1.Angel of Death 1


 三時間前。

 轟音が鳴り響く、金属製のはらわた。赤い光で照らされたその体内には、神経系である制御ケーブルが張り巡らされ、血管代わりに電源ケーブルが渡され、それぞれが臓器につながる。それでようやくこの内なる世界は、生物が生き延びられる最低限の状態を形取られ、自らを含めて十人余の兵士が庇護することができる。

 未歩は周囲を見渡す。機上輸送管理担当ロードマスターによって胎内の減圧が開始されたため、全員が酸素マスクを被り、そして巨大な荷物を背負っている。

 そして、マスク越しに見える彼らの目には、手足の震えには、等しく怯えがある。

 彼らは口々につぶやく。またがやってくる。が俺たちを喰らい尽くす。がわたしたちを狂わせ、乗っ取られる。黒くて、大量の頭を持つ怪物が少女の人面を近づけてくる。それを見たやつは何もかもが終わる。

 彼らの目は泳ぎ続けていて、歯を鳴らすものも現れていた。

 そのなかで亜津満未歩は周囲に声を張る。

「— 御使の皆さま、心を落ち着かせてください」

 彼らの目は未歩に向けられたが、すぐに視線は下に向けられる。これから向かう、地獄の底を多くの人は見つめている。彼らの腕章に書かれた二枚の翼。それは天使を意味していた。

 未歩はバイタルチェックをしようとリストバンドのようなもののついた左手を横にスワイプする。すると、天使達の体に巻きつけられたベルトの各所が光り、視界の中に他の天使たちの情報が羅列される。現在の天使たちの行動と生体反応の記録が高速で行われているのが確認できたが、そこに映し出されていた診断結果は「精神状態:危険」というものだった。バイタルサインは全員の動悸を示しており、たった今スーツから投与された薬剤によっても効果が見込めない状態となっている。

 未歩は焦燥に駆られながらも続ける。

「我々がエクソスーツ・ベルトから得られる状態から皆様にできるのは、サポートまでです。皆さんの意志がなければ、この戦場で勝つことはできません。皆さんの命を保護し、戦場で相当を完了するには、私たちの開発だけでなく、皆さんの意志が必要です」

 天使達は沈黙を続け、目を泳がせ続ける。まるで、命の終わりに怯えるかのように。

 他に打つ手を求めて、すべての情報をスワイプしながら確認していく。

 はどこだ、どこだ、どこだ。

 焦りでデータを見る目が滑り、不安の渦に真っ逆さまに落ちていくかのようだった。データは答えを語らない。ただ、事実として、天使達が怖いと感じていること以外、示されていることはないようにしか見えない。

 けれど、わたしも知っている。天使の彼の気配と、似て非なるもの。背筋に悪寒を走らせ、やがてそれを感じ、あの獣を目撃した天使の多くは恐怖に囚われて動けなくなり、銃弾の的になり、死に至る。

 ではとはなんだ。の答えはどこだ。あの、は一体なんなのか。そう歯噛みしていたとき、今までになかった声が聞こえた気がして、未歩はその元になっているある一人の女性天使を見つめる。彼女は、マスク越しに泣きじゃくっていた。

 そのとき、その女性天使が学生の時の自分の姿になっていた。私は、泣いていた。

 あのときと同じなんだ。

 未歩はそれを直感で理解していた。

 私の周囲には、いじめてくる人たち。彼らは、彼女達は、私にこう言ってきた。

「泣いても済むわけないじゃん」「あんたのために教えてあげてるんだよ」「オルトラハム人じゃないからついていけないんだ」

 そのとき私の目の前に、顔のない彼は機械を介して現れて、そしていじめてくる人たちを追い払ってくれた。

 彼が私にやってくれたことは— 私は考える。それは力のない私にもできることのはずだった。それは、大丈夫だと言うことだけではなかったはずだ。私は、かつていじめてきたオルトラハム人たちであるかもしれない天使達のことを、もう一度考え直す。

