第5話 疑惑と挑戦状のジグソーパズル

 幸恵の出張初日。星光文具の商品開発研究所に、始業時間前にきちんと出向いた幸恵は、前回同様受付に荷物を預けて事務所棟に乗り込んだ。そして業務が始まって早々に設定されていた会議で、所長以下各部門の責任者が揃っている前で挨拶し、所長に促されて今回の出張の目的を簡潔に説明する。


「……以上の手順で、一覧表でお渡しした内容のデータチェックとシステムチェックをしていきますので、これから1ヶ月宜しくお願いします」

 そう言って殊勝に頭を下げた幸恵だったが、その場全員無言を貫き、あからさまに嫌な顔をしている者までいた。そんな冷え切った空気の中、その場に場違いなのんびりとした声が発せられる。


「了解しました。本社の谷垣部長から概要は伺っていますので、こちらもすぐ見て貰えるデータは揃えておきました。いつでも目を通して下さい」

「ありがとうございます。それでは早速、研究棟のA3室を見せて頂きたいのですが」

「分かりました。担当者に連絡します。このまま待っていて下さい」

「はい、分かりました」

 ここの統括責任者である小池所長は読めない表情で一見穏やかに了承し、内線の受話器を取り上げてどこかに指示を出し始めたが、一方的に仕事を押し付けられた格好になった挙句、監視紛いの行為をする事になる幸恵に対する当て付けのつもりか、他の者達が席を立たないまま口々に言い出した。


「しかし……、この前の人事異動では、本社の商品開発部のメンバーが、随分配置換えになったそうですね」

「去年二十代の係長がお目見えしておやおやと思っていたら、今度は二十代の女性が主任ですから。ちょっと驚きましたよ」

「しかも係長は社長の息子で、主任は今をときめく有名代議士の姪御さんとか? 七光りが眩しくて、仕事にならないのじゃありませんか?」

「二人分だから、七光りでは無く十四光りでは? 本社の商品開発部は、今やお遊び感覚の坊ちゃん嬢ちゃんの遊び場ですかね」

「文具メーカーから玩具メーカーに、看板をかけ替えたらどうでしょう」

「そりゃあ良い。意見書でも出すか?」

 互いの顔を見ながらカラカラと三十代後半から五十代の男達が笑ったが、所長は涼しい顔で特に咎める風情も見せなかった。


(なるほど。これ位は案内役が来るまでの待ち時間の間に、軽い雑談をしていた位の感覚なのよね。それならまともに対応するのは馬鹿をみるわ。雑談には雑談で返す事にしましょうか)

 二月近く前に本社内で広まった噂を蒸し返されて多少ムカついた幸恵だったが、そんな事は面には出さず素早く状況判断をした。そして余裕の笑みを顔に浮かべつつ、ゆっくりと口を開く。


「皆様、こちらの研究所に居られながら、本社内の事情にも精通されておられる様で、なかなか感心な事ですね」

「……何だと?」

「したり顔で何を言っている」

 言外に含んだ軽蔑の感情を、感じ取れない程鈍い人間揃いでは無かったらしく、その場の何人かが気色ばんだ顔を向けた。しかし幸恵はその視線を淡々と受け流す。


「ですが、肝心な情報が抜け落ちていませんか? この前の人事異動では、バカボン係長の間抜け企画を、考え無しにほめちぎった阿呆共が一掃されたんですよ? 単なるバカボンの遊び場なら、阿呆を寄せ集めて飼っておくだけで十分でしょう。掃除をする必要性があります?」

「バカボン係長……」

「間抜け企画……、そこまで言うか?」

「阿呆の寄せ集めって……」

 あまりの毒舌っぷりに唖然となった面々を尻目に、幸恵はとどめを刺した。


「それに……、先程私の縁戚がどうのこうのと聞こえましたが、私がもしそんなコネで入社して配属されたなら、そんな人間に暴言を吐く人間なんて、真っ先に綺麗さっぱり放逐されそうですね。そこの所、皆さんはどう思われます?」

「…………」

 嫌味たっぷりに幸恵が問いかけると、その場の全員が押し黙った。それを見た幸恵が(これ位言われただけで口を噤むなら、最初から場を弁えなさいよ!)と腹を立てつつ、追い討ちをかける。


「それとも? 皆さんはそんなに今の仕事に不満をお持ちで、自主退職する前に、鬱憤晴らしのつもりでそんな事を仰ったんでしょうか? それなら同じ星光文具の社員として、気の済むまでお聞きしますよ? ついでに本社に戻る時は、辞表をお預かりしていきます。どうぞご遠慮なさらず」

 口調だけは穏やかに、周囲を冷ややかな笑顔で見回した幸恵だったが、ここで苦笑気味の声が割り込んだ。


「荒川主任、その辺で。申し訳ないね、口のきき方を知らん部下ばかりで」

 傍観する事は止めたらしい小池が軽く謝罪すると、幸恵も軽く頷いてすこぶる冷静に応じた。


「私としては、こちらに所属されている方は営業職ではありませんので、口が悪かろうが態度が悪くて悪意が有ろうが、仕事をして頂ければ問題は無いと思っています。つまらない御託を吐かれた分の仕事は、していただけると思って宜しいでしょうか?」

