第17話 終末体験。一

 それにしても、と下野が笑う。

「君が私の胸に飛び込んできたときは、死ぬんじゃないかって思うくらい吃驚したよ」

「それ以上、俺の傷口を抉るな。仮にも病人だぞ」

「でも、大事に至らなくてよかったね。いやぁ、私の涙を返してほしいくらいだ」

「…………救急車を呼んでくれたことには、感謝する……なんだよ」

「いいや。君は真面目だなぁって、感心していたところだよ」

 親族よりも早くお見舞いに駆け付けたあたり、下野にも相当に真面目な部分があるように感じたが、黙っていよう。これ以上、二日前のことを掘り返されては敵わない。

 俺は、酷い熱中症になっていたらしい。その日の夜には目が覚めたから、意識を失っていたのは都合十時間ほどだろうか。皮肉屋らしい医者からは、ネムリユスリカなみの生命力だと言われた。意味が分からなかったので説明を求めたところ、水場に生きる強い虫のことを言うらしい。本人は自分のことをクマムシなみの生命力だと自慢していたから、ネムリユリカという生き物も、褒め言葉の一種として使っていたのだと思う。化粧の濃い、不思議な医者だった。

 俺は栄養失調の気もあったらしく、見舞いに来たらしい部長と爺さん、それと両親にひどく叱られた。一番怒っていたのは部長で、部屋に入ってすぐに、俺の頬を殴りに来た。約束を守らなかった、俺が悪いのだが。

「はい、あーん」

「いや、怪我はしてないから」

「分かっているよ? でも、なんだかやってみたい気分になってね」

 冗談めかして言う下野が、俺にフォークを手渡した。下野が剥いてくれた桃を、ありがたくいただく。お嬢様だからと言うべきなのか、下野の料理の腕は推して知るべし。彼女の名誉のためにも、深くは考えないことにしよう。俺も、料理が上手いとは言えないし。

 あ、と下野が間の抜けた声を出す。視線をやると、ナイフを握ったままの下野が、俺を見つめていた。心臓を緩くチューブで巻かれたような、かすかな苦しさを覚える。

「そういえば、君はこれからどうするつもりなんだい? ご両親と、お金のことで少し揉めていたように見えたけれど」

「まぁ……どうしようも、ないだろうな」

 一昨日の夜、俺が目覚めてからのことを思い出す。まず、下野が俺の手を握った。寝ぼけた頭で、俺はのんきなことを考えていたような気がする。何を考えていたのかも忘れてしまったが、どうせまた、芸術のことだろう。下野の顔を、喜びと恐怖と、そして俺では言い表せない感情の混ざった複雑な顔を、俺は綺麗だと思えたのだから。

 完全に目が覚めた後は、下野と医者に挟まれ、意識が判然としているか否かのテストをしていた。一通りの診断が終わり、医者が雑談を始めたあたりで、母親が来た。絵を描くことを辞めろとは言わないし、俺の目指したいものがあるなら、それに賭けてみるのもいい。だが、二度と身体を酷使しないようにと念を押された。母親が鞄から取り出した父親からの手紙には、絶縁状と記載されていて、隅に小さく、仮という文字がつけてあった。

 手紙には、次、人様に迷惑や心配をかけるようなことがあれば、学費を支払わないという脅しが書いてあった。勿論、学費を払ってもらわなくても、奨学金や助成金を上手く使えば、大学に通うこと自体は難しくない。だが、絵は描けなくなる。裏を返せば、俺が体調を崩したりしない限り、絵を描くこと自体は認めてくれているらしい。

 両親とも、向き合ってこなかった。だから俺は、両親が俺の願いについて考えていることを知ることもなかったのだろう。大学生になってから初めて、親の前で泣いた。俺は、本当に、バカな奴だったのだと思う。

「しかし、お金のことは、どうしようもないことじゃないだろう?」

 俺が後悔の海に沈みかけたとき、下野が声をかけてくれた。本人は、きっと無自覚だろう。それでも小さな感謝を胸に抱きながら、俺は丁寧な返答をした。

「家賃と学費を支払ってもらえるだけで、俺は満足だよ。大体、我が家の経済事情じゃ、今が限界だからな。親は二人とも介護士で、薄給なんだ。人の役に立つことに、二人は金以上の価値を見つけたんだ」

 足りない分は、大嫌いなバイトをすればいい。また、自分の魂を削ればいい。

 俺は、両親のことを尊敬している。二人の持つ信念は、俺が芸術に対して抱くものと似ている。だからこそ、金がない家計の事情を、憎むことが出来ないのかもしれないが。

「とりあえずは、他のバイトを見つけないと」

「でも君は、長続きしないんだろう。いつまで持つんだい」

「……知っていたのか」

「部長さんから、相談を受けたりもしたから」

 格好の悪いことを知られてしまったものだ、と鼻の頭をかく。俺の左手には、まだ数本の針が刺さったままになっていた。風に揺れるチューブに茨の落書きをしたいと思いながら、下野の言葉を待つ。下野は、俺の顔を見ていった。