 彼ら天使にもまた命には限りがあり、そして酸素が必要だ。それはこのエクソスーツを通して見るバイタルチェックからよく知っていた。

 命には限りがある。どんな叡智を持とうとも、天使であろうとも、戦場に立てば、この心音が止まることを避けることはとても難しい。今度こそ、無に帰るかもしれない。

 ここは、すでに神々の世界なのだから。

 が— 悪霊が、彼らにサイバー攻撃によって不可能というレッテルを貼り、洗脳し、やがて絶望とともに殺していく。絶望が、怖いという気持ちが、彼らを追い詰めていく。

 ならば。

「あなたたちの「怖い」という気持ちは、まもなく報われます」

 今までと全く違う言葉に、泣いていた天使は顔を上げる。

「行動することです。さすれば神も動かれます《Act, and God will act.》」

 その言葉に、その天使は目を見開いていた。他の天使達も、驚いたように顔を上げた。聞いたことのある一節だったからだろう。未歩はただマスク越しに微笑むしかなかった。

 未歩たちを包んでいた金属製の腑は切り開かれ、自らのいる場所を見せていく。そのとき、強烈な寒風と暗闇が差し込む。太陽が、唯一の神が未だ現れていない世界の大空。胎内の天使達は徐々に重い腰をあげて立ち上がっていく。そして、やがて誰もが未歩に会釈をしたのち、腑から飛び出していく。そのなかで、泣きじゃくっていた女性が未歩をまじまじと見つめたかと思うと、おもむろに空へと飛び出していった。

 あの言葉が気に入らなかったのだろうか、と思っていた時、白い装束の人物— もう一人の同僚の救済者もまた、腑から飛び出していく。それを見て、自分が最後になっていたことに気づく。未歩も、腑の縁に立つ。この地上の地獄へ向かうために。

 そのとき、機上輸送管理担当ロードマスターが彼女に笑いかけ、語りかけてくる。

総帥かみのご加護を、聖少女殿ジャンヌ・ダルク

 そんなのじゃないですよ、と未歩は笑う。そして、空へと飛び出す。

 見送る機上輸送管理担当ロードマスターは、空へと落ちていく聖女を見つめながら無線を切り、ひとりごちる。

「言っておけば、本当にそうなるかもしれないだろ。あの『堕ちかけ』の聖霊を押しとどめていたんだからね」

 職務を全うしているように見えた男は、微笑む。

「あの聖霊を手にして、真の聖女となるのか、はたまた魔女となるのか。その真価を見定めさせてもらうさ。幽霊付き」

 そんな声を聞くこともなく、未歩は永遠に続く、体重が体から抜け落ちる感覚に身を任せていた。同時に起きる強烈な冷却。手からは次第に体温が抜けていき、感覚が失われ始める。味方の通信で、目標地点へとまっすぐ向かうことだけを理解する。ますます体勢を垂直に傾けて彼らの場所へ向かいながら、目標の場所を見つめる。砂漠に包まれた夜明け前の地上には、豊穣な大地は存在しない。そこにぽつんと存在する中東の元空軍基地。それが、今回の降下目標地点だった。

 未歩は同僚かつリーダーであるもうひとりの救済者から、その作戦の説明を受けていたことを思い出していく。

火星到達計画オペレーション:マーズシュート。それが総帥達、情報統合局Intelingence Integrated Agency - IIAが名付けた作戦名となる」

「火星……とはいえ、行く先は中東なのでは……」

 未歩の語る言葉に同僚は頷く。「そうだ。だが、これから向かう空軍基地は、火星のような場所だ、とオルトラハムの中枢の会議室で談笑になったらしい」

 首を傾げる未歩に同僚の男は続ける。

「ある映画における将校は、中東の空軍基地を、かつて我々人類の目指した場所— 火星のような存在と語った。砂漠に張り巡らされた鉄条網のなかには、百に近い複数の国家。中で暮らす兵士の三分の二は、防御壁の外も見たことがない。外での活動は全て鉄線の中で管理されて、その大気の三〇%は人間の排出物で汚染されている、と」

 未歩が納得して頷くのを同僚は見ながら、「夢と希望の最前線たる火星は— この敵対者達のたどり着いた基地は— 未だに人が快適に住めるようにはできていない。だからこそ、敵はここを本拠地として、秘匿を貫いていた。炎しかない地獄の底で、彼らが城を造り上げたように。今回の任務は、彼らの城の破壊、そして殲滅となる」

 そうして、未歩たちが向かうのもその火星の名残でしかなく、つまり現地の住民と戦闘を実施するというわけではないことを、そのとき知らされた。

 かつて中東に平和をもたらすべく空港から変貌を遂げた城は、今や敵の籠城先となり、そこがいかに価値がなかろうとも、物流ロジスティクスは複数の反体制派の勢力によって保持されている。事実、遠くから見ても装甲車と同時にわずかにトラックが行き来していた。それが、彼らにとっての生命線であり、同時に権力の強さを表していた。

