第39話 清香、人生最長の一日(5)

「失礼いたします。佐竹様をお連れしましたので、門を開けて頂けないでしょうか?」

 日曜の夕刻。夫婦だけでリビングで寛いでいる時、門のインターフォンの呼び出しに応答した由紀子は、怪訝な顔になった。


「あの……、佐竹さんと言うのは……」

「佐竹清香様です。私は運転手ですので」

「分かりました。今開けますので、お入りください」

「宜しくお願いします」

 そして由紀子がパネルを操作して門を開けると、由紀子の台詞を聞いた勝が立ち上がり、窓際に移動しながら尋ねた。


「『佐竹』とは清香さんの事だよな? 聞いていなかったが、何か約束があったのか?」

「いいえ、そんな事は何も。それに聡も出かけているのに、どういう事かしら」

 そして勝はゆっくり開くと同時に、スルスルと邸内に入ってきた車を認めて、呆れた様に呟いた。


「何だ? タクシーではなくて、あれはセンチュリーリムジン? まさか清人君が、送って来たわけではあるまいな」

「さあ……、私にも何がなんだか。でも追い返す訳にもいきませんし」

「それはそうだが。……ああ、やはり清香さん一人だな」

 門の入り口付近で停車した車から、清香が地面に降り立ち、屋敷の玄関までの道のりを迷いなく歩き始めたのを見て、勝は軽く安堵した。そして彼女を出迎える為に、由紀子を促して玄関へと移動する。

 二人が玄関に来るのとほぼ同時に玄関のベルが鳴り、日曜なので家政婦が居ない為、由紀子が玄関に降りて静かにドアを開け、清香を招き入れた。


「おじさま、由紀子さん。今日は、突然すみません。お邪魔します」

「こんにちは、来てくれて嬉しいわ」

「今日はどうされました? あの車は、お兄さんのかな?」

 勝が何の気なしに問いかけた言葉に、下げた頭を戻した清香は、ちょっと言い難そうに言葉を濁した。


「……いえ、真澄さんのお家の車です。中で真澄さんが待っていますので」

「真澄さん……、ひょっとして柏木家の?」

 そこで怪訝な顔を見せた勝から、由紀子に視線を移しながら、清香は真顔で来訪の目的を告げた。


「はい。それで、今日は由紀子さんに、折り入って話があるんです」

「私に?」

「ええ。聡さんは今私の家で捕まっていますから、邪魔が入る心配はありませんので」

 清香の口調と顔付きから、話の内容とやらがどう考えても穏やかな物では無い事に、薄々気付いた二人だったが、拒否する事はせずに清香を促した。 


「取り敢えず、上がって下さい。宜しければ柏木さんも」

「いえ、真澄さんはこのまま車内で良いそうです。私だけ失礼させて貰います」

「……そうですか」

 そうして三人揃ってリビングに移動し、ソファーに落ち着いてから、勝が清香に断りを入れた。


「清香さん。私が居ても支障はありませんか? なるべく話の邪魔はしませんから」

「構いません」

「ありがとう」

「それで由紀子さんにお話と言うのは……、お兄ちゃんの事です。二人は親子ですよね?」

「……っ!?」

「清香さん? どうしてそれを?」

 いきなりの断定口調での問い掛けに、由紀子は息を飲んで固まり、勝が険しい顔になって問い返す。それに清香は真顔で返した。


「今日帰宅したら、マンションの廊下でお兄ちゃんと聡さんが、男二人で取っ組み合っている所に遭遇しまして。なかなか刺激的な内容を怒鳴りあっていましたので、洗いざらい吐かせました」

「あの馬鹿が……」

 それを聞いた勝は盛大に舌打ちし、何やら口の中で息子に対する悪態を吐いたが、清香は由紀子に顔を向けて説明した。


「それで、お兄ちゃんの話だけを聞いただけでは、偏った見方しか出来ないかと思いまして。一応由紀子さんの言い分も聞いておこうと、押し掛けた訳なんです」

「言い分なんて……、全面的に清人が言った通りで、間違いはないわ」

 力無く肯定した由紀子だったが、清香はそれで納得しなかった。


「それでも! 私はあなたの口から、あなたの考えをちゃんと聞きたいんです!」

 僅かに身を乗り出しながらの、その強い口調に驚いた様に由紀子が目を見張り、勝が珍しい物を見る様な眼で眺める。そしてリビングに静寂が満ちたが、少ししてから勝が、由紀子を静かに促した。


