第4話 意地っ張り

「……ですから、このデータから推測すると、PF3号の比率をあと5%増やして混合すれば、上質紙での発色が際立つ筈です」

 会議開始から一時間後。部内で製品の開発状況を話し合う席での堂々巡りの議論に、主任に就任したばかりの幸恵は、早くも切れかけていた。


「しかし、これは粘度調整の上で問題が。加えてプラントを調整する必要が出てくるかもしれないですし」

「それに書き味に直結してくるんですよ?」

「それは混合時の温度調整と溶剤の選択を的確にすれば、既存の設備を利用できる上、グリーシャズの性質を最大に活かせる筈では? どうして今の時点でそのデータが揃っていないんですか? 二ヶ月前に指示は出ていますよね!?」

 とうとう声を荒げた幸恵に、周囲の男達が不服そうに呟く。


「それは……、研究所の方に言って頂かないと……」

「それに……、連中『勝手に色々押し付けてきて何様のつもりだ』という雰囲気がありありで、こちらの言う事をまともに聞いた試しが」

「本社の試験室でデータが取れないなら、研究所と密に連絡を取り合って円滑に業務を進めるべきです。自分の怠慢を棚に上げて、他人をあげつらうのはやめて下さい。不愉快です。それこそ何様のつもりなんですか!?」

「…………」

 流石に言い過ぎたかとは思ったものの、常日頃より二十代で女性である幸恵が主任になった事に、陰で不平不満を口にしている者達から責任の押し付け合いの台詞が出た為、幸恵はここははっきり言っておくべきだと表情を引き締めた。そんな一歩も引かない気配を察してか、室内に険悪な雰囲気が充満しかけた所で、些かのんびりとした声が発せられる。


「荒川主任、その辺で。主任の言い分は尤もだが、今色々業務が滞っているのは、前任者達の怠慢によるものが多いんだ。秋の人事異動で人員を大幅に入れ替えてまだ1ヶ月も経過していないんだから、責めるのは酷だろう」

 係長である弘樹から(気持ちは分かるが、その辺にしておけ)との目配せを受けながらの台詞に、幸恵は言いたい事を堪えながら、上座の課長や部長の方に向かって殊勝に頭を下げた。


「確かに、感情的になり過ぎました。申し訳ありません」

 それに上役二人も黙って頷く中、弘樹がさり気なく言葉を継いだ。


「とはいえ、今の状態を放置も出来ない。確かに俺から研究所に連絡を取っても、必要なデータがなかなか送られて来ないからな。それで急で悪いんだが主任、来週から1ヶ月程度研究所に出向いて意志の疎通を図って、データ収集を急がせて来てくれ。春に2ヶ月集中して行って貰ったばかりだが……」

「構いません。それでは今週中、必要なデータの項目を纏めておきます」

「悪いな」

 正直、面倒な事になったと思ったものの、ここで不毛な会話をしているよりかは有益かと割り切った幸恵は、躊躇いなく頷いた。それを見て幸恵を目の敵にしている何人かの者はいい気味だという様にほくそ笑んだが、書類を捲りながら弘樹が淡々と指示を出す。


「それで他の者は、その間に修正液の粘度の改良案、ボールペンのノック部の部品縮小化、簡易操作用の電子部品集積、ディスプレイ拭き取り用のマイクロファイバーの市場調査、クリップの強度強化軽量化の為の合金素材の発掘を済ませておくこと。これでどうでしょうか、部長?」

「ああ、これ以上の話し合いは無駄だな。会議はこれで終了とする。各自期限内に結果を出す様に。それで構わないな? 戸出課長」

「はい、異存はありません。業務の配分は遠藤係長に任せる。宜しく頼むよ」

「分かりました」

 幸恵と同様、もしくはそれ以上に煮え切らない議論に苛立っていたらしい上役達は、短く指示を出して立ち上がり、さっさと会議室を後にした。その為置き去りになった下の者達は、互いの顔を見合わせて呆然となる。


「え? ちょっ……」

「あの、部長?」

「遠藤係長……、1ヶ月でって……」

「安心しろ。きちんと出来る範囲で割り振るから。俺の期待に応えてくれよ?」

「…………」

 そう言って不敵に笑った弘樹が、先程幸恵に対して悪意を含んだ視線を投げた者達を見逃す筈は無く、幸恵以上に面倒かつ煩雑な仕事を割り振られる事は、確実な情勢だった。

 そして意気消沈して皆がぞろぞろと会議室を出て行く中、最後まで書類を纏めていた幸恵は、同様に残っていた弘樹に思わず愚痴を零した。


「仕方ありませんが、1ヶ月ですか……」

 溜め息混じりのその台詞に、さすがに貧乏籤を引かせた自覚があった弘樹が、申し訳無さそうに告げる。

「春の時は本当にお客さんで、データ収集だけに専念してれば良かったがな。今回は職責者として半分視察で出向く形になるから、必然的に居心地が悪くなると思うが、宜しく頼む」

「はい、了解しました」

 立場上の責任はきちんと自覚していた幸恵は、苦笑しながら頷いて話を終わらせたが、その日一日すっきりとしない気持ちのまま業務を終えた。

 そして帰宅しようとエレベーターで一階まで降り、正面玄関に向かいながら考え込む。


(係長にああ言ったものの、気が重いわね……。何か食事を作る気がしないわ。どこかで食べて帰ろうかしら?)