「期待を裏切らない様に、皆に鋭意努めさせます」

「宜しくお願いします」

 周囲からの視線が突き刺さっていたのは分かっていたが、幸恵は今更気にする事もなく、案内役の人間がやって来たのを期に会議室を出て自分の仕事を始めた。


 しかし流石に初日からやらかしてしまった自覚はあった為、昼休みに弘樹に『暴言を吐かれて、倍返しして揉め事を起こしました。申し訳ありません』と一応謝罪のメールを送ったものの、すぐに『お前が喧嘩売られて大人しくしてるとは、俺を初めとして課長も部長も思っていない。安心しろ』と返され、(私って、職場でどんな人間だと思われてるの……)と軽くへこむ結果となった。


 そんな風に、予想範囲内の軋轢を抱えつつ一日の仕事を終わらせた幸恵は、受付で預かって貰っていた荷物を受け取り、事務所棟に隣接した独身寮に向かった。

 結構な広さの敷地内に建てられているそれは、研究棟や事務所棟と渡り廊下で連結しており、一階の食堂は社員は自由に利用できる為、昼休みに昼食を食べるついでに荷物を運び込もうと思えば出来たのだが、休憩時間も書類の精査に結構時間を割いてしまった幸恵は、結局業務後に荷物を移動させる事になったのだった。


「……初日から疲れたわね」

 どうしても口から漏れ出る愚痴に益々うんざりしながら、幸恵が食堂とは反対側の入口から寮に入ろうとすると、入口横の管理人室に常駐している初老の男性が、人の良い笑みを浮かべて幸恵を呼び止めた。


「あ、荒川さんでしたよね? 昼に荒川さん宛てに荷物が届きましたから、こちらで預かっていました」

「ありがとうございます。でも誰からかしら? ……兄さん?」

 既に何回か利用させて貰っている為、顔見知りになっていた管理人から手渡された、ダンボール箱の上に貼られた伝票の送り主名を見た幸恵は、益々怪訝な顔をした。しかし管理人は心持ち安堵した表情を浮かべる。


「やっぱりお兄さんからだったんだね。書籍・食品なんて書いてあるから、身内の方が差し入れを送ってきたとは思ったんだが。最近は色々物騒だから、変な物が送りつけられたりしないか、警戒する必要があってね」

「差し入れにしても……、どうして出張初日に送りつけるのかしら? きちんと食事だって出るし、泊まりがけの出張は今回が初めてじゃ無いのに。それに自宅にも差し入れの類は、これまで送って来た事は無いのに」

 幸恵が何となく釈然としない思いに駆られていると、相手は素早く幸恵が首から下げているネームプレートを見ながら、尤もらしく言い出した。


「まあまあ。荒川さんは最近主任さんになったんだよね? 春に来た時は肩書きは付いて無かったし」

「ええ、秋の人事で……」

「それを聞いたお兄さんが、仕事が大変になったんじゃないかと、急に心配になったんじゃないかな? だからせめて差し入れ位するか、何て気持ちになったのかもしれないよ? ありがたく受け取って、お礼の電話をかけてあげれば喜ぶと思うけどね」

 真顔でそんな事を勧められた幸恵は、素直に頷いた。


「そうですね。ありがとうございました。頂いていきます」

「じゃあスーツケースは俺が運んであげるから。1ヶ月頑張って。階段に気を付けるんだよ?」

「はい」

 そうして管理人に三階までスーツケースを運んで貰った幸恵は改めて礼を述べ、受け取った鍵で室内に入った。そして勝手が分かっている為、手早く作り付けのワードローブやチェストに衣類をしまい込み、小物を整理すると夕食の時間になる。その為慌ただしく食事をしに一階へと降り、なんやかやで幸恵が落ち着いて送りつけられた箱の中身を確認出来たのは、二十時を過ぎていた。

 しかし開封した箱の中身を見下ろした幸恵は、本気で困惑した。


「本当に、どういう風の吹き回し? それにどうして兄さんが、私がいつも読んでいる雑誌や、お気に入りのお菓子の銘柄まで知っているわけ? それに……」

 ぶつぶつと独り言を呟きながら、幸恵はお菓子の下にひっそりと入っていた、些かそこに場違いな箱を手にして、目線の高さまで持ち上げた。


「何よ、この如何にも『完成できるものならやってみな』的な、手強すぎる青空と白い雲の二千ピースジグソーパズルは……。喧嘩を売ってるわけ?」

 滅多に口にしない事ながら、実はここ何年か幸恵はジグソーパズルマニアであり、しかも単調で見分けが付きにくい図柄のピースを揃えていくのに喜びを感じるタイプの人間だった。しかし以前それを口にした時、周囲から『暗い』とか『執念深そう』とか『見ているだけで疲れる』などと否定的な言葉が返ってきた為、殆どの者には教えていなかった。その中には足が遠のいている実家の面々も含まれており、不思議に思いながら、幸恵は兄に電話をかけてみた。


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