 過去の栄光を今の商流の素晴らしさとして欺瞞する様— 大抵の経済価値コモディティと化した商材を使う商社も物流業者も行うことだが— は、その企業規模のためにマフィア以上の脅しをかけることも多々ある、と同僚は語った。その商流が消えれば、全てをやり直さなければならない。そんな力は業者にも、マフィアにもない。そうして敵対者が地上のマフィアを支配して、あの場所を動かしていることは、総帥達から与えられた情報から判明している。

 わざわざこうして直接侵入するのは、鉄則から見れば完全に逸脱している。本来は友軍と、敵軍の中間地点。かつレーダーに認識されない場所が選ばれる。降下地点も目標地点から遠くにならざるを得ないが、そこまでしなければ、安全性が確保できないどころか、見つかれば蜂の巣にされてしまうからだ。

 それでも降下するのは、戦場にたどり着く前に無人機で殺され尽くすのを避けるためでしかない。

 深夜の中で、同胞たちの軍団を見つめる。すると救済者の男が通信越しに語りかけてくる。

「未歩も合流したか。パラシュートを開け」

 そして、彼らは各々にパラシュートを広げていく。未歩もそれに従ってパラシュートを開き、緩やかな降下に身をまかせながら、その降下地点を見つめる。本来は人の多いはずの住居エリア。混乱を極めているはずなのに、ほとんどの人間が出払っている。どう見てもおかしい。殲滅作戦のためにこうして降下作戦が実行されたというのに。周囲からはそのようなどよめきが響いている。

 着地後、それぞれがパラシュートと酸素マスクを外していき、そして同胞の白い救済者がハンドサインを送って来て、それぞれの行き先へ向かうように指示してくる。未歩はそれを見て、自らの向かうべき場所を見つめる。高台になっている場所、空軍基地の管制塔だ。未歩は背負っていた奇妙な銃を確かめる。

 銃弾をばらまくことで身を守る短機関銃サブマシンガンと、遠距離まで正確に連射可能な突撃用自動小銃アサルトライフルの中間。人間工学を取り込むことで使いやすさと曲線の奇妙さを併せ持った、個人防衛火器パーソナル・ディフェンス・ウェポン、それが、このP45。自身を守ることしかできないかもしれないが、それでも生き残るのが救済者であり、研究者としての役割だ。

 再びリストバンドのようなもののついた左手を横にスワイプする。すると、視界の中に他の天使たちの情報が羅列される。この戦いでの天使たちの行動の記録を行われているのが確認できた。

 そう、この行動履歴を持ち帰らなければならない。次の戦いのためにも。その天使たちが動き出したのが確認され、未歩も静かに前進を開始する。

 敵に悟られないように隠密行軍スニーキングをしながら、今回の作戦の統括者である救済者は無線で、怯える天使たちへと、作戦の内容を伝える。堅苦しく、しかし若々しい声をもってして。

「御使の皆様。今回の相手は、例のごとく反体制派の連合脱退国リーヴネーションズ。先進国のほとんどはオルトラハムと協調し、その制空権の庇護と物資を受け入れましたが、それに同調しない国内の勢力は未だに存在しております。奴らは元々は軍人であり、官僚であり、もっと言えばそれに連なる民間業者です。だからこそ、あの空軍基地はかつての同胞を使って自らの根城を維持できて、管理も容易であり、さらに攻撃を行うことすらもできるのです。

 今回の任務の目的は、敵の戦力を壊滅させること。そのための目標は、この敵の城の完全な破壊と、敵戦力著しい低下と、重要参考人の確保、連行です。この敵の本拠地が判明したのは、数年前に発生したオルトラハムに対するテロの実行者がここに潜伏したという情報からでございました。テロの実行者は、禁断の果実を諸人に与えてしまう白金の鍵に関する重要な情報を持っているとされています。そこからこの城の調査の結果、ここの通信基地を使用して攻撃していることが判明し、当作戦、火星到達作戦オペレーション:マーズシュートの実施が決定しました。敵地への直接投入は、敵の無人機を可能な限り使わせないために実施したものです」

 救済者は続ける。「皆様もご存知の通り、敵の本拠地のため、まず外界からのあらゆる通信や物資を止める任務が同時並行で進行中です。現在、敵は複数の補給ルートを攻撃されていることで無人機が停止し、混乱が生じております。我々はその時に生まれる隙をついて、殲滅を実施します」

