第2章 前途多難な日々のはじまり_1

 残り三六三日。

 翌朝、芸術棟とうを出たジルは、朝食を運ぶためにちゆうぼうへ向かった。それにしても、ねむい。

(……ライナス様が恐ろしくて、いつすいもできなかったわ)

 なにしろ部屋はつながっており、かぎはないのだ。彼がしきもどっているとわかっていても、興味をもたれたことによって落ち着かず、しん用のえることもできなかった。

 結局、彼に教えてもらった芸術書をひもき、学んでいるうちに朝日を拝むはめになってしまったのだが……なぞだ。

(どうして私なんかに興味をもつのかしら。わけがわからない……)

 マイペースなライナスのことを考えると、気が重くなる。話すたびに自分のペースが、ガラガラとくずされてしまうからだ。

(でも、ライナス様に気をんでばかりもいられないわ。今日は残りの二人が来るらしいもの。とにかく落ち着いて、なにがあってもどうようしちゃダメよ)

 心のなかで念を押しつつ、ジルは大勢の使用人が行きう厨房のとびらぐちに立った。

「やあ、おはよう」

 昨日面識をもった、ユアンという名の使用人が声をかけてきた。ジルよりも少し年上で、げ茶色のかみに同じ色の瞳。男性にしてはがらだったが、銀糸のしゆうほどこされたのうこんのお仕着せがよく似合う、おだやかながおが印象的な好青年だ。

「おはようございます。今朝はカーティス様もライナス様もお屋敷にいらっしゃるので、僕の分だけお願いいたします」

 ユアンは「りようかい」とうなずき、一人分の朝食をワゴンにのせてくれた。

「ありがとうございます」

「あそこの助手は大変だからなあ。まあ、とりあえず一週間、がんばって」

 いえ、一年は居座るつもりです。そう答える代わりにジルはうなずき、新聞をわきはさんでワゴンを押した。



 ふっくらと焼き上がったマッシュルーム入りのオムレツに、サラダ。スコーンとスープの奥深い味に、ジルはうっとりと息をついた。

「おいしい……。また一日、なんとかのりきらなくては」

 昨夜も一人で夕食をとったので、静かなひとときに気がゆるんでいく。自室よりも食堂のほうが落ち着くのは、あのドアのせいだろう。いずれなんとかしなければ。

 食べ終えてから、新聞に目を通す。一面をかざっていたのは、アイリーン王女のこんやく式の記事だった。ひとつきはん後に行われる婚約式を終えた王女は、イルタニアへ旅立ち結婚式を行う。そこで正式に、イルタニア王太子妃となるのだ。

 そんな王女も暮らしている王宮にいるだなんて、いまだに信じられない。

「……王女殿でんとすれ違うことも、あるかもしれないのよね」

「……〝のよね〟?」

 降っていたような聞き覚えのある声に、ジルはぎょっとして顔を上げる。ドア口に立っていたのは、ライナスだった。しくった!

「お、おはようございます。ライナス様、いつからこちらに……っ」

「数分前だ」

 記事を読んでいて気づかなかった。食堂に入ったライナスは、テーブルを挟んだ前のを引くと、こしを下ろしてティーポットを手に取った。

「あっ、それは!」

 僕が飲もうとしていたものです、などと言わせるすきをジルにあたえず、彼はカップを寄せて勝手に紅茶をそそぐ。

「女の子みたいなひとりごとは、僕の空耳かな」

 ニヤリとし、ジルをうわづかいにする。動じていることをさとられまいと、ジルは表情を強張らせた。

「い……妹の夢を昨夜見たんです。それで、無意識のうちに口調が移ったのかと……」

 苦しい言い訳に、我ながらあきれる。小さく笑んだ彼は、さぐるようにジルを見ながら紅茶を口に運んだ。

「……ふうん?」

 意味深な彼の視線にえきれず、ジルはそそくさと席を立つ。

「食器を戻してきます」

 ワゴンに食器をのせてから、げるように食堂を出た。かいろうちゆうで立ち止まり、おなかの底から息をく。正体がバレているわけじゃない。反応を面白がられているだけなのだ。そう自分に言い聞かせても、むなさわぎはおさまらない。

(うう……あの方はすごく苦手だわ)

 ──できるかぎり、けなくては!

