エピローグ

「マーちゃん」

「何だ?」

「ちょっと暑い」

 真壁は奈緒子と一緒に旗の台の東都大学附属病院の構内を歩いている。シフトが早番だった奈緒子と、これから飲みに行く約束をしていた。

「こんなとこで脱ぐなよ」

「あら、誰も見ていないわよ」

 奈緒子は手袋と首に巻いていたマフラーを外して真壁に手渡す。きっちり首元まで留めたダウンのボタンも外し、中に着ていた厚手のカーディガンまで脱いだ。真壁は呆れて言った。

「着すぎなんだよ」

「だって、昨日は風が強かったのよ。ホントに寒かったし」

 身軽になった奈緒子は先に歩き出した。奈緒子の衣類を片腕に抱えて、真壁はその後に続いた。外は昨日から吹き荒れていた北風がすでに止んでいた。

 数時間前、ようやく片付いた殺人事件の帳場を離れ、真壁は池袋南署を出る。街路に降り注いでいた陽光に一瞬、眼が眩んだ。駅に向かう途中のコンビニで「あったか~い」と書かれたケースから缶コーヒーを2本取って買い、西口交番に出向いた。

 机に向かって書類仕事をしていた津田が立ち上がった。すでに捜査本部の捜査員から外れた津田は制服姿に戻っている。真壁は津田の机に買ってきたコーヒー缶を置き、自分は石油ストーブの前に椅子を引き出して腰を下ろした。コーヒーを呑む間、2人はしばらく他愛のない話をした。

「ひとつ聞いてもいいですか?」津田が言った。

「何だ?」

「どうして、沢村を再び取り調べようと思ったんですか?」

「沢村のような男を、岩城が鉄砲玉に使うとは思えなかったからだ」

 暴力団が事件を起こす時は、幹部は自らの手を汚さないのが相場だ。幹部に命じられたかどうかは別として、若い鉄砲玉が率先して行い、後で警察に出頭する。三谷を撃った藤枝組のチンピラ2人はその点では、刺客らしく思えたのだ。

「自首した時、犯行の詳細も動機もまともに話せなかったしな」

「それだけ・・・ですか?」

「あとは、沢村と岩城の関係だな」

 沢村は岩城との関係についてこう供述した。岩城はボクシング鑑賞が趣味で、沢村が現役の頃は食事を何度か奢ってもらったことがあったという。沢村が3年前に傷害事件を起こしてボクサーを辞めてからは、岩城のボディガードまがいのことをやって小遣い程度の金をもらっていた。

「沢村は誠龍会の組員じゃないし、組に入る気も無いような口ぶりだった。ただ岩城を憧れてただけだ。そんなヤツを大事な殺しで使う人間なんていやしない」

「・・・」

「まあ暴力団絡みの事件になると、とりあえず犯人が自首してくれば、警察もその線で収めようとする。捜査は完結するんだから、誰も損しない。だが、自首してきた奴が実は犯行に及んでいなかったとしたら・・・そんな風に考えただけだ」

 津田は分かったような、分かっていないような鈍い表情を浮かべる。真壁はコーヒーを呑み干して腰を上げた。津田は街の喧噪に消えていく真壁の背中を見送った。

 ニコチンが切れかけて苛立ち始めている。幼馴染の衣類を片腕に抱えたままではタバコが吸えない。真壁はため息をついた。奈緒子は構内の歩道をすいすいと先に歩いている。冬空の高いところで厚い雲が風に流されている。

 奈緒子がくるりと後ろを振り向いて声をかけた。

「マーちゃん!」

 真壁は顔を上げる。

「何だ?」

「コートのポケット!探してみて!」

 今度はいったい何だって言うんだ。ごそごそと奈緒子のコートのポケットに手を入れる。きれいにラッピングされた小さな包みが出て来る。

「今日は2月14日でしょ!だから、プレゼント!」

 奈緒子には、真壁が小さく微笑んでいるように見えた。

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梟の夜 伊藤 薫 @tayki

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