 未歩がテントの陰に隠れながら無線に応答する。「そのテロって、なんですか」

 救済者のここまでの敬語が崩れる。「教え忘れていたな、日本のマイアミビーチで起きた、天使殺害事件だ」

 首をかしげながらも、周囲を見渡す。敵はいない。「マイアミビーチ……それはアメリカにあるのでは」

 いや、日本にもあるはずだ、と救済者は返し、

「リゾート地だったと聞いている。行ったことないのか、未歩。たしか日本での名前は……マイハマ、だったか」

 その言葉を聞いた時、ふと言葉が溢れる。「舞浜、浦安市の……」

 リーダーは詳しいな、と笑うため否定し、「私はずっとオルトラハムに住んでました、なので知ってるはずがないんですが……」

 リーダーが応答する。「テレビのニュースでも何度か流れたことはある。大きくは取り上げられていなかったが」

 なんで日本で天使が殺されたんですか、と未歩は後続の怯える女性天使を眺めながら訊ねる。

「わからん。狙われた天使のなかに官僚連中と、技術者がいたこと以外はな。相手から考えて反天使の勢力だったとしか思えない、そう結論づけられて、今に至る。これから行く空軍基地の中心人物と聞かされている。つけられた暗号名は、魔女リリスだ」

 間もなく到着する、とリーダーは言って、各自散開し始める。

 遠くから見え始めた景色— 空軍基地の厳重な警戒状況— からようやく、今回攻め込む場所がこれまでの戦場とは本質的に異なっていることを理解する。周囲の同胞の天使も息を飲み、後ろにいた女性天使が口を開く。

「やっぱり大きすぎる……」

 救済者が応答し、「そうでしょう、亜紀様。普通であれば攻略対象にしてはならない戦場です。なぜなら、これから相手にするのは擬似的な国家だからです」

「なぜ、そうまでしてこの作戦が……」と未歩が訊ねると、救済者は少し黙り、そして語りかける。

「総帥たちは、まもなく全てを終わらせようとしている。聞いたことは?」

 いえ、と未歩は応答する。リーダーはさらに間をおいて語り始める。

「この世界には、もはや国家なるものの存在は非常に希薄だ。なぜなら、本物の主が現れて、平伏してしまったのだから。そんななか、自主的に、そして主人あるじにも背いて国家を立てて反逆する連中は、何に該当する?」

「敵対者、ではあると思いますが」

「だいたい合っている、だが、主に歯向かうとなれば、今は宗教色を避けられない。我らオルトラハム人を天使だの救済者だのと呼ばせたりしていることからも。地上に存在したバチカンなどという偽りの預言者、端的に言えばCOILを持った素振りだけの者共の集まった場所、それすらも、オルトラハムから同じ名前で呼ばれ、そして建造物以外のすべてを解体し、接収され、人員も文化すら取り込まれる運命を辿った。多くの者達は気付いてはいないだろうが」

 そのとき、亜紀と呼ばれた女性天使が答える。「……悪魔、ですか」

「そう、悪魔です。異なる信仰を広げたもの、というよりは、信仰や金品などを用いて、自身の利益のために人を洗脳し、支配し続けた連中。それは、主からすれば悪徳です。自らに歯向かい、同じ真似を自主的に行う者共に、主は許すことなく合併という大義名分をもって天誅を下し続けた。この作戦は、その悪魔たちを滅ぼし、洗脳から解放するための大詰めなのです」

 今見えている空軍基地を見つめる。海に浮かぶオルトラハム空軍のものと比べればひどく小さく、それでいながらオルトラハム以上の長い歴史を持つ、鋼鉄の鳥たちの神殿。

 そもそも同じ真似をしているのは、奪い取っているのは、自分たちではないだろうか。

「なぜ、総帥はそこまで……自分の教師である、彼ら人間に厳しいのでしょう」

主人あるじのように、嫉妬深くなければ世界を救えないからだ」

 その歯に衣着せぬ物言いに動揺する。だが救済者は臆することなく続ける。

「この世界に存在していた旧約聖書、そのほとんどを主は成し遂げたと豪語した。あれだけ人間の欲望に厳しく、卑下するような態度を許さない存在であることを振る舞うのは、言ってしまえば— 狂っている。自らの権力や権能に溺れたとされる古今東西存在する矮小な者共との違いは、もはやその規模の差でしかない」

 神へと歯向かうような口調に動揺が訪れる。救済者が、なぜこうして主人あるじに、総帥に否定の言葉を投げかけているのだろうか。未歩が思索するなかで、救済者はメンバーのひとりに語りかけ、

「その電源ケーブル二つを爆破すれば、電源系と同時に通信系が一時的に落ちます。その切り替えのとき、電子攻撃隊がクラッキングをしかけ、航空管制塔を麻痺させる手筈です。そうすればここに空軍がやってくることができます。実行を」

