第18話 終末体験。二

 彼女と談話をしている最中に、息を切らせた部長が入って来た。

「君が『すまん』で、部長が『心配させるな』だからね。しかもそれ以上の言葉のやりとりもなかったし。家族っていうほど、昔からの付き合いなの?」

「まぁ、小さい頃から世話になったというのもあるけど」

「それ以上に、何かがあるのかい」

 なぜ下野は、不安そうな顔をするのだろう。まぁ、俺も下野にいろいろと聞きたいことがあるし、これから下野のことをもっと深く知りたいのだから、見せられるカードは先に見せておくというのもいいかもしれない。恋も芸術と同じだ。素直であることが、大切だと思う。……まぁ、俺はズブの素人だが。

 ひとつ咳払いをして、俺は語った。

「俺にとって、部長は憧れの存在なんだよ。俺の知っている部長は、絵は描けない。描こうとしないんじゃなくて、絶望的に下手なんだ。それでも長年練習すれば、うまくなるかもしれない。だけど、重要なのはそこじゃない。部長は、本当に絵が好きなんだ。完成した絵を見るのが好きなんだ。そうやって、好きなものを懸命に追い続けている姿に、俺は憧れたんだよ」

 昔は、違う理由で追いかけていたけれど。それでも、俺は。

 今でもまだ、俺は部長と関わっていたいと思う。

「……変な意味じゃないが。俺が女だったら、部長に告白していただろうな」

 下野が噴き出した。流石に変な話だったかもしれないと、自分に言い訳をする。

「部長、絵を描くのは下手なんだ。でも、色使いが独創的だった。部長は、伝統とかルールみたいな規則的なものをすべて捨てて、本当に自分の感性だけで色を使うんだ。そういうところが、俺の憧れというか。俺は、本当に好きだったんだよ」

 だから小さい俺は、部長のことを兄さんと呼んでいた。

 黎明期を生きていた芸術家たちのように、部長には常識というものが通用しない。自分の中から湧き上がるものを素直に表現しようと、ただがむしゃらに色そのものを描いていたのだ。そして最終的に、部長は他人の作品を見ることで、自分の心が満たされることを知ったのだろう。俺としては、もっと彼に絵を描いてもらいたかったのだが、仕方がない。

 芸術の形は、人それぞれだ。

 話し終えた後、下野は笑っていた。部屋の外は、雲一つない晴天に恵まれている。

「君は、芸術についてしか語らないのかと思っていた。部長のこと、尊敬しているんだね」

「当然だ。俺が部長にこだわるのは、そういう理由もあるわけだし。何なら、芸術についても語ってやるよ。よく、小説家とかは伏線を大事にするだろ? あれ、俺は嫌いなんだよ。確かに、すぐれた作品には優れた伏線が張り巡らせてあるのかもしれない。だけど、ストレートに、何もかもを包み隠さず、全部さらけ出した上で面白いと思わせることが出来たなら、それが本当の作家っていうか。文章表現のうまい奴ってことだよな? 俺は、文章表現のうまい作家が好きなだけなのかもしれない。だから、伏線や隠された秘密、なんて飛び道具ばかりを使うやつが嫌いなのかもしれないけど」

 下野は何も言わず、ただ穏やかに微笑んでいる。

 胸の奥がくすぐったくなって、俺は頬をかいた。

「君の意見は、分からないでもない。でも、美術っていうか、絵っていうのは最初見たときの印象が一番大事なわけで。だとしたら、君の言うこともあながち芸術家としては間違いではないのかもしれないよ?」

 嬉しいことを言ってくれる。

「だが、それは絵画に関しての話だ。芸術という点では等しいが、表現技法が異なれば違う様式、規律っていうものがあったっておかしくはないだろう?」

「それ、自分で言って矛盾しないの?」

「矛盾なんてものは、意図が複雑に絡み合って、俺たちには分からないだけなんだ」

「糸って。うーん……?」

 俺のたとえはよく分からなかったらしく、下野が首を傾げた。俺も、それ以上の説明は出来ない。二人の間を沈黙が満たし、会話の糸口を失った下野が、自分の太腿を叩き始める。聞くなら、今だ。今しかない。

 腹を決めて、震える指先を隠すために、拳を握る。俺が緊張していることを、下野には悟られないようにと願った。下野は、優しげな眼で俺を見ている。

「芸術と言えば。どうしてお前は、俺に拘るんだ」

「どこまでも、本当の私を見ようとしてくれるじゃない?」

「嘘だな、俺は今でも、フィルター越しにしかお前を見ていない」

「それじゃ、君の描いた絵が原因だよ。君は、君が見たままの世界を描くじゃないか。本物に拘ろうとする人は、たとえそれが失敗だらけだったとしても、すごく格好いいと思う。だから私は」

