、「食べたくありません」と彼は言う。食べてもらってくれとライナスに言われている以上、このまま去るわけにはいかない。考えあぐねて突っ立っていると、レイモンドはいらったように顔を上げた。

「なんですか。まさか私の友人たちをおとしめるようなことを、言うつもりではないでしょうね」

 表情をゆがませ、眼鏡めがねの奥の眼光を強める。

「どうせバカにするのでしょう。しかし、もしも私の友人たちを貶めたなら、私は地の果てまでもあなたを追いめます。精神的に」

 やりかねない。そういう顔つきだ。今後のためにも、誤解を解かなくては。

「バカになんていたしません。〝ベルージ社〟のテディ・ベアは、祖母も生前集めてかわいがっておりました。あの……できればもっと近くで見たいのですが、いけませんか」

 ペン先を止めたレイモンドは、まどいをあらわにして眉をひそめる。

「は? ええ……まあ……」

 ジルはゆっくりと出窓に近寄った。

(ああ、とっても可愛かわいいわ。このほっぺがふっくらしてるの、お祖母様のしんしつにあったのと同じものよ。あっ、こっちの手足がちょっと短いのも)

「祖母は彼と同じものに、ペーターと名付けていました。それから、こっちのはマリアンヌです。もしも彼らにお名前がありましたら、教えていただけませんか?」

 呆気あつけにとられたレイモンドは、しばらくしてからしぶしぶ名前を呼びはじめた。数えること二十六体。そんな彼らの服は、長い間かわいがられすぎたのか、あちこちがほころんでいた。

(──あっ、そうだわ!)

「よろしければ彼らのお洋服のほころびを、お直しさせていただけませんか? その代わりに、僕の運ぶ食事を食べていただくというのは、いかがでしょうか?」

 レイモンドは目を丸くした。

「……あなたが、お直し?」

「はい。妹とよくそうして……」

(……遊んでいましただなんて、言っちゃダメよ! 私はいま男性なんだもの!)

 テディ・ベアに気がゆるみ、すっかりになってしまっていた! だが、レイモンドの瞳は期待できらきらしはじめる。いまさらできないとは言えない。

「は、母から大切にするよう、きつく言われておりましたので……!」

 またもや苦しい言い訳だが、レイモンドはいぶかるでもなく、感心したように深くうなずいてくれた。

「……ほう、けんめいな母君です。実際そういったことを自分でしようにも、なかなかに手がまわらないことでした。洋服のほころびにも気づいていましたが、王女殿下の専任であるアンドリューをたよるわけにもいかず、彼らにずかしい思いをさせてきたこうかいはあります」

 眼鏡を指で押し上げると、レイモンドはため息交じりに言った。

「いいでしょう。その代わりに食事を食べるという取り引きを許可します。しかし、もしも彼らにそうがあったとき、私はあなたをを言わさず追い出します。よろしいですね」

 彼の眼鏡がキラリと光り、ジルは気を引きめた。これは遊びではなく、仕事なのだ!

「は、はい。承知いたしました!」

「ではひとまず、ボビーの服からお願いします。ボタンが取れかけていますから」

 ボビーの服をわたされたジルは、大切に持って書斎を出た。ていねいにたたんで内ポケットにおさめてから、ジルはここへ来てはじめて、頭をかかえて身もだえた。

 なんという提案を、してしまったことだろう!

(おさいほうをしているところをライナス様に見つかったら、絶対にっ込まれるわ!)

「うう……い、いいわ、なんとかしましょう!」

「なにをなんとかするの?」

 うしろからかかった声に、ジルは飛び上がった。きのライナスが、けげんそうにジルを見ている。パッと頭から手をはなしたジルは、とっさにシュッと背筋をばした。

「……いえ、なんでもありません。おはようございます」

「おはよう。あやしいな、なにかかくしてるね」

「いえ……なにも」

 意地悪そうにジルをいちべつし、ふくみ笑いで大階段を下りて行く。入れわるように姿を見せたアンドリューは、ジルを一瞬睨にらんでからアトリエのドアを閉めた。

 ため息をついたジルは、ロビーに下りる。今日もいそがしくなりそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る