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 部屋に戻り、和馬は照明をつけた。真っ先に目に入ったのは引き出しだった。和馬は椅子に座り、机の引き出しを開けた。使わなくなった筆記道具が散らばる中に二つ折りの紙が人肌のような熱を発していた。和馬はその紙を机の上に出した。二つ折りの紙は皺だらけで文字の影がうっすらと見えた。このままこの紙を捨てることも無視することもできる。それができないのは、そこに書かれた言葉を想像するだけで瀕死の友人を見捨てるような背徳感を抱いてしまうせいだった。

 昨日、教室の机に教科書を移していたときにこの紙を見つけた。無視しようか、と和馬は思った。その存在を周りから隠すようにわざわざ机の裏側にセロハンテープでとめられていたのが不気味でならなかった。どうせろくな紙ではない。脳裏に鈴木の顔が過ぎり、和馬は反射的にセロハンテープを剥いだ。もしこの紙が鈴木からなら無視できない。焦って出したせいか、二つ折りの紙はくしゃくしゃになっていた。

 和馬は唾を飲み、汗でしっとりと濡れた指先で紙を広げた。

 ――助けて。

 その繊細な文字は泣き叫ぶ赤ん坊のような純粋さで助けを求めていた。この文字を書けるのは優太郎しかいない。目に焼きつくまで見てきたのだから間違いなかった。

 和馬はこの手紙を家に帰るまでズボンのポケットに入れて過ごした。机の中では何かの間違いで床に落ちる可能性があるからだ。自分の身を守るためには慎重になるしかなかった。優太郎と関わりがあると鈴木たちに勘違いされれば優太郎と同じ扱いを受けることになる。この手紙を誰の目にも触れさせないためには持ち歩くのが一番だった。

 バイクの怒鳴るような音が部屋の中まで響いた。和馬は手紙を机に置き、頭を抱えた。この手紙を読んだのは、これで三度目だった。二度目は昨日帰宅してからだ。去年はこの文字に癒されていたのが、今は悲痛な叫びを聞かされるような恐怖しかなかった。僕はどうしたらいいのだろう。そもそも、この手紙は優太郎の意思で書いたものなのだろうか。急に助けを求めるとは、それも僕に頼るとは、鈴木との関係を知っている優太郎なら避けそうなものなのに。これは鈴木に指示されて書いたものかもしれない。きっとそうだ。この手紙のことは忘れよう。

 和馬は机の上で腕枕を作り、そこに顎をのせ、息をついた。手紙が薄暗い机の奥までふらふらと飛んだ。駄目だ、どうしても気になってしまう。気づかないうちに存在する小蠅の死骸のように優太郎の存在が頭の隅でひっそりと息づいていた。優太郎を助けたい。その気持ちはあった。ただどうすればいいのか、和馬にはわからなかった。先生にいじめを告白したらいいのだろうか。それで効果がなかったことを優太郎も知っているはずなのに、どうしてあんな目で僕を見たのだろう。和馬の脳裏に昨日の昼休みに向けられた優太郎の目が過ぎった。鈍く光った瞳には、助けて、と訴える執念が感じられた。

 頭の中がずしりと重くなり、和馬は椅子の背にもたれた。僕にできるのは身代わりしかない。ただ、そうする気はなかった。せっかく手に入れた平穏を捨ててまで地獄に飛び込むのは自ら命を捨てるようなものだ。鈴木にしろ、取り巻きにしろ、彼らに立ち向かったところでその先にあるのは敗北だ。みんなそれをわかっているから彼らを無視している。先生もそうだ。いじめが発覚すればややこしい仕事が増えるだけでなく自分の将来も危うくなる。いざ責任を問われたときに、あれ以上どうすることもできなかった、と言えるように最低限の仕事をして自分を守るための口実を作る。抵抗するのはいつだって被害者だ。昨日の昼休みでも、優太郎は最後まで口を閉じようとしていた。優太郎だけでなく、食べられるために生まれてきた鶏すら殺される寸前まで何らかの抵抗をするはずだ。そして、その抵抗は無駄に終わる。この身を持って学んだのだから間違いない。僕のような力のない存在は決して逆らってはいけない。そうすれば静かに過ごせるのだから。

 和馬は体を起こし、手紙を手に取った。僕の力では優太郎を救えない。でもそれは鈴木たちから救えないだけだ。優太郎の心を救うことなら、せめて、優太郎を支えることなら僕にだってできるはずだ。何気ない一言でもいい、自分はひとりではないと、そう思えることがどんなに心強く、あの地獄のような日々を乗り越えるための力になるのか、僕は知っている。優太郎の真似事になるが、僕にできるのはこれしかない。

 和馬は机の引き出しを開け、奥から残り少ない便箋を出した。

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PARADISE よしとき @yoshitoki

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