 少し経つと、周囲のすべての照明が落ち、すべてが暗闇の中に沈む。だが、目が慣れてくると、それでも周囲が月明かりによって見えるようになっていく。地上の光が消えた、天の恵み以外のない世界。天上の神だけが支配する世界。

 天上の空はもはや暗く全ては静寂に満ちている。神の怒りの前の静けさ。まもなく、神の稲妻は落ちてくるのだろう。

 つまり、これから爆破が起き、戦争が始まる。史上最大の神々の降下作戦。今度こそ、失敗は許されない。

 そう、今度こそ。

 女性天使が未歩に近づき、そして話しかけてくる。

「おつよいですね、救済者様」

 その顔を見て、話しかけてきた天使は、亜紀と呼ばれた人物は、さきほど泣きじゃくっていた女性だったことにようやく気づく。

「他の人たちはだんまりなのに、あなただけが、さくとやりとりができている」

 リーダーのことを朔と呼んだことにも驚いたが、そこは平静を保とうとする。

「買いかぶりですよ。亜紀様のように、私は銃の使い方も知りません」

 そういう強さじゃないですよ、と天使は首を振って、「……あなたはこわくないんですか」

「怖いです。でも、為すべきことがある。それだけです」

 未歩の答えに天使は弱々しく笑い、「すごいなあ……救済の意志を持つ人たちは、みんなそんなに心がおつよいんでしょうか……」

 天使は顔を俯ける。「わたしみたいな覚えたことをただ繰り返すだけの者には、到底かなわない……だから、あなたのような主導者の代理人を、私たちは必要としている」

 未歩は被りを振り、「私は、天使になりたかったんです。あなたのような、感情よりも叡智を持てる御使様に……」

 そう。あの空を駆ける天使のようになりたかったと未歩は暗闇を見つめる。その絶対的な叡智。それを持てたら、私はきっと、ずっとよい世界にたどり着ける。彼を伴って。ふと言葉が返ってこないのに気づき、未歩は天使へ振り返る。

 驚嘆の眼差しが、こちらを覗き込んでいる。「それは……禁忌に触れたいということですか……」

 未歩は焦って訂正する。「いえ、決してそんなつもりでは……」

 そう言っていたのを、天使は首を振って、先ほどとは打って変わって微笑む。「信じられない。まさか、こんな危なくて、恐ろしいところで逸材に出会ってしまうなんて……」

 「逸材……」未歩はわけもわからず聞き返している。それに対して、使は微笑む。

「はじめまして。私は現地調査を担当する情報統合局Intelingence Integrated Agency - IIA御上亜紀みかみ あきと申します。熾天使セラフ選定のために、派遣されてきました」

 未歩からすれば、信じられない一言だった。それは、本来ここにいるはずのない人間のひとり。オルトラハムの中枢にいるはずの人物。それが、この暗闇の月光のなか微笑んでいるからだ。「天使ではなく……総帥がなぜここに……」

 そのとき、未歩には疑問とは異なるひとつの天啓-- 直感とも呼べる悪寒が訪れる。

「悪霊が来たようです」

そして、未歩が振り返った先には、黒く、大量の頭を持つ怪物がいた。それらのうちの一つが、顔を近づけてくる。それは竜と思われたが、少女の人面に変わる。

『みつけた、どうるい』

 その姿は、その声は、彼のものではない。

 未歩は自らの右手の個人防衛火器パーソナル・ディフェンス・ウェポンを素早く引き出し、そして人面に向かって──虚空に向かって発射する。放たれた銃弾が、何かを切り裂いた。人面は叫び、そした眉間を穿たれた顔でこちらを凝視したかと思えば、

『みたな……ころしてやるっ』

そして消え去っていく。

 現実で倒れたのは、巨大な犬のような兵器だった。

 それと同時に、潰したはずの照明が全て再点灯する。その光で、兵器から赤い血が流れていることと、兵器そのものが一体なんだったのか気づいた。

 無人機。それも、動物と機械を融合させ、それを遠隔で操作する型。まだほとんど見たことがない、敵の新兵器だったはずだ。

 それと同時に、少し先にいた天使たちふたりが膝立ちになったかと思えば頭を何かに打ち付けられ、倒れていく。そして、頭がひしゃげ、そこから血が雪崩のように上から下へと落ちていく。無事だった亜紀は腰を抜かし、遅れて叫び出す。さらに数ブロック先から爆発が起き、無線の先から銃弾と爆発の音が響いた。その先にはリーダーがいるはずだった。未歩は亜紀の手を引っ張りながら無線をかける。