 ぐったりとかたを落としながら、ジルは厨房へ向かった。



 芸術棟が開放される日は、ロビーのすみにある小さなテーブルに着いて、訪問者を待つ。

 芸術棟にカーティスが戻ると、さっそく議員の来客があった。その訪問客が帰ると、見るからに高位と思われる聖職者がやって来る。ジルはアトリエにいるライナスを呼び、応接間に通して紅茶を出した。

 高名な画商や役職ある貴族らが、現れては去って行く。そんな午前をなんとかこなし終えてから、ジルは二人とともにおそい昼食をとった。カーティスがいてくれるおかげで、ライナスへのきよう心もかんされ、昼食を終えたときには平常心に戻ることができた。

 午後になり、彼らがアトリエにこもった直後。一人の女性がロビーに姿を見せた。

(あっ、きっとライナス様のお客様だわ!)

 ジルが席を立つと、たたんだがさを手にした彼女が近づいて来る。ねんれいはジルと同じくらいだろう。みようれいじよを扉口に立たせたまま、彼女はジルをきつく見すえた。

「ロンウィザーこうしやく様に、お目通り願いたいのだけれど」

 ぼうからのぞく髪の色は、ブルネット。ばながらのガーゼ・ドレスを身にまとったれんな少女だが、高圧的な語調から自尊心の高さがうかがえた。

 すんなりと帰っていただけそうな方法は、一つしかない。

「申し訳ありませんが、ライナス様は本日こちらにいらっしゃいません」

 うそをつくのは気が引けたが、これしかないのだ。すると彼女は、くちびるを弓なりにさせた。

「あなたの前もその前もそのまた前の前の……大勢の助手たちも同じことを言ったわ。どうせ彼がわたくしに照れて、会いたくないとおっしゃっているだけなのでしょ? いいわ、わたくしが会いに行きます」

 くるんときびすを返した彼女は、熱情にかられたように大階段に向かって行く。あせったジルはすぐに追いかけ、彼女の前に立ちはだかっててのひらで制した。

「本当です。ライナス様は、こちらにいらっしゃいません」

 キッと彼女はまゆをつり上げた。

「どいてちょうだい。本当にいらっしゃらなければ帰ります」

(困ったわ、どう言ったらいいの? 物語に登場する殿とのがたなら、どう言うかしら)

「あ……なたの貴重なお時間を、そんなことについやさせるわけにはまいりません。どうか、僕の言葉を信じて──」

「──じやです! どいてちょうだいと言っているのが、わからないの!?」

 ──バシッ!

 ジルのほおに、いきなり彼女の平手打ちが飛んだ。

(────!)

 頰を押さえたジルは、あ然として彼女を見つめる。ひとみをうるませた彼女は、さめざめと涙をこぼしはじめた。

ふたつき前に行われた我が家の夜会で、ロンウィザー侯爵様はわたくしに微笑ほほえみかけてくださったの! あのまなしには、わたくしへのひかえめな愛情が込められていたわ! あれからわたくしは彼の笑顔ばかり思い出して、満足にねむれないでいるのよ!」

 おどろいたジルは頰の痛みも忘れて、彼女を見つめた。本当にライナスのことが、好きなのだ。

 ジルにそんな経験はない。眠れないほどだれかのことをおもったことなど、一度もない。

 好ましく感じる相手がいても、彼らが選ぶのは常に妹だったから、感情にふたをすることがいつからかくせになっている。〝冷静〟とされる所以ゆえんの一つだ。

 だから、彼女がうらやましく思えた。情熱的でじゆんすいで、こいすることへのおびえがないからだ。

(……可愛かわいい方)

 ジルは胸ポケットのチーフを取り出し、彼女にそっと差し出した。彼女はえつこらえながら、当然だと言わんばかりにうばい取った。

「噓をついたことを、謝罪させてください。ライナス様はこちらにいらっしゃいます。けれど、女性はどなたも通すなと言われております」

「まさか……わたくしは違うはずよ!」

「夜会のときあなたのそばに、めずらしい美術品などが飾られてはいませんでしたか? おそらくライナス様はそれを見て、微笑んだ可能性があります。言葉にするのははばかられますが、あなたに……ではなく」

