第40話 清香、人生最長の一日(6)

「全部私が悪いの。本当はもっと早く清吾さんとあなたの前に出て、二人の顔を正面から見て、きちんと謝るべきだったの。例え許して貰えなかったとしても」

「今更?」

 そこで冷え冷えとした清人の声が発せられたが、由紀子は話を続ける事を、躊躇いはしなかった。


「あなたが私のした事を、きちんと認識しているのは分かっていたわ。だからどうせ許して貰えないだろうとか、戻っても同じ事を繰り返しそうだからとか、色々理屈を付けて目を逸らして、その事を考えない様にしていた。でも……、今ならはっきりと理解できる。単に私は、自分が傷つきたく無かっただけだって。そしてその事で、他人がどんな風に傷つくのか、考えもしない傲慢な人間だったって」

「確かにそうだな」

 冷静に認める発言をした清人に、由紀子が座ったまま膝に頭が付く位に頭を下げる。


「だから、あなたの気が済むなら、好きなだけ罵倒してくれて構わないし、殴り倒されても構わないわ。そんな事であなた達に対するお詫びになるかは分からないけど、自分自身に区切りをつけたいから」

「……へえ、それは殊勝な心掛けですね」

 どこか皮肉っぽく清人が独り言の様に呟くと、その場に気まずい沈黙が漂った。そして暫くしてから、足元を見下ろしていた清人がボソッと言い出す。


「……父さんが再婚した香澄さんは、明るくて気立ての良い人で、何事にも前向きで挫けない人だった」

「そう……」

(ちょっと、お兄ちゃん! 何もここでいきなり、母さんを誉める話をしなくても良いでしょう? 由紀子さんの立場が無いじゃない!)

 何と返したら良いか分からず、のろのろと頭を上げて小さく相槌を打った由紀子の心境を思って、清香は心の中で憤慨したが、続く話で頭を抱えたくなった。


「結婚してすぐの頃、父さんからあなたの事を聞いたらしくて、気を遣って消息を教えてくれた。『清人君のお母さんを、何かのパーティーで見かけた事があるわ。再婚して清人君の弟も居るそうよ』って」

「香澄さんには、お目にかかった事が無いと思ってたわ」

(お母さん……、それ、気を遣ってっていうよりは、寧ろ無神経だと思う……)

 ある意味天然だった母親の所業に、清香は密かに呻いた。


「それで……、香澄さんに『香澄さんの事を、お母さんって呼びますか?』と聞いたら、逆に聞き返された。『清人君はお母さんの事を、何て呼んでいるの?』って」

「……え?」

(あの、お兄ちゃん? さっきから話があっちこっちに、飛んでいるんだけど。どう繋がってるわけ?)

 由紀子同様、戸惑った清香を完全に無視して、清人の話は続いた。


「当然『母親なんて居ないから、何とも呼べないな』と言ったら、無茶苦茶怒られた」

「どうして?」

「『私、清人君のお母さんらしい事を、何一つ出来ないのに、清人君を産んだ人を差し置いて、私がお母さんって呼ばれるわけにはいかないでしょう!』というのが理由だった。結婚当初、香澄さんは家事が壊滅的だったから、はっきり言って俺が面倒を見ていた。だから香澄さんがそう考える気持ちは、分からないでもない」

(お母さん、どれだけ酷かったの……)

 しみじみとそう語った清人を見て、驚きを隠せない様子の由紀子を見ながら、清香は自分の母親の当時の生活能力の無さに、思わず床に蹲りたくなるのを必死に堪えた。そんな清香にチラリと顔を向けてから、清人が由紀子に向き直って話を続ける。


「そうしたら『じゃあ清人君が、お母さんをお母さんって呼ぶなら、私の事もお母さんって呼んでもおかしく無いわよね。いきなり電話じゃ流石にハードルが高いだろうから、手紙を書いて』と脅迫された」

「…………あの」

「ちょっと待ってお兄ちゃん! 今の話、全っ然、意味が分からないんだけど!?」

 本気で困惑した様子を見せた由紀子だったが、それ以上に納得いかない顔付きで清香が清人に大声で迫った。すると清人が盛大に溜息を吐いてから、補足説明をする。


「だから……、全く交流が無い、世話もしていない人物を俺が母親と認識するなら、全然母親らしくない自分でも、母親と呼ばれる事に抵抗感が無くなるからとか何とか言ってだな……」

「何、それ? 益々意味不明」

「香澄さんは、時々独特な物の考え方をする上に、一度言い出したら聞かなくて。それから暫くの間、毎日目の前に葉書を出されて『お母さん元気ですか? 僕も元気で頑張ってますって書こうね?』と迫られたんだ」

(お母さん……。そんな風に無理強いして、益々お兄ちゃんが意固地になったんじゃない?)