「由紀子」

「……分かりました。お話しします」

 それから由紀子は清人を置いて家を出るまでのいきさつと、それ以後の小笠原と清人との関わりについて述べ、由紀子が関知していなかった事で、自分が知りえていた内容を勝が補足説明する形で、二十分程かけて一通りの説明を終えた。

 話の途中で清香は、何回か僅かに眉を顰めたものの、取り敢えず無言を貫いて話の腰を折ったりする様な真似はせず、話が終わると同時に溜息を一つだけ吐き出した。そして徐に口を開く。


「ありがとうございます。良く分かりました……。お兄ちゃんの話は大筋で間違い無い様です。由紀子さん、一つ言わせて貰って良いですか?」

「ええ」

 何を言われるか、大方の察しがついた由紀子は固い顔で頷き、清香は予想通りの内容を口にした。


「お断りしておきますが、私にとってはお兄ちゃんが最優先です。それを踏まえた上で、聞いて貰いたいんですが……。由紀子さんは指を噛みちぎられても、お兄ちゃんを手放すべきでは無かったと思います。三十年経過していますし、もの凄く今更ですが」

「ええ、分かっているわ。清香さんは間違っていない。悪いのは全部私よ」

 俯いて涙ぐんだ由紀子を見やり、清香は向かい側から探る様な視線を向けた。


「後悔、していますか?」

「ええ」

「そう思ってくれているなら、今からでも遅くありません。今から家に来て、お兄ちゃんに指を噛みちぎられて下さい」

「え?」

「清香さん!?」

 物騒な事を宣言しながら、清香が立ち上がりつつテーブル越しに由紀子の手を取った為、由紀子は戸惑い、勝は顔色を変えた。しかし清香の表情は、全く揺るがなかった。


「さっきも言った様に、私はお兄ちゃん最優先なんです。お兄ちゃんの気の済む様にしてあげたいんです」

「清香さん、それは!」

「流石に無傷で帰すと確約はできませんが、いよいよ駄目となったら、私が割り込んで何としてでも止めます。伊達に十何年も、道場通いをしていません」

「いや、しかし!」

 流石に焦って、思いとどまらせようとした勝だが、清香は由紀子の顔を覗き込みながら静かに訴えた。


「由紀子さん、もう三十年近く後悔していれば、十分じゃありませんか? 今行動しないと、死ぬまで一生、後悔し続ける事になりますよ?」

「清香さん……」

「私のお母さんは、意地を張っている間にあっさり死んじゃって、とうとう実家の人達と、和解できないままになっちゃったんです。でも由紀子さんとお兄ちゃんは、今どちらも生きているんです。決裂するならそれでも良し、とにかく一歩踏み出して下さい。お願いします」