 ジルの言葉に答えたのは、とびらぐちに立つ侍女だった。

「珍しい美術品は、我が家のいたるところにございます。だん様は東洋のそれらに目がありませんので」

「そんな……わたくしに、恋をしてくださったのではないの?」

 困り果てたジルは、ただ彼女を見つめることしかできなかった。ジルの眼差しの意味を察したのか、彼女はポケットチーフに顔をうずめて嗚咽をもらした。

「帰りましょう、おじようさま

 侍女が近づく。泣きくずれる彼女の肩をくと、ジルに深々と頭を下げた。

「大変お見苦しいところを」

「いえ。このことは他言いたしませんので、ご安心を」

 うなずいた侍女が、彼女を連れて背中を向ける。しゆんかん、ジルは思わず呼び止めた。

「あの! 本当に申し訳ありませんでした。あなたに苦しい思いをさせてしまったことを、ライナス様の代わりに僕が謝罪いたします」

 顔を上げた彼女は、涙にれた瞳をジルに移した。

「……あなた、わたくしの平手打ちを痛がらなかったわね」

 にぶい痛みはまだ残っている。けれど、彼女に気まずい思いをさせたくなくて、ジルはせいいつぱい微笑んで見せた。

「あなたの心の痛みに比べれば、たいしたことではありません」

 どうもくした彼女は、にぎっていたポケットチーフを見下ろした。

「そうだわ……これ……」

 ジルはとっさに、物語に登場するしんの言葉を真似まねた。

「差し上げます。はさみでズタズタにしてくださっても、かまいませんから」

「なんですって? おかしな方。そんなことを言った助手は、あなただけよ」

 そう言うと、彼女はやっと小さく笑った。

「……そうね。そういうことをすると、女性は気が晴れたりするものだもの。ぜひ、そうさせていただくわ」

「あなたにふさわしいお相手は、必ずいます。てきな方との出会いが、絶対におとずれます」

 びっくりした彼女は、まじまじとジルを見つめた。

「そう、かしら。あなたは本当に、そう思う?」

「はい、僕が保証いたします。もしかするともう、そばにいらっしゃるかもしれません。ただ、あなたが気づかないだけで」

 彼女のかなしげな瞳に、冷静なかがやきが宿りはじめた。げんを保つように姿勢を正すと、スカートの裾をつまみ上げてジルにおした。

「大変失礼いたしました。帰ります」

「お気をつけて」

 ジルもていちようにお辞儀をし、二人を見送った。

 どうなることかと思ったが、なんとかお帰りいただけてよかった。ホッと息をついた直後、階上に人の気配を感じて見上げた。だが、誰もいない。気のせいらしい。

 ふたたび席に着いたジルは、すまし顔で扉口を見つめながら、一心に待った。

 午後のティータイムの、ささやかなきゆうけい時間を。



 残り二人のあるじむかえる準備は、ジルなりに最善をつくして整え済みだ。

 黒いかわふるぐつは、朝のうちにみがききった。身なりは質素だが、王宮を歩きまわるれいにはそくしている。

(前の助手の方からの忠告に、助けられてばかりだわ。おかげで対策が練られるもの)

 だが、いつまで待っても彼らが現れる気配はなく、訪問者も姿を見せないまま、待ち望んでいたティータイムになった。おやつを運ぶためにちゆうぼうへ向かおうとした矢先、カーティスが階上に姿を見せた。

「私もライナスも類は食べないし、紅茶も飲みたくなったら自分でれる。お前だけ休憩するといい」

「えっ? けれど、お客様は?」

「このくらいの時間に来客はないし、いたとしても声をかけてくるだろう。食堂のドアを開けて、本でも読んで休むといい。初日から飛ばすと息切れするぞ」

 ニッと笑った。カーティスは快活で裏表がない。本当にいい人だ。

「わかりました。ありがとうございます」

 一人分のクッキーとティーセットを食堂に運んでから、ジルは自室で本を選んだ。

 芸術書にまぎれさせた『愛と裏切りのはん』が読みたくてたまらなかったが、人目につく場でははばかられる。そういうわけで、レイモンド・バクスターしやくの処女作にした。じゆうこうかつてつがく的で難解。そんなうたい文句に気ががれて、田舎いなかにいたときからけていた名作だ。

(いい機会よ。これも勉強と思って、絶対に読破するわ)

 紅茶を淹れてから食堂のに座り、文字で真っ黒なページをめくる。独特な文体に目がすべり、何度も同じ場面をいったりきたりした。それがくやしくて、ページをもどり、また進むをり返しながら、ジルはじわじわと彼の文学世界にぼつとうしていった。

 やがて文体のリズムに慣れると、おもしろくなりはじめる。夢中で第一章をめくり続けていると、自分がどこにいてなにをしているのか、すっかり忘れ去ってしまった。

 だから、第一章を読み終えそうになった矢先、

「……タイトルは?」

 とつじよそそがれた暗いこわに、ジルは飛び上がった。おののいて見上げると、数冊の本をわきかかえた、深みのあるブロンドヘアの青年がそこにいた。

 ねんれいは二十代前半。眼鏡めがねをかけており、知性を感じさせるすずしげな瞳の色はヘーゼル。息をのむほどのたんせいな容姿だが、その眼差しは暗くどんよりとしていた。

(この方は……きっとそうよ!)

