3-3

 背中に固い感触を受けながら、ノインは目を覚ました。天井からぶら下がった古びたペンダントライトが、普段よりも少し遠く見える。

 ノインは軽く身を起こして首を捻り、近くのローテーブルの上にあった時計に目をやった。

 針が指し示す時刻は午後四時。早ければ、もう少しで霧が確認できるようになるだろう。しかし出なければ、今晩の仕事は休みである。

 ただ今晩は、霧の有無に関わらずスキューアには顔を出すつもりだった。リリの件でいくつかボスウィットに相談があるし、給料の残り半分も受け取らねばならないからだ。

 だがそう考えつつも、ノインは今一度横になって、自分にかかっていたくるまり、起床前に許されるわずかな休怠を堪能しにかかる。

 が、そこでふと、ノインは気付いた。


(……?)


 自分が寝る前に体にかけたのは、自分のコートだったはずだ。この部屋に毛布は一枚しかないし、それは彼女にかけてある。

 ならこの毛布は、なんだろうか。

 ノインはその存在を訝しみながらも、不意に自分の隣に目を向ける。


「!」


 そこで目に入ったのは、安らかなリリの寝顔だった。

 鼻先が触れ合いそうなほど直近に、彼女の顔はある。

 ノインは驚いて身を起こすと、彼女を見下げた。

 するとリリもその気配で目を覚ましたのか、のそのそと身を起こした。

 状況から見て、ソファから転がり落ちてきたという感じではなさそうだった。明らかに彼女は意図的にノインの隣に移動してきている。


「……なんでこっちで寝てんだ」


 するとリリはしばらく考える素振りをみせてから、ノインに返答した。


「あったかいから」

「…………」


 どこの馬の骨とも知れぬ男の寝床に潜り込む無警戒さを咎めようかと思ったノインだったが、寝起きであまり頭も回らないので、それは後回しにすることにした。

 そうかい、とだけ答えて、大きな欠伸を一発。


「……起きるぞ」


 ノインは彼女に告げると、毛布を押しのけて立ち上がろうとする。

 だがその途中で、体が何かに引っ張られて動かなくなった。横を見ると、なぜかリリがこちらのシャツをぎゅっと掴んでいる。


「んだよ」


 ノインは中腰の姿勢で軽く抵抗してみせるが彼女の手はびくともしない。

 そういえば昨日スキューアで話している際にも、リリは強い力でノインの服を引っ張ってきたことがあったが、この膂力も、彼女の持つ魔法使いの力に由来するものなのかもしれない。

 しかしその時、ノインはリリの力でぐい、と引き寄せられた。

 彼女も身を寄せてきているようで、ノインの眼前にはみるみるリリの顔が近づく。


(――っ! まさか――)