「リーダー、応答してください、リーダー」

「すまん、やられた。総帥から預かった御使様たちも、誰一人、俺は守れなかった。ここまでだ」

 亜紀が絶叫しているのを抱きとめつつ、未歩は語りかける。

「どこにいますか、撤退しましょう」

「……いや、その必要はもうない。輸送機も撃墜されたのか応答がない。我々に撤退は不可能だ」

 そんな、という言葉も無視し、リーダーは淡々と続ける。

「敵の管制塔は沈黙したが、我々の地上への援軍は一時間かかる。本部へは連絡した。だが誰も支援できる者はいない」

 なんでそんなに冷静なんですか、はやく逃げましょう、そう言いながら、未歩は必死に周囲を見渡す。無事でいる味方すらも、いま抱きかかえている彼女以外は見つけられずにいる。一面に広がる天使の死体を十数えたところで、それに意味がなかったことだと気づく。

「朔、どうして、どうして反応がないのっ」

 亜紀の叫びに、未歩もまた左手をスワイプする。死を意味する灰色にならずに緑色の状態ステータスで残っているのは未歩と亜紀の名前だけで、。つまり腕についていたセンサーがなくなったということであり—

「仕方ありません。これもまた、私の必然だったんですよ」

 いやだ、いやだ、亜紀がそう叫んでいるなか、リーダーは「覚えておけ、未歩」とごほごほと咳き込みながら言葉を吐く。

「神の世界には、奴らのような連中は必要ない。そして、その作戦を決行するためにここまで来た我々すらも、もはや必要なくなったんだ」

 悪魔も、神も必要ない。では何が残ると言うのか。そうして未歩が言葉の意味を考えいていた時、何か大きな物が落ちる音を聞いて、亜紀を抱えてとっさに走り出す。そして、彼女たちの後ろで爆発が巻き起こる。未歩と亜紀は難を逃れたものの、砂を吸い込んだために咳き込む。そして、リーダーからの通信は途切れた。

 さきほどの空軍基地の状態から考慮しても、敵の位置はわからない。飛来した攻撃の方向すらも特定できない。奇襲を受けた時にいつも起きる事象。今はただ、かわすこと以外の術を持たない。ここはすでに混沌に堕ちた。未歩は、涙をこぼし、諦観の眼差しの亜紀に告げる。

「御使様、いえ、女神様。作戦は失敗です。倒すべき敵はおらず、我々に逃げる手段はありません」

「いつも通りに、ですか……」

 この女神の話す通り、計画された潜入作戦で、完全な勝利となった試しは一度たりともない。それは、かつて地上の覇王として君臨した米国という国が、一介の国や宗教団体、サイバーテロリストにほんのわずかな情報不足とほんの少しの機転だけで苦労し続けた歴史が証明している。本来戦争は、すでに決着がついているならば戦闘そのものすら起こりえない。平和とは、軍事力の差ではない。軍事力によってもたらされる恐怖— それも思考停止させるだけの恐怖への、圧倒的な差でしかない。

 未歩は起き上がりながら、自らの手に握られた銃をさらに振り回して発射する。すると飛来して来た犬型の無人兵器はひしゃげ、壊れて地上に叩き落される。彼女は自らのヘルメットが無人兵器の銃で破壊され、スパークしたことに気づき、流れるように脱ぎ捨てる。ここまで全ての動作が、一連の流れフローとしてごく自然に統合されている。その踊るような光景を、諦観のうちにあった女神は感嘆の声を上げながら見つめる。

 肩に行かないほどで切られた髪、そして人間に愛されるために作られたかのような目鼻立ちが現れる。彼女のすらりと長く、白い細腕に、現実とは乖離した銃が握られている。その細腕をはじめとした全身にはベルトのようなものが巻かれ、それが高速で縮小し、肉体全てを流れるように使いこなしていく。その姿は拘束された人間のようであり、その動きはフラメンコにおける伝統的な踊り手バイラオーラそのものだった。

 これが、地上に顕現する救済者の姿。スペインのとある洞窟にひどく類似した文化を持つオルトラハム。それが神々の文明と融合することで完成した、新たな世代の救済者。奇妙な形の銃。彼女の右腕の銃の動きをなめらかにサポートする拘束具のような補強衣装エクソスーツ。これらはすべてオルトラハムで統合された技術の結晶だ。