 そんな事を考えながら歩いていると、自分の進行方向に一人の人間が立ち塞がり、朗らかに声をかけてきた。


「お疲れ様、幸恵さん。今日もお仕事ご苦労様」

 そう言ってにこにこと愛想を振り撒いている和臣を認めた途端、幸恵は無表情になった。


「……何であんたが、ここに居るのよ?」

「一緒に食事をしようと思って。そうメールで送っただろう?」

「返信していませんけど?」

 素っ気なく返答した幸恵だったが、和臣は理路整然と言い返した。


「無視するにしても、真面目な幸恵さんなら元々外せない用事が有ったのなら、『用事が有るのでお断りします』と送信した上で着信拒否にするだろう? それが無いって事は、必然的に特に断る用事も無かった事になるから、食事に行けるよね?」

(何なのよ、その私の性格を完全に把握してます的な発言は!?)

 殆ど確信しているらしいその口調に、幸恵は訳もなく反感を覚え、冷たく言い放つ。


「食事をご一緒するのは、お断りします。れっきとした理由がありますので」

「へぇ? どんな?」

 面白そうな表情で見やってくる和臣に、幸恵は内心で僅かに怯む。

「……仕事上の事なので、一々部外者に言う筋合いのものではありません」

(全く、大人しく引き下がる気配は無いし、残業を思い出したとでも言おうかしら?)

 忌々しくそんな事を考えていると、その時幸恵の背後から救いの手が差し伸べられた。


「あれ? 君島さん奇遇ですね。こんな所でどうかしましたか? 綾乃ちゃんと待ち合わせですか?」

 帰宅しようとした弘樹が一階エントランスに珍しい姿を認め、二人に歩み寄りながら声をかけてきた。それに和臣が反応するより先に、幸恵が弘樹の腕を素早く掴んで早口で述べる。


「ああ、今晩は、遠藤さん。実は」

「実は急遽決まった来週からの埼玉出張について、係長と食べながら打ち合わせをする予定でして! そういう訳ですので失礼します」

「お、おいっ! 荒川。何もそんな話」

「係長、何ボサッとしてるんですか。さあ、行きますよ!」

「そうですか。お疲れ様です」

 そうして訳が分からないまま幸恵に引き摺られていく弘樹を、和臣は苦笑して見送った。すると今度は和臣の背後から、当惑した声がかけられる。


「……ちぃ兄ちゃん? こんな所で何してるの?」

 その声を発した人間を間違える筈もなく、和臣は笑顔で振り返った。

「ああ、綾乃、お疲れ様。幸恵さんを食事に誘いに来たんだけど、振られてしまってね」

 あっさりとそんな事を言った兄に、綾乃は困惑気味の視線を向けた。


「ちぃ兄ちゃん、幸恵さんに結婚を申し込んだって本当?」

「まだしていないぞ?」

「まだ、って」

 半ば呆れた綾乃に向かって、和臣が悪びれずにとんでもない事を口にする。

「すっかり、プロポーズした気になっていたがな。ちょっと失敗した」

 それを聞いた綾乃は、がっくりと肩を落とした。


「ちぃ兄ちゃんが、夢想癖の持ち主だったなんて知らなかった……」

「大丈夫、心配するな。ちゃんと手順は踏むから」

「踏むからって……、幸恵さん怒ってるよ? 多分嫌われてるよ? 諦めようとか思わないの?」

 綾乃にしてみれば当然の問い掛けだったのだが、和臣は真顔で問い返した。


「綾乃。君島家の辞書に『諦める』とか『敵前逃亡』とか『不戦敗』なんて文字があると思うか?」

「…………無いよね」

 一家の行動パターンを思い返し、沈痛な面持ちで項垂れた綾乃の気持ちを引き立たせる様に、和臣は明るい声で話題を変えた。


「そういう事だから、今日はお前のマンションで飯を食わせてくれ。構わないだろ?」

「え、えっと、それは……」

(今日は……、祐司さんが夕飯を食べに来る事になってるんだけど……)

 さすがに直前のキャンセルは拙いだろうと思って口ごもった綾乃に、和臣が些かわざとらしく、拗ねた様に話を続ける。


「まさか、わざわざ幸恵さんを訪ねて会社まで来たのに盛大に振られて傷心の兄より、同じ会社勤務で会おうと思えばいつでも会える彼氏との約束の方が、大事だなんて言わないよな? 綾乃? お前はそんな薄情な妹じゃないと、俺は信じているぞ?」

 そして、そこまで言われて拒否できる綾乃では無かった。


「どうぞ……、歓迎します」

「そうか、それは良かった。じゃあ行くか」

「あ、そうだ! ちぃ兄ちゃん、荒川の伯父さんの家に一人で行ったでしょう! 幸恵さんから聞いたんだからね? お祖母ちゃんにお線香を上げに、連れて行ってくれるって言ったくせに!」

「ああ、すっかり忘れてたな。分かった。今度の週末にでも顔を出すか」

「もう! きっとだからね!」

 そんな事を言い合いながら、兄妹二人は綾乃のマンションに向かって歩き始めた。

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