「私のお兄さんに、頼ってみないかい?」

「お前の? というか、兄貴がいるのか」

「いるよ、ちょっと年は離れているけどね。それで、どうだい? 私のお兄さんに、援助を受けると言うのは」

「……話が見えてこないんだが。詳しく説明をしてくれるか」

 いいよ、と笑顔で言った下野は、長い話を始めた。

 相槌を打ちながら、下野の服を見る。良いデザインだとは思ったが、それ以上の評価を下すことはない。服に付随する芸術性は、俺には理解しがたいものだったからだ。服は、快適に過ごすことが出来ればそれでいい。……服飾家に、喧嘩を売っている気がした。

 下野の長話を脳内でまとめながら、彼女の顔を見る。最初に、下野の唇を見た。淡い桃色をした唇はしっとりと艶を保っていて、覗く歯は白い。喋り続けると赤みを増す頬はいつだって、触れてみたくなるほどに美しい。下野の瞳を覗き込んでから、俺は目を逸らした。

「それで、どうだい? 君は、話に乗るつもりがある?」

「まぁ、そうだな」

 下野の長話を簡潔にまとめると、下野の兄貴がパトロンになる、ということらしい。下野が如何にして兄貴を説得したのか、そもそもどうして下野が俺にパトロンをつけようという発想に至ったかを事細かに説明してくれたりもしたのだが、まとめようにも長くなるので止めた。下野が俺の、というよりは自分の為に尽力した。それで、充分だろう。

 自分で最低限度の金を稼げるようになるまでは、下野の兄貴が月々の生活費を払ってくれるらしい。

 つまりは俺が、自分でバイトをして支払っていた分の金を出してくれるというわけだ。

 本当は家賃や学費までひっくるめた、俺が大学を卒業するまでにかかる全経費を支払っても構わないらしい。だが、俺が首を縦に振らないことを見越して話を進めたらしく、生活費のみの支給で話がまとまっているらしい。下野も、結構小賢しい。

 金の力は、偉大だ。改めて実感した。

「しかし、本人抜きで話を進めるとは」

「だって、君は眠っていたから。仕方がないんじゃないかな」

「なんだか、俺の意志が無視されているような気が……そもそも、お前の兄貴には会ったことすらないんだが」

「そのあたりは大丈夫。私が入念に根回しをしておいたから」

「お前のことだ、適当なことを言って誤魔化したんだとは思うが……」

 理由を尋ねると、なぜか下野は赤くなって口籠った。何を言ったのだろう。俺にとって不都合なことを言われていなければいいのだが。

 それがどんな温情や憐憫であっても、受けなくてはならないことがある。

 俺は、そのことを悟れるようになった。

 自分の為だけに芸術を描くのだ。下野に見捨てられるその日までは、存分に利用してやると言う心意気も必要だろう。……本当のことを言えば、資金援助などをされるよりも、こうして毎日喋ってくれるだけでありがたいのだが。いや、多少の苦しさも伴うし、毎日言葉を交わすのは難しいかもしれない。

 俺の気持ちは、複雑だ。

「しかし、本当にパトロンになるつもりか? 何の関係もない兄貴が、妹の為に毎月数万も支払うと言うのが理解できないんだが」

「それを言うなら、君も同じじゃないか。水だけで生活するなんて、トカゲでもやらないよ。そんな生活、いつまで続けられると思っているんだい? 自分の身体と心を削りながらの生活なんて、いつか限界が来るに決まっているじゃないか」

「確かに、そうかもしれないな」

「絶対だよ。そんなことになったら君は、君の夢をかなえられないまま終わるんだ。私も、大事なものをなくして、つまらない余生を過ごすことになる」

 余生とはまた、大袈裟なことを言う。下野は俺の芸術に、何を見たのだろう。ずっと前から聞いてみたいと思っていたが、その度にはぐらかされていた。今日こそは、はっきりと聞いておくのもいいかもしれない。

 俺がまた不摂生な生活をしないようにと、新書ほどの厚みがある契約書を読ませられた。本当に、無駄にページが多い。三食欠かさず栄養バランスのとれた食事をとることや、適度な運動をして体調を整えることが契約として明記されていたことなどから考えても、これを作ったのは下野本人なのではないかと疑ってしまう。高校時代の保健の教科書を一部抜粋してきたような文章も見受けられるし、あながち間違いではないのかもしれない。

 適当に読み飛ばしたあとは下野から紙を渡され、名前と拇印を押した。下野が契約に関しての真面目な話を始めはしたものの、俺はあまり真面目に聞かなかった。下野が俺を騙すことはないだろう。下野は部長に似ている。人を踏み台にして、自分が高みに上ることを知らない人間だ。だからこそ、信頼できる。

 俺は、弱い人間だ。

 そういえば、という下野の声に顔をあげる。白いワンピースを着た下野が、眩しかった。

「前々から聞いてみたいと思っていたんだけれど、君と部長はどんな関係なんだい? 昨日来たときも、君のご家族より怒っていたみたいだけど」

「突然、話が変わるな」

「うん、そうかもしれない。でも、気になって」

「まぁ、そうだな。言うなれば家族、みたいなものだったからな」

 部長の話というのは、昨日のことだ。俺が病院に入ってから二日目の昨日も、最初に部屋に入って来たのは下野だった。今日来ているものとは少しデザインの違うワンピースで、百合の刺繍が施されていたそれを、俺はぼんやりと眺めていたことを思い出す。

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