 女神はその光景を見つめながら、綺麗、とつぶやいている。その反応に、未歩は自嘲的に笑うだけだった。その言葉が指すこの動きは、救済者と呼ばれる先導者になるための最低条件でしかないのだから。

「女神様、ずっと、銃の使い方を正しく理解する御使様や、戦うための方策を考え続ける総帥殿の方がずっと美しく、素晴らしいですよ」

 救済者は、踊りに付随させるかのように銃を振るう。発火炎マズルフラッシュと同時に動くシルエット。それは翼を連想させるが、未歩は自らを天使とも、救済者とも考えられなかった。すべてが、欠如している。現に国と総帥の財産である天使の全てを殺されてしまった。つまり救済者が救済者たりうる理由を持ち合わせておらず、この魂は地表に縛り付けられている。神々という絶対的な重力にも逆らえず、巨大な叡智の前に無力だ。それでありながら敵意への反応— 感情とも呼ばれるそれの予兆を背筋の悪寒でとらえ、そしてその視界に訪れるあの多頭の怪物を見つめながら、彼女は幾度となく、銃弾を雁字搦めの世界から放つ。補強衣装エクソスーツの補助によって銃の重みはほとんどなく、撃つ時ですらわずかな手応えだけが感じられる。敵の猛攻を前に未歩の踊りを止められることがないのは、この衣装が理由であり、そしてこの踊ることしかできない状況へと拘束していく。この踊りは自分しか、救うことができない。

 だがそれでも、未歩は悪霊から拘束された世界からわずかに動く意思を持って亜紀を引っ張り、二人ともに銃弾の猛攻から隠れる。そしてその猛攻の元を見つめる。基地の管制塔の真上、四足歩行のスナイパーたちが未歩へと銃を向けている。さらに敵の爆撃の理由を、上空を見上げて理解する。奇妙な形の航空機-- どう見ても人間の乗る場所がわからない無人機とされるもの-- が夜明け前の空を横切り、かつての主人たちの住居そのものを攻撃している。緊急発進でも幾分かの時間を必要とするのが航空機のサガだが、それにしてはあまりに早い。なによりも航空管制が麻痺しているのにすでに空を飛んでいること自体が異常と言わざるを得ない。つまり、と未歩は唇を噛む。

「敵はすべてを見越して、どこかから無人機達を送り込んでいる……」

 相手はこの降下作戦のことを知っている。それがもたらしたのは、地獄の底での鳥葬のような光景だった。テントの海に葬られた天の軍勢。そして、ネットワークの安全圏から自らの大地を攻撃を続ける悪魔達。周囲にはすでに砂に洗われつつある同胞だった赤い物体が飛び散っていて、そしてまだうめき声と叫び声が遠くからでも聞こえることに気づく。人間が天使を貶める光景。さらに、翼が生えているのは天使だけに限らず、人間すら機械の翼で戦う力を持っていて、あげく人間を創造主とした天使、いや悪魔すら飛び回っている。最後の審判を書き綴った人たちは、こんな無残な光景すら、本当は知っていたのだろうか。

 未歩は作戦が大失敗になったため、心の奥底に語りかける。

『助けて、六翼の御使様。私はここに……』

 その御使の顔はいつもわからなかった。だが、それでも天使は必ず訪れる。これまでのように。その確信があれば、今の未歩には十分だと思えた。

 でもだめだ、と未歩は思索を続ける。敵はネットワークによってこれらの無人機を使用している。それは空も、地上も変わらない。もしそうならば、あの熾天使は無限に押し寄せられる兵器でいずれ—  未歩は亜紀へ振り返る。

「空軍には作戦失敗を伝達します。空軍の彼らにまで、ここで死んで欲しくありません」

 怯え、涙をこぼしていた女神はどこか遠くを見つめていた。そして亜紀はそのまま語りかけてくる。

「ですが……悪魔達をこのまま野放しにするわけにはいきません。今まで一切報告のなかった無人機達の運用されている。ここにいる悪魔達はきっと……この中東基地以外の全てを破壊しに行く。ここで戦力を削ること、そして彼らの技術を調べること。なによりも、敵から白金の鍵を手にすること。すべて必須事項です。ですがそのためには、ここを制圧して無人機を正確に調べるしかない」