 そうそうたるたい俳優や音楽家、作家が出入りするバクスターはくしやく家の長子。

〝知の守護者マスター〟との異名を持つ、レイモンド・バクスター子爵だ。

 十歳にして国王に見いだされ、とう会ではそつきようでピアノ演奏をろうし、神童とのさんをほしいままにする。じやつかん十五歳にして、いまジルの読んでいる処女作を発表した。

 貧しい人々の尊厳について真正面からいどんだよく作に、文学界はそうぜんとなり、彼の作風を真似た作家が次々に登場するまでになったという。

 まさしく若き天才──デイランドがほこる、知の宝庫……なのだが。

 彼の文学をたたえるのは、名だたる評論家たちだけという評判が哀しい。なにしろ内容が重々しく、いつぱんの読者が読み終えるには、つきを要するようなものばかりだからだ。

 そんな彼のとつぜんの登場に、ジルはこうちよくした。身動きできずにいると、レイモンドが本に手をばす。人差し指でパタンと閉じるとかかげ持ち、タイトルを目にしたとたんしつしようした。

「ああ……紳士のしよさいにふさわしい、かしこさをするインテリアの一部。評論家以外まともに読まない……いや、読めないとなぜか絶賛された、私の処女作ではありませんか」

 そのとおりかもしれないが、なんという後ろ向きな発言だろう。呆気あつけにとられるジルを、彼はあざけるように流し見た。

「……で? 私に〝読んでいます〟と見せつけ、私にめてもらおうとしているあなたは、いったいどこのだれなのですか」

(なんてことなの。すっかりひねくれてしまっているわ)

 暗くいんうつな語調を聞いているだけで、こちらの気力が削がれそうだ。

「じょ……助手のジル・シルベスターと申します。昨日からこちらにおります」

「なるほど。読んだふりをして私のとうちやくを待つとは、ずいぶんざかしい助手が来たものです」

 レイモンドは本をテーブルにほうり投げ、きびすを返した。

「私の半径三メートル以内に入らないように。せいじような空気が、あなたの小賢しさによどんでちつそくします」

 あまりのどくぜつにジルが絶句した直後、彼は食堂から出てしまった。いや──誤解されたまま去らせてはいけない!

「お、お待ちください」

「いやです」

 さっさと大階段を上ってしまう。その背中に、ジルは言った。

「あの! きちんと読んでおりました。たしかにはじめは難しく感じましたが、もう少しで第一章を読み終わります」

「ああ、そうですか」

 冷ややかな棒読みの声音から、信じていないのはあきらかだ。どうしたらいいのだろう。そう思いなやんだせつ、ひらめいた。

「読み終わったというしようとして、ぜひ、感想文を提出させていただきたいのですが」

 ピタリとレイモンドが足を止めた──そのとき。

 ──コツ……ン。

 くつおとがロビーにこだまし、ジルはとっさにとびらぐちり返った。男性が立っている。

「……おい。どうしたことだ」

 年齢はライナスと同じくらいだろう。ゆるやかに波打つ長めのかみは、銀糸のようなプラチナブロンドで、まえがみごと片側の耳にかけている。するどひとみんだ湖畔のような青。ライナスとかたを並べるほどの美しい容姿だが、彼にはライナスにないあつかんがあった。

 磨き上げられた靴、しわ一つないシャツ、アスコットタイ。こうたくのあるグレーの上着から水色のベストをちらりとのぞかせ、タイトなズボンは白。色合いといい素材といい、すべてが上質で洗練されており、彼のしなやかな姿体を引き立てている。

 そんなかなりの洒落しやれ者は、ジルを見るなり思いきり顔をしかめた。

「どうして女が、ここにいる?」

(──えっ……!)

 ジルはがくぜんとした。なぜ、わかったのか。コツコツと靴音を鳴らしながら、彼が近づいて来る。目前に立たれて見下ろされ、ジルの額に冷やあせかんだ。

「ぼ……僕は男で」

 す、と言い終える前に、彼の声が重なる。

「女みたいだと思って、からかっただけだ」

 ジルはあんの息をく。だが、彼の射るようなまなしはそれない。尊大な態度でうでを組むと、ジルの靴の先から頭上まで、ゆっくりと険しげな視線をわせていく。

「靴は五年前に流行したものか。しんのたしなみたるポケットチーフはどうした」

 しまった。れいじようにあげたまま、別のものをすのを忘れていた。

 身なりに対するただならぬてき。彼が何者なのか、ジルはしゆんに察した。

 前王おう従姉いとこを祖母にもち、幼いころから王宮を庭として親しんできた貴族の一人。

がみ守護者マスター〟との異名を持つ──アンドリュー・スタンリー=ベイフォード公爵だ。

 王宮一の洒落者として通っていた祖母のえいきようで、女性の服装やそうしよくに興味をいだき、十八歳にして幼なじみである王女のドレスを手がける。これが社交界の女性たちをにぎわせることになり、彼がデザインしたドレスや装飾品を真似まねしはじめ、デイランドの流行は彼がつくると謳われるまでになった。そんな彼自身のよそおいにも注目が集まり、紳士たちはきそうように彼の身なりをお手本にしている。