「……清香さん、でも」

 真摯に訴える清香に対し、由紀子が泣きそうな顔を見せたが、ここで穏やかな声が割って入った。


「行ってきなさい」

「あなた?」

「言いたい事があるんだろう?」

 先程までは動揺していたものの、清香の話を聞いて考えを改めたらしい勝が、由紀子から清香に視線を移して声をかけた。


「清香さん、部外者の私は同行しない方が良さそうだ。由紀子を頼めるかな?」

 その問いに、清香が僅かに苦笑して頷く。

「勿論です。信用して下さい」

「ああ、宜しく頼むよ。……由紀子?」

「……はい、行ってきます」

 勝に促されて由紀子はゆっくりと立ち上がり、ドアへと向かう。


「じゃあ車を待たせているので、それに乗って行きますね。由紀子さん、急いで支度をして下さい」

「分かったわ」

 そうして身支度を整え、勝に玄関で見送られた二人は、待たせてあったリムジンの後部座席に乗り込み、運転席に背を向ける形で座っていた真澄に声をかけた。


「真澄さん、お待たせしました」

「思ったより、かからなかったわよ? 初めまして、小笠原由紀子さんですね? 柏木真澄と申します」

 向かい合う形で腰かけた由紀子に、真澄は軽く頭を下げた。それに対して由紀子が、恐縮気味に頭を下げる。


「こちらこそ。これは柏木さんの車だそうですね。お世話になります」

「いえ、大した事ではありませんので」

 二人がそんなやり取りをしている間に、清香は携帯を取り出して、どこかへ電話をかけ始めた。


「あ、もしもし、お兄ちゃん? そろそろ聡さんを解放して良いわ。…………え? 今? 聡さんのお家に居るの。聡さんにそう伝えてね、それじゃあ」

 そこで問答無用で通話を終わらせて再び電源を落とした清香の斜め前で、真澄が傍らの車内備え付けの受話器を取り上げ、運転席に指示を出す。


「出して頂戴」

 そうして静かな音と共にゆっくりと車が発進し、清香は真澄と顔を見合わせて、小さく笑い合った。


「悪い子ね、清香ちゃん。聡君、絶対泡を食って、家に帰って来るわよ?」

「敷地内にいる間に電話したんですから、その時点では聡さんの家に居る事に間違いは無いです」

「確かに、すれ違っても私達の責任じゃあ無いわよね」

「そうですよ」

 そんな事を言い合ってクスクスと楽しそうに笑っている真澄と清香に釣られる様に、強張った由紀子の顔も僅かに綻んだ。 



「聡君、真っ青になって帰って行ったな」

 男二人取り残された室内でボソッと浩一が呟くと、清人が忌々しげに言い返した。


「出掛けるって、まさかあいつの家に行ってるなんて、思わないだろう。全く……、清香の奴、何やってるんだ。第一真澄さんが付いていながら、鉄砲玉にも程がある」

「ある意味、姉さんが一緒だから、余計に心配なんだが……」

「浩一。益々不安を煽る様な事を言うな」

「悪い」

 そんなやり取りをして、更に重苦しい沈黙が漂った佐竹家のリビングだったが、少しして何やら玄関の方から物音を察知した二人は、ほっとした様にソファーから腰を浮かせた。


「何か物音がしないか?」

「漸く帰って来たか……」

 清人が溜息を吐き出した所で、ドアの向こうから清香が顔を出して挨拶してきた。


「ただいま」

「一体何をしてたんだ、お前は」

 思わず説教しかけた清人の台詞を遮り、清香が体をずらして後ろの人物をリビング内へと誘導する。


「お客さんを連れて来たの。……由紀子さん、どうぞ入って下さい」

「は?」

「…………っ!」

 予想外の人物の名前を耳にして、目を丸くした浩一と絶句した清人の前に、ゆっくりと由紀子が現れた。そして微動だにしない二人に向かって、軽く頭を下げる。 


「……お邪魔します」

「じゃあ、由紀子さんはこっちに座って下さい。ほら、お兄ちゃんはさっさとそのまま座る!」

「……ああ」

「浩一、あんたは私と一緒に下で待機よ。ほら、ぐずぐずしない!」

「いや、あの、ちょっと……」

 清香は由紀子の手を引っ張り、真澄が浩一の手を引っ張って移動を開始してその場を仕切り、男二人は全く抵抗できなかった。


「じゃあまた後でね、清香ちゃん」

「はい、連絡宜しくお願いします」

 そうして真澄と浩一が姿を消し、清人と由紀子が対面する形でソファーに座り、清香が二人と直角になる位置で腕を組んで仁王立ちになったところで、清人に冷静に促す声をかける。


「さてと。当事者が揃った所で、お兄ちゃん、さっさと済ませてよ。時間が押してるんだから」

「何だそれは? 全然意味が分からんぞ。何をさっさと済ませろと?」

 怪訝な顔を向けた清人に、清香が呆れた様に素っ気なく言い放つ。


「だ~か~ら、さっき聡さんに向かって由紀子さんの事を悪し様に言ってた様に、本人に向かって悪口雑言をぶつけるなり、子供の頃にやった様に指を噛みちぎるなり、お通夜の時の様に殴り倒すなりして、すっきりしたらって言ってるのよ」

「清香……」

 途端に眉を顰めて見上げて来る清人に、清香が淡々と続ける。


「この間、聡さんに纏わり付かれて、いい加減ストレスを溜めているんでしょう? それ位、本人に代償してもらったって良いじゃない。その為に、わざわざ連れて来たのに」

「…………」

 意識的に由紀子に視線を合わせようとしないまま、清人は不機嫌そうに黙り込んだ。それを見た清香が、茶化す様に言い出す。


「あれ? どうして何もしないわけ? 嫌がるのを無理矢理引きずって来たのにな~」

「……ふざけるのもいい加減にしろ、清香。本気で怒るぞ?」

(う、うわ~、これは本気で怒ってるかな? お兄ちゃんの話を聞いた時、何か口で言うほど怒ったり憎んでる様な気がしなかったから、一か八か由紀子さんを連れて来てみたけど……。単なる私の見当違い? 本気でお兄ちゃんが暴れたら、止められるかな?)

 怒りを孕んだ視線で清人が清香を睨みつけ、その視線を真っ向から受け止めた清香は何とか笑顔を保ちつつ、内心で滝の様に冷や汗を流した。その時、その場の重くなりつつあった空気を切り裂く様に、由紀子の叫びが響く。


「ごめんなさい!」

 それを耳にして、思わず清人と清香が二人揃って由紀子の方に顔を向けた。

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