 どこか遠くを見るように、下野が俺を見つめる。ますます心がむず痒くなって、俺は誤魔化すことにした。今の俺には、この雰囲気が重すぎる。俺はどこまでも、臆病なのだ。

「なんか、告白みたいだな」

「ち、ちがっ」

「分かっている。俺も、そこまで空気が読めないわけじゃないんだ」

 からかわれて拗ねた下野が、頬を膨らませて俺を叩いてくる。なぜか、いつもより複雑な表情をしていた。子供のような下野を見ていると、俺はどこまでも幸せな気持ちになる。夏の、雑草よりも濃い緑で田んぼを埋める稲穂を眺めているように、生命力の強さを感じられる。

 俺が、自分を見て得られるものは死の香りだ。だが、下野を見て得られるものは、生命の強さだ。生と死の両方を目にした俺は、きっと、死だけを追い求めてすべてを削っていたころの俺よりも、美しい作品を描くことが出来る。

 削るだけが能じゃない。必要なものを取り入れる才能も、芸術家になるためには必要なことなのだ。それに気付けただけで、俺は笑える。どこまでも幸せそうに、笑うことが出来る。下野が、俺の頬を突いた。爪を綺麗に切りそろえられた、柔らかな指だった。

「君、ちゃんと笑えるようになったんだね」

「まぁな。……紙とペンを持ってないか。描いてないと、どうにも落ち着かなくて」

「ふっふー、私はいつでも、君にサインしてもらうための画用紙を準備していて」

「それ、お前のスケッチ用じゃなかったのか」

 随分前、バイト先で広げていたものと同じデザインのスケッチブックを開いた。なぜか二冊持っていたので、そのまま一冊を借り受ける。あの日、下野が描いていたのは何だったのだろう。今更聞いても、本人が覚えているかどうか怪しい。諦めてスケッチブックを開く。

 下野の提案で、初めて出会った日のように、お互いを絵にすることを決めた。泡のように浮かんでは消える疑問のうち、僅かに引っ掛かったものを口にする。

「お前は、どうして絵を描くんだ?」

「……どうして、だろうね。理解したい、と思うからじゃないかな」

「そうか」

 よく分からない。だが、下野にとっての芸術が、そういうものなのだろう。

 下野は、絵を描かない部員たちから少し離れた位置に座ることが多い。あくまでも行動の主体ではなく、自分は傍観者なのだとでも言いたげな態度をとっている。だが、話してみれば面白いことは間違いない。俺と違って、人に嫌悪の刃を向けることも、拒絶の盾を掲げることもない奴だ。俺が下野のことを嫌いになりきれなかったのは、彼女の親しみやすさと、素直な性格が原因かもしれない。

 俺たちは普段、美術室にいるときと同じように。

 しかし、あのときよりもずっと近い距離で、お互いの姿を描いていた。

 描き終えた後に、互いに絵を見せあう。相変わらず下野の絵には無駄な線が少なく、俺の好みの描き方をしていた。俺は、昔彼女を描いた時よりも無駄な線を減らし、必要と思える線を執拗に描きこんだ。結果、昔よりも複雑な絵になってしまったのは愛嬌だ。

「ふふ、君も相変わらずだね」

「相変わらずなのはお前だろ。どうして、俺に関わるんだ」

「もー、またその質問かい?  ただ、傍にいると、心が温かくなるんだ。ぽかぽかする、っていうと君は笑うかもしれないけど。あ、誤解がないように言っておくけれど、私は君のことが、その、好き、というわけじゃないんだよ?」

「うるせぇ」

 最後の一言がなければ、とても嬉しい言葉なのだが。天邪鬼な俺は、拗ねた感情の矛先を下野に向ける。

「俺だって、別に、その、なんだ? お前は別に、可愛いわけじゃないし」

「うわー、ひどいね、君」

 なぜか下野が、とても楽しそうに笑う。心の中を見透かされているような、もどかしい感覚になる。思ったことが素直に顔に出る質だと、昔バイトしていた店の店長に言われたことがある。その人とも、俺は喧嘩別れをした。そんなことが下野との間にも起きるのではないかと、不安になる。

 下野は、どこまでも純粋だった。

 だから、俺の欲望は、どこまでも薄汚く、醜く見えるのだけれど。

 それでも俺は。

 下野のことが、好きなのだろうと思う。

「俺は、芸術を愛している」

「知っているよ。そして、君の言葉はいつも唐突だね」

「あんまり、人と会話をしないものでな」

 俺たちはお互いに、芸術を愛している。それが分かるだけで、充分なのかもしれない。

 まぁ、俺はもっと、下野のことを知りたいと思うけれど。

 会話の糸口が掴めずに、二人目の下野を描き始める。心中を察してくれたらしい下野が、何事かと話を振ってきてくれる。俺も、似たようなことをした記憶があるのは気のせいか。