 そんな事を思って顔を引き攣らせていた清香の耳に、小さな清人の呟きが入ってくる。


「しかも、よりにもよってあんなのじゃ……」

「あんなの、って何?」

 思わず突っ込んだ清香に、それで我に返ったらしい清人は慌てて弁解した。


「あ、いや、何でも無い」

「お兄ちゃん? さっき隠し事は、洗いざらい吐けって言ったよね?」

 そこで当然誤魔化される筈も無く、清香が上から睨み付ける。その視線を一身に浴びた清人は観念して、小声で呟いた。


「……バラの、ポストカード」

「はい?」

 意味不明な呟きに清香が眉を顰め、清人が益々言い難そうに話を続ける

「香澄さんは結婚してからは、極力無駄使いはしない様にしていたが、無類の可愛い物好きだったから、カードとかシールの類でささやかな贅沢をしていてな。自分のコレクションの中から、とっておきの一枚を俺に渡していたんだ」

 それを聞いた清香はそこはかとなく嫌な予感を覚えながら、次の質問を繰り出した。


「……具体的にはどんな?」

「全面にピンクのバラが咲き乱れていて、あちこちに妖精がチラホラ描かれている、かなりメルヘンチックな…………。あ、いや、別に、香澄さんに悪気があった訳じゃ無いぞ? 『これを送ったらお母さんだって絶対喜んでくれる筈だから!』と、自信満々に押し付けていたんだから」

「…………」

 慌てて弁解しつつ、香澄を庇う清人を見てから、清香と由紀子は示し合わせた様に無言のまま顔を見合わせた。それから清香が、恐る恐る確認を入れる。


「ねえ、お兄ちゃん……。因みに、それが普通の官製葉書だったら、素直に書いていた?」

「さあ…………、それは……、どうだろうな」

 清香からも由紀子からも、微妙に視線を外しながら答えた清人に、清香は頭痛がしてきた。


(あの反応なら、ひょっとしたら普通の官製葉書だったら、書いていたかも。やっぱり小学生男子には、電話よりハードル高かったんじゃない? お母さん……)

 そこで項垂れた清香は、ふと引っかかりを覚えて清人に質問した。


「ねえ、お兄ちゃん。お母さんがお兄ちゃんに由紀子さんと連絡を取らせようとしてたなら、どうして由紀子さんは亡くなった事になっていたの? 私が聞いた時、お兄ちゃんがそう言ってたのを、お母さん否定しなかったと思うんだけど」

 記憶を引っ張り上げつつ、不思議に思った清香はそう尋ねたが、清人はそれに言い難そうに答える。


「それは……、俺が香澄さんを脅したから……」

「脅した? どうして!?」

「清香が喋れるようになるのを、香澄さんは狙ってたんだ。自分と一緒に清香も『おてがみかこー』と言えば、お前を可愛がってる俺が、絶対に落ちると思って」

 清人が真顔でそう言った途端、清香は堪らず小さく噴き出した。


「ちょっとお兄ちゃん! それは幾ら何でも考え過ぎ。お母さんが私を使ってまで、そんな小細工をする筈」

「香澄さんは、お前に自分の名前を教えるより先に、さっき言った言葉を当時一歳のお前に、俺に隠れてコソコソと教え込んでいたんだ」

「え?」

「だから先手を打って、『清香の前では、あの人は亡くなった事にして下さい。それに清香に手紙を書く様に言わせたりしたら、今後家事育児を一切手伝いません』と宣言した」

 開き直って経過を説明した清人に、清香が引き攣った顔をで念を押す。


「……それで、お母さんは否定しなかったんだ」

「ああ。だから香澄さんは悪く無い」

 もう何も言う気がしなくなった清香は黙り込み、由紀子が唖然として見守っていたのを見て、清人が話を元に戻した。 


「香澄さんは、基本的にお節介なんだ。自分は実家と絶縁状態の癖に、そんな事言うものだから……。つい『香澄さんが親兄弟と仲直りしたら、俺もあの人の事を母さんと呼ぶ事にします』と言って、膠着状態になった。まあ、俺と十何歳しか年が違わなかったから、こんな大きな子供に、お母さんと呼ばれるのは気の毒だと思った事もあるんだが」

