PARADISE

よしとき

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 今日も平和だ、と篠原和馬は思った。教室で過ごす昼休み、弁当のにおいと春を引きずる風と陽射し、制服と笑顔と、ときどき、真顔。

 和馬は残しておいた鶏のから揚げを食べ、弁当箱をバッグに入れた。昨日の夕食だった鶏のから揚げ。出来立ては涎を誘うほど魅力的だった。それが冷たくなった今、茶色の粘土を丸めたような物体にしか見えなかった。水ぶくれのようにふやけた衣と固くなった肉に歯を通し、何も考えていないような顔で咀嚼する。鶏の淡白な味、生姜の風味、鈍器で殴ったような物音と笑い声、喉を通る鶏のから揚げ。

 和馬はペットボトルの麦茶を飲みながら教壇を見た。教卓に誰かの頭が押さえつけられていた。その周りを数人の男子が囲み、食材を前にした料理人のような真面目な表情で喋っていた。頭を押さえつけられた生徒は絞められた鶏のようにぴくりともしない。黒い髪とその真ん中に浮かぶ白い旋毛。舌に残った鶏の味が息を吹き返したように生々しくなる。生まれて、殺されて、それぞれの部位にわけられた鶏は和馬の母親に調理され、和馬が食べた。やがて和馬の血となり肉となり、和馬の生きる糧となる。この鶏はそのためだけに生まれてきた。和馬はズボンのポケットに手を入れた。指先に紙が触れた。あの生徒は彼らの糧になるために、どんな目に遭わされるのだろう。

 話がまとまったのか、頭を押さえつける男子を残し、他の男子たちが教室を出た。和馬は麦茶を飲み干し、教室の後ろにあるゴミ箱にペットボトルを捨て、席に戻った。窓際の後ろから二番目の席。ここから廊下側にあるゴミ箱まで往復する間、女子が話す芸能人の話や男子の笑い声が耳に入り、爽やかだったり甘かったりするにおいが鼻をくすぐった。声も、においも、友達のように馴れ馴れしく和馬に触れてくる。

 窓の外から、にゃん、と短い鳴き声が聞こえた。見ると、校舎裏の路地に野良猫がいた。真っ白な毛と長い尻尾を持つ、初めて見る猫だった。しばらく見つめていると猫の方が先に顔をそむけた。飽きた、と言いたげな気だるい動きだった。気まぐれで、どこか愛らしい仕草に、和馬は思わず頬をゆるめた。

 おごるから飲めよ。男子の声が耳に入り、和馬は視線を戻した。教室を出た男子たちが教卓の周りに戻っていた。頭を押さえつける男子の手が髪を引っ張り、生徒の頭を持ち上げた。中村優太郎だった。顔立ちが整っているせいか、屈辱に耐える表情すら絵になっていた。男子が髪をつかんだまま、優太郎の口にペットボトルを近づけた。和馬がさっきまで飲んでいた麦茶と同じラベルだった。唇にペットボトルをつけられても、優太郎は口を開こうとしなかった。

「さくっと飲ませろよ」

 男子たちにつられ、和馬も後ろを見た。鈴木健人の声だった。鈴木はロッカーの上でテレビを見るように片肘をついて横になっていた。長身で、色黒で、短く切った髪をきっちりと立て、悪餓鬼をそのまま高校生にしたような笑みを浮かべていた。わかってんだけど、と答えつつ、男子がペットボトルを押し込もうとしたものの、優太郎は首を左右に振り、頑なに口を開けようとしなかった。

「甘いんだよ」

 そう言って鈴木がロッカーから飛び降り、机と机の間を歩きながら制服についた名札を外し、針を出したまま教卓の前に立った。すらりとした背中に優太郎の顔が隠れてしまった。

 和馬は椅子の位置をずらして机に突っ伏し、眠そうなふりをしながら対峙する二人を見た。優太郎は喉に噛みつきそうな顔で鈴木を睨み、鈴木は白い歯を見せながら優太郎を見下ろしていた。鈴木が優太郎に見せつけるように名札を近づけ、優太郎の首の付け根に針を刺した。優太郎が、くっ、と首を捻られたような声を出し、開いた唇から食いしばる歯が見えた。よし開いた、と鈴木が言うと、優太郎が唇を噛むようにして口を閉じた。鈴木が優太郎の首の付け根に、もう一度、針を刺した。目を閉じ、頬を震わせ、下唇に歯をめり込ませる優太郎の表情から音のない悲鳴が上がった。その悲鳴は和馬の耳に届き、かつて自分も味わった苦痛を思いださせた。

「頑張るねえ」

 優太郎の反応を楽しむように笑いながら、鈴木が名札の針を押し込んだ。優太郎の口が開き、喉を潰してしまいそうな大声で何か叫んだ。一瞬、教室が静まり返り、すぐに賑やかさが戻った。

「ほら、今だよ」

 鈴木の声を聞き、男子が優太郎の口にペットボトルを突っ込んだ。ペットボトルの角度が上がり、二口ほど飲んだところで優太郎が吐いた。その勢いでペットボトルが落ち、ペットボトルを持っていた男子と鈴木が左右に避け、教卓の前が水浸しになった。男子たちが、くせえ、と言って鼻をつまんだ。教室のところどころから、なにこれ、と声が洩れた。そのにおいが和馬のところまで届いた。胸の中をもやもやとさせる嫌なにおいだった。このにおい、嗅いだ覚えがある。優太郎が激しく咳き込み、口の端から涎が垂れた。ああ、わかった。トイレのにおいだ。それも小便器のにおい。あの液体は間違いなく尿だ。

 優太郎が顔を上げ、和馬と目を合わせた。和馬は急いで視線を外した。その目に廊下を歩く担任の先生が映った。担任の先生が教室の前で足を止め、おい、と声をかけた。教卓を囲む男子たちが一斉に廊下を見ると、やんちゃするなよ、と担任の先生が笑顔で言った。わかってます、と教卓を囲む男子たちが元気よく答えると、担任の先生が、よし、と頷き、鼻歌を歌いそうな顔で歩き出した。

 和馬は腕枕を作り、そこに顔をうずめた。音だけでもわかる。教室は今日も平和だ。男子たちの一際目立つ笑い声を聞きながら、和馬はそう思った。

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