 食う気か――そう思ったが、とっさのことに何も反応できなかった。

 リリの薄紅の小さな唇が、ノインの唇を食らうように、しかし優しく包み込む。彼女の柔らかな前髪がふわりと鼻先をかすめ、心地の良い繊細な香りが漂った。

 ノインは身じろぎ一つできず、彼女の行為を呆然と受け止めた。

 対してリリは、目を閉じてノインの首に腕を回し、見た目から想像できないほど、艶っぽく情熱的なキスを続ける。

 しかしそこで、ノインはようやく我に返った。


「~~~~~~!」


 ノインはリリを強引に引っぺがすと、座ったままで後じさる。

 だがなにぶん狭い部屋だ。すぐに退路は断たれ、背後にあった棚にノインは思いっきり後頭部をぶつけてしまう。


「っ~~!」


 ノインは頭を押さえてうずくまる。

 痛い。夢なんかじゃない。

 そんなことを思いながらも、ノインはその痛みを堪え、目の前の少女に向かって叫んだ。


「な、何してんだお前は!」


 ノインの声は半分裏返る。

 驚愕と恥ずかしさで心臓の鼓動は早い。自分に懐いているとはいっても、これは少々度が過ぎていた。一体どういうつもりなのか。

 だがノインの怒声にも動じず、少女は笑っていた。

 小さく、堪えるように、くすくすと。

 それを見たノインは、また彼女に『彼女』を重ねた。


『――お目覚めのキス。なんてね』


 ついでに、ソフィアとのファーストキスが、そんなくだらない悪戯のようなものだったことも思い出す。あれは確か、スキューアで一人うたた寝していた時だったか。


「……はぁ……」


 ノインはまだ痛みの残る後頭部をさすりながら、ふらふらと立ち上がる。

 ある程度の情操教育はしてやらねばならないのかもしれない。そんなことを考えつつ。

 しかし当の本人は、もはやこちらの気持ちなどお構いなしといった雰囲気で、すでに別のものに興味を示していた。彼女は何かを手に握って、それをじっと見つめている。

 立ち上がったノインが彼女の手の中を見ると、そこにはペンダントが一つ握られていた。直径三センチぐらいの、異境の銀貨で作られたペンダントトップ。上部に開けられた小さな穴には、アクセサリー用の細い紐が通してある。おそらくノインが頭をぶつけた際に、後ろにあった棚から落ちてきたのだろう。


「……返してくれ」


 ノインは彼女にそう言って手を差し出す。

 だが彼女はそのペンダントを、ノインに突き返すようにしながら言った。


「つけて」

「は?」

「ちゃんとつけて」


 リリは再び手を伸ばし、ノインにそれを身に着けるようにと催促する。


「……なんでつけなきゃなんねーんだ」

「…………」


 リリは頑なであった。ペンダントを携えたままこちらを見据えて、身じろぎ一つしない。

 ちなみにこのペンダントは、ソフィアからの贈り物である。

 ノインも、これとほとんど同じデザインのものを彼女に贈っており、一応はペアということになるだろうか。

 事の成り行きは、スキューアの物置にあった二枚の銀貨をノインが見つけたことから。

 それを見たソフィアが、これをそれぞれ自分で加工して、互いに贈り合おうと言い出したのだ。結局二人ともペンダントになり、デザインも似通ったものになったが、彼女に贈り物らしい贈り物をしたのは、この時が最初で最後になった。

 ちなみにソフィアが持っていたものは、今はカリーナに預けてある。


「つけねーよ。これはここに置いとくんだ」

「やだ」

「やだじゃねーよ」

「つけて」

「…………」

「つけて」


 リリの瞳は怒っているようでもあった。彼女の目の中の光は、ノインを捉えて離さない。

 そしてノインはまた一つ思い出した。

 確かこれは、テコでも動かない時の目だった、と。


「わーったよ……」


 ノインは彼女からペンダントを受け取り、首から下げる。

 実はノインは、ソフィアが生きていた時もこれを着けたことはなかった。お揃いというのがなんとなく気恥ずかしかったのだ。ソフィアは身に着けてくれていたようだが。二人一緒に着けたことはたぶんない。


「……もういいか?」


 言ってノインはペンダントを外そうとする。

 しかしそんなノインに、リリは頬を膨らませて今度こそ怒って見せた。

 ……どうやら、そのまま着けとけということらしい。

 彼女がこれに固執する理由はさっぱり分からなかったが、ノインはペンダントをそのままにして、一人洗面所へと向かう。そして眠気と、先ほど無駄に上がった顔の熱を冷ますように、いつもより回数多めに顔を洗ったのだった。


 ○ ○ ○


 その後、霧が出ていることを確認したノインは、リリにも身支度を指示した。

 しばらくは一緒に暮らすことになるわけだが、ノインは自分が仕事に出ている間、彼女をスキューアに預けようと思っていた。ボスウィットが許可してくれるかわからないが、この部屋に彼女を一人置いておくのは何かと心配なのだ。リリの件の相談というのは、このこともある。

 しかし、そんなノインの前には、ある苦難が待ち受けていた。

 どうもリリは身支度一つ自分でできないようだった。どうもその部分の知識はごっそり抜け落ちているようで、水はこぼすし、石鹸は食べようとする。おまけに例のバカ力で思いっきり蛇口をひねるものだから、ただでさえボロい蛇口は簡単に壊れてしまった。

 当然、風呂に関してもあれこれ面倒を見なければならない状態であり、何故かしれっとこなしていたカリーナに応援を頼みたい気分だった。

 そして彼女がすべての身支度を終えたとき、ノインはぐったりと疲れて果てていたのだった。

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