「お兄ちゃん……」

 自嘲気味に呟いた清人に、思わず清香が声をかけると、清香の方を見ながら清人が話を続けた。


「そうこうしているうちに清香が産まれて、世話をしているうちに、段々分かってきた」

「分かったって、何が?」

「何時間おきに泣き喚いて、ミルクだオムツだと手間がかかるだろう。香澄さんと一緒に当然俺も面倒見たが、俺の時は誰も居ないからな」

「………………」

「香澄さんは天然で物怖じしない性格だったから、団地の中にもすぐ溶け込んで、友達も沢山出来てた。もともとノイローゼになる様な性格の人じゃなかったし。でも俺がある程度大きくなってから、周囲の人に聞いてみても、あなたはあそこに二年以上住んでいた筈なのに、どんな人間か知ってる人は、殆ど居なかった。最初周りの人が、俺に気を遣っているのかと思ったんだが、もともと社交的な性格ではないんだろう? 家を出て行ったあと、暫く入院していた事も、香澄さんが後で調べて教えてくれたし」

 黙り込んで無反応な由紀子を眺めながら、清人は淡々と話していたが、そこでふと視線をずらして、口調を変えて言い出した。


「自分なりに色々考えて、高校の頃には意地を張るのが馬鹿らしくなってきて。自分で葉書を買って、連絡だけは取ろうかと思っていた矢先、……クソジジイが恩着せがましく、世迷い言を言ってきた」

(うわ、そのタイミングで、あの話だったんだ……)

 あまりの間の悪さに思わず清香が天を仰ぎ、焦った様に由紀子が口を挟んだ。


「あのっ! 私はその話!」

「知らなかったんだろう? それは知ってる」

「え?」

 当惑した表情を見せた由紀子に、清人が苦々しい表情で告げた。


「耄碌ジジイが『あんな分別の無い馬鹿娘には、何も出来んからな。儂が直々に動いたのを知ったら、涙を流して感謝するぞ』と言っていたから」

「うわ……、何、その勘違いジジイ!」

 流石に清香も怒りを露わにして思わず叫んだが、清人は見た目は冷静に話し続けた。


「暫くそれでムカついて、流石に香澄さんも葉書を書くのを強制しない様になっていたんだが、卒業間近に社会人になる訳だし、いい加減大人になろうかと思って、葉書を書こうと思っていたら……」

 そこで言葉を濁した清人を、清香が促してみる。


「思ったら?」

「……クソジジイが、小笠原に入れとの勧誘ついでに、散々暴言吐きやがった」

(由紀子さんのお父さんだけど……、色々な意味で、最低の人だわね)

 憎々しげに吐き捨てた清人を見て、最早清香は弁護する気にもならなかった。


「それも袖にして、小笠原とは本格的に縁を切ったつもりになっていたから、殊更葉書を書く気にもなれなくて……。そうこうしているうちに、香澄さんが父さんと一緒に交通事故で亡くなった」

「そうだったんだ……」

 思わず呟いた清香に構わず、清人が淡々と話を続ける。


「お通夜の席で、ちゃんとお母さんって一度でも呼んであげれば良かったと、心底後悔していた。俺がいつまでもつまらない意地を張らずに、あなたに手紙の一枚でも書いておけば、香澄さんは笑って『じゃあ、私の事もお母さんって呼んでね』と言っていた筈なんだ。そんな事を頭の中で考えていた時に、のこのこ亭主と一緒に顔を出したりするから……。つい、カッとなって、夫婦揃って殴り倒した」

「あの……、私、本当に考え無しに、顔を出して……」

(だからあれ、だったんだ……)

 再び涙ぐんでしまった由紀子を見ながら、清香が肩を落としつつ溜息を吐き出したが、清人の話は続いた。


「それから……、初詣の時は、毎年一家揃って参拝してた思い出の場所で、一家揃って来てる所にばったり遭遇したものだから、ムカついてつい嫌みを言った」

「ごめんなさい、全然知らなかったから。来年からは行かない様にするわ……」

 すっかり萎れて消え入りそうな声で謝罪する由紀子を見て、清人は僅かに眉を顰めてから、わざとらしく言い出した。


「確か……、聡とか言ったよな。あんたの息子の名前」

「……え、ええ」

(だからお兄ちゃん、話題飛び過ぎ! 凡人の私にも分かる様に話を進めてよ! 第一、聡さんの名前なんて今更でしょ!?)