 その一方で、屋内をいろどるタペストリーやカーテンなどのテキスタイルも手がけており、女性たちはそれらを手に入れようと、やっきになっているという。

 王女の側近であり専任のデザイナー。そして、女性がほつする装飾品の流行を生み出すたいの洒落者。その彼が、ジルを厳しく見すえた。

「まさかお前は、新しい助手か?」

「はい、昨日からこちらにおります。ジル・シルベスターと申します」

〝美こそ正義〟と言わんばかりにまゆをひそめた彼は、けんをあらわにしてたんそくした。

 彼にとって美しくないもの、流行遅おくれのもの。それらを身につけている者は誰であろうと、見下げる対象になるらしい。彼のさげすんだような眼差しが、なによりの証拠だ。

「上着もベストもズボンも古くさく、はなやかさに欠ける。お前は本当に貴族なのか」

 父のお下がりを〝古くさい〟と一刀両断するきようれつさに、ジルは舌を巻いた。これはすごい、たしかにげたくなるかもしれない。

「貴族です」

「出身は? キルハだなどと、うそは言うなよ」

「イーゴウ地方です」

 きつく目をすがめた彼は、いまだレイモンドが立ち止まっている大階段を見上げてさけんだ。

「──カーティス!」

 開閉音がこだまし、間を置かずにカーティスが現れた。

「……ああっ、なんだと言うのだ。静かにしてくれ、アンドリュー!」

「どうして彼をやとった? ったい田舎いなか貴族だぞ、ほかにいなかったのか」

 またかと言いたげなあきれ顔で、階上のカーティスはガシガシと頭をかいた。

「そうだ」

 アンドリューの言動は、ジルに田舎町でのことを思い出させた。ゆうふくな商家の令嬢たちに出くわすと、貧しい身なりを笑われることがよくあった。自分のことはまんできたが、妹が傷ついて泣くのだけはえられなかった。それでも男爵家のげんを保つべく、けっして言い争ったりはしなかった。ただ、こう言うだけだ。

「アンドリュー様。あなたの高い美意識には敬意を表します」

 さもげんそうに、アンドリューは片眉をつり上げた。

「田舎貴族ではありますが、最低限のれいは保っていると自負しております。ですが、お給金をいただけたあかつきには、この場にふさわしい華やかな身なりにすると、お約束いたします。けれど、一つだけ申し上げたいことがございます」

 そんなことを告げる助手はいなかったのだろう。一瞬息をのんだアンドリューは、ジルをきつくにらみすえた。

「……なんだ」

 ジルはしんに、彼の険しい瞳を見返した。

「あなたのようになりたくても、なれない人たちもおります」

 もって生まれたセンスや、かざる余裕の富。それらがある者とない者がいる。

「すべての人たちが、身なりに注意をはらえる立場にあるわけではないと、どうかご理解いただきたいのです」

 アンドリューは〝美〟に厳しい。だが、その〝美〟にも多様な価値観がある。

 彼の美意識が絶対的ではないと、さらに意義を申し立てたかったが、助手であるジルは言葉をのんだ。彼のその美意識に追いつかなければ、一年もここにはいられない。下手へたをすれば、クビになるかもしれないからだ。

 きんちようで足がふるえる。それでもジルは、勇気を振りしぼった。

「けれど、僕はここの助手です。あなたの美意識に少しでも追いつけるよう、必ず努力いたします」

 ……しん……とロビーが、静まり返った。と──その直後。

「よく言ったな、ジル少年」

 カーティスが言う。その声におどろいて見上げると、いつの間にかカーティスの横にライナスが立っていた。

「アンドリューにそう言った助手は、君がはじめてだ」

 アンドリューの言動よりもおそろしいライナスの視線に、ジルはひそかにぶるいした。

 押しだまったアンドリューは不機嫌そうにジルをいちべつし、大階段を上がって行く。姿が見えなくなったところで、レイモンドがぽつりとつぶやいた。

「彼を無言で立ち去らせたのも、あなたがはじめてですよ」

 そう言って眼鏡めがねを押し上げると、うたぐり深そうな眼差しを、ロビーに立つジルにそそいだ。

「……感想文の提出を、許可してあげてもいいでしょう。読破できれば、ですが」

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