「私たちは、お互いのことを知らないよね。結構喋っている、というかお互いに固執しているような気がするけれど」

 バレていたのか。胃が引き締まる思いだ。だからこそ、誤魔化したくなる。

「お前が、俺のことをそんなに好きだったとはなぁ」

「別に、好きというわけじゃないし、私はたまたま……」

 言い訳が始まった。下野が俺の絵を好きなことは分かっている。今更誤魔化さなくてもいいのに。俺が絵を描かなくなったら、下野は俺への興味を失うだろう。

 そういう誤解が、真実なのだと思い込むほうが、臆病な俺には都合がいいのだ。

 下野が大きく身振り手振りをしながら、俺に言い訳を続けている。微笑んでしまいそうな頬を引き締めて、俺は彼女に手を伸ばした。いつまでも足踏みをしているわけにはいかない。俺は、芸術家を目指す。少しでも、絵を描いている時間が欲しいのだ。

「下野、手を貸してくれ」

「え? 手を?」

「あぁ。部屋の中にいても、息が詰まる。俺は、外を描くほうが好きなんだよ」

「そういえば、君の部屋にも結構な数の風景画が転がっていたような気がするね」

「そうだな。さ、背中を押したりするんじゃなくて、手を握らせてくれ。肩を借りたら、お前は潰れそうだしな。だから、倒れそうになったときに、引っ張ってくれるだけでいいんだ」

 下野が、少し照れながらも手を伸ばす。変な意図があったわけではないのに、彼女の態度を見ていると、なぜか俺の頬も熱くなってしまう。

 立ち上がると、世界が白っぽく見えるような、不思議な眩暈がした。一日二日では熱中症が完治しないのか、俺の身体が弱いのか、どちらだろう。あらためて近くに立つと、下野は俺よりも背が低い。俺の鼻の位置までしか、背がなかった。案外かわいらしいものだ、と感慨に浸る。そして、俺達は部屋を出た。

 外の空気を吸うために病院の廊下をゆっくりと歩く。彼女の手を握る右手が、思っていたより熱い。自分の鼓動が、血管を通して聞こえてくるようだ。視線を合わせないように、通路に視線を固定する。一人の少年が、綺麗な女性に追いかけられていた。病院にはそぐわない光景だが、どこか楽しそうだ。俺も、追いかけるよりは追いかけられるような恋がしてみたかったのかもしれない。

 だが、俺は自分から動くしかない。

 下野が好きなのは、俺の絵であって、俺自身ではないのだから。

 ……そんな言い訳を並べる奴は、俺ぐらいしかいないのだろう。それでも俺は。

「そういえば、君の部屋には私の絵があったね。あれってどういうこと?」

 視線があった下野が、最後の最後に、ナイフで心臓を刺しに来た。だが、正面から受け止めよう。いくら臆病だからと言って、この質問から逃げ出すわけには行かない。

 本物の芸術の為に、そして、本当の恋と向き合うために。

「下野は、この世で一番美しい。だから描いた。それだけ」

 醜い俺の心の中で、下野だけは、いつだって輝いている。並んで歩く下野を見ると、顔を真っ赤にして悶えていた。伝え方がまるで告白か何かのようだったと、体中から変な汗が噴き出す。だが、俺はもう立ち止まらない。言いたかったことを、全部吐き出す。

 吐き出さないと、気を失ってしまいそうだ。

「勝手に描いたのは悪かった。だが、これからも俺は、お前を描きたいと思う。俺の心は、どこまでも醜い。醜いものの中にある美しさこそ、真実だと思っていたから。だけど、お前は単純に美しい。どこまでも、純粋に綺麗なんだ。俺が望んだ芸術は、綺麗なものを綺麗に、好きなものを好きなように描くものなんだ。だから、頼む」

 息が、止まりそうでも。

 俺には、伝えなくてはならないことがある。

「絵のモデルになってくれ。俺は、お前のことをもっと知りたいんだ」

 頬を赤く染めた下野は、握る手に力を込める。俺のことを気持ち悪いと思うなら、手を振りほどいて距離を取るだろう。自分を描かれたくないと思うなら、彼女はそれを、言葉にするだろう。それがなかったということは、俺の宣言を下野が受け入れたということで。

 下野薫は、神成雄鹿がモデルにすることを、認めてくれた。

 夏の風が、俺の病衣と下野のワンピースをはためかせる。


 手を握るだけで精一杯の。

 キスまでは程遠い俺達の物語は、これから始まっていくのだ。

 全ては芸術の為に。俺達が愛した、芸術の為に。

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やっぱ立体的な奴はダメだ。 倉石ティア @KamQ

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