 しかし、と未歩が言おうとしたそのときに、亜紀が振り向き、「こっ、これは、あなたの試練でもあるんです」

 未歩が凍りついている中で、亜紀はおぼつかないながらも続ける。

「あなたを熾天使にするためには、白金の鍵がどうしても必要です。朔は、私たちのこの無理を聞いて、適任だとあなたを呼んだんです。でも、朔はもう……」

 涙を再び貯めながら、だから、と亜紀は未歩を食い入るように見つめる。

「あなたが天使になろうとするならば、私にみせてください。総帥への、いいえ、私への忠誠を」

 驚愕した。そして、固まってしまっていた。未歩はなんとかして声を形にする。「つまり、この状況下でも、失われた白金の鍵を手に入れてm作戦を完遂せよ、ということですか。それが、私を天使にする条件だと、そういうのですか」

 女神は、亜紀は、静かに、力強く頷く。その仕草が、未歩を動揺させる。

「私は、空軍を、あなたをお守りできるかわかりません」

 彼女が、女神が危険な状態のままなのは何としても避けたかった。だが、亜紀は未歩の左手をとる。そして、両手で握りしめる。そして、おもむろに語りかけてくる。

「行動することです。さすれば神も動かれます《Act, And God will act.》。あなたがそう言ってくれたんですよ」

 未歩は女神の言葉に捕らわれる。

「はじめに、光があった。そして、光だけが、神だけが絶対です」

 亜紀は見つめる。「オルトラハムは光だと、死を目前にした、ろくでなしの人は言ってました。全てが相対的かもしれません。ですが、この光は絶対的なものだって。この戦いは、この運命は、すでに神の勝利のためにある。そしてあなたは勝利を導く天使となるため— いいえ、使という光になるため、必ず私を守り抜く」

 亜紀は、その手を握りしめる。

「わたしにとって、あなたが、光なんです」

 わたしが、光— そう言葉を繰り返した時、亜紀はおもむろに頷く。

 世界の法則に、この拘束衣に、悪霊に雁字搦めのわたし。それでも、使である、光であるならば— 私が目指すべき道があるならば、それは、紛れもなく、この時、この場所にある。

 光は一瞬しかいられないのだから。

 未歩の左手が、亜紀の両手を握り返す。

 掴んだこの手は、絶対に離さない。

使。それが意味することが、私をに導くならば……私は、あなたの救済者になります」

 女神は救済者の意思を見て、微笑んだ。

 未歩は左手をスワイプさせ、画面を表示する。そして、電波の発信源を探す。どこもかしこも電波が溢れている。試しに一つにタッチして、システムダウンを命令する。たしかにそこの無線は死んだ。しかし、すぐに復活してきて、もう一度実行しても今度はシステムダウンすら起こせない。敵は私たちの攻撃をすぐに学習する。これは最早いまの人間のできる領域を超えていた。

「敵のシステムをシャットダウンしても復活してくる。あの悪霊の実態もわからないままです。これではどこを攻撃すればいいのか……」

 そうつぶやくと、亜紀は顔を曇らせる。

「……方法はひとつしかありません。以前の作戦同様、あの熾天使を呼んで、すべて破壊し尽くしてもらうしか」

 熾天使という言葉に未歩は動揺する。

「なぜ彼を……」

 その言葉に亜紀は「彼……たまきを知っているんですか」

 いえ、と未歩は答え、「名前はわかりません。でも、私を助けてくれた人なんです……だから……彼に会いたいんです」

 会いたい、という言葉を亜紀がおうむ返ししたかと思うと表情を変え、「まさか、あなたが未歩さんなんですか……あの幽霊付きの……」

 そう呼ばれることもありますが、と返すと、亜紀はためらうように顔をうつむけ、

「あなたは、熾天使がどのような存在か、ご存知ですか……」

「オルトラハム空軍における戦闘機パイロット、その最優秀の戦績を持つ人物……ではないのですか」

 亜紀はその回答に頷きながら、

「正解です、しかしそれはほんの一部の内容でしかありません。そうでなければ、空軍未経験のあなたが選定されることはあり得ません」

 未歩は首をかしげる。

「何かもっと別の、核となるものがあると……」

「ええ、残念ながら、あなたが会おうとしている熾天使は、あなたが言われるほど栄光に満ちたものではありません。私はその熾天使の後継者を選び取るためにここに来ました。でもその理由を幽霊付きのあなたは……知るべきではないかもしれません……」

 なぜ──と訊ねると、亜紀は答える。

「……熾天使とは、禁断の果実を使ってシステムを支配する存在。そして熾天使はその力を使い果たせば、まもなく死を迎えるしかないからです。彼はまもなく、その力を使い果たそうとしている……」

 未歩は呆然としていた。

「彼は……もうすぐ死ぬということですか……」

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