 唖然としながら驚きの目を向けた清香と、戸惑って思わず顔を上げ、涙を何とか抑えながら見返して来た由紀子から顔を背けながら、清人は面白く無さそうに言葉を継いだ。


「最近、清香の周りをうろちょろして、迷惑だ」

「あの……、聡には私からも良く言って聞かせるから」

「生意気だし、目上を目上と思ってないし、ふてぶてしい面構えで顔を見る度ムカつくんだが……、なかなか良い根性をしている」

「え?」

 女二人が怪訝な視線を清人に向けたが、当人は二人と視線を合わさないまま、冷静に話を続けた。


「まあ……、女を見る目はなかなかだし、それなりに頭も切れる様だし、見た目よりは気配りのできる奴の様だ。だから…………、百歩譲って、俺の弟と認めてやっても良い」

「清人?」

「お兄ちゃん?」

 言わんとする事が分からず、怪訝な顔をした二人には構わず、清人が自論を展開する。


「血が繋がって無くても、大して母親らしい事をして貰え無くても、俺が母親と思う人間は、後にも先にも香澄さん唯一人だ。だから香澄さんが死んだ今となっては、他の人間をそう呼ぶ訳にいかない」

「……勿論、その通りね」

 そう穏やかに頷いた由紀子を一瞬横目で見やってから、清人はすぐに視線を外しつつ呟く。


「だけど……、あなたの事は弟の母親として認識しても、良いと思ってる」

「……あの」

「お兄ちゃん? それって……」

 慎重に清人の本心を探ろうとした清香の目の前で、清人が窓の方に顔を向けて、誰にも視線を合わせない様にしながら、些か棒読み調子で言葉を継いだ。


「最近大病したらしいが、体に気をつけてせいぜい長生きしてくれ。今は到底無理だが、後二・三十年経って俺の性格がもっと丸くなったら、他の呼び方がしたくなるかもしれないし、うっかり口が滑るかもしれないからな」

 そう言われた由紀子と清香は、言葉の意味を一瞬頭の中で吟味し、清人の言わんとする内容を察した。そして由紀子は目許をハンカチで押さえて泣き出しながら頷き、清香は満面の笑みで清人の横に膝立ちで座り、その首に両手を回して抱き付く。


「……っ、……ええ。気を、つけます」

「お兄ちゃん!」

「うわっ! こら、清香。お前いきなり何するんだ!」

 慌てて腕を引き剥がした清人だったが、続けて清香は清人の頭を撫で始めた。


「お兄ちゃん偉い! 頑張ったね、誉めてあげる!」

「何だ、その上から目線はっ! 第一、頭を撫でるなっ!」

「えぇ~? だってお兄ちゃん、可愛いんだもん。それにお母さんの代わりだから、良いでしょう?」

「お前な……」

 若干照れながら文句を言った清人だったが、邪気の無い笑顔で言い聞かされて苦笑するしかなかった。と、ここで何を思ったか、清香が勢い良く立ち上がる。


「さて、話が纏まった所で、私、これからまた出掛けるから。お兄ちゃん、由紀子さんをちゃんと送ってね?」

「は? ちょっと待て清香! お前どこに行く気だ」

 言うだけ言ってスタスタと歩き出した清香を清人は慌てて問い質したが、清香は振り返って文句をぶつけてきた。


「真澄さんのお家。下で待って貰ってるの。全く……、お兄ちゃんがぐだぐだ回り道して話しているから、時間がかかっちゃったじゃない! もう七時半よ、どうしてくれるのよ!」

 それで清香の訪問の理由を悟った清人は、これ以上引き留めはしなかった。


「それは悪かったな。真澄さんと浩一に謝っておいてくれ。あと……、相手は高齢なんだから、少しは手加減しろよ?」

「分かってるわよ、行ってきます!」

「ああ」

 元気良く飛び出して行く妹を玄関で苦笑しながら見送った清人は、リビングに戻ろうとして未だに泣いている由紀子の姿を目にし、違う場所に足を向けた。そして一分後リビングに戻ってきた清人は、由紀子に向かってある物を差し出した。


「良かったら、使って下さい」

「え? これ……」

 由紀子が顔を上げ、目の前の濡れタオルらしきものと清人を交互に見詰めると、清人は幾分疲れた様に説明した。


「もう少しマシな顔になったら、自宅に送って行きます。このまま返したら、今度は俺がご主人に殴られそうだ」

 そう言われた由紀子は一瞬真顔になってから、泣き笑いの表情を浮かべて小さく頷く。


「……ええ、そうですね。お借りします」

 そうして受け取ったタオルを顔に押し当ててまた俯いた由紀子を見ながら、清人は今は亡き義理の母親の、明るい笑顔を思い返していた。

(これ位で、何とか妥協して下さい、お義母さん……)

 そして今の自分の顔に、苦笑の表情が浮かんでいる事を、清人ははっきりと自覚していた。

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