第3話 妖精少女 《マイフレンド》

 妖精というものを見たことはないが、それはきっとこのような見た目をしているのではないか。

 目の前で眠っている少女を見て彼はそう思った。


 つややかな黒の毛並みは常闇蝶とこやみちょうの羽、白くなめらかな肌は涙百合リリティアの花弁、閉じた瞳の奥にあるのは黒瑪瑙オニキスか、あるいは瑠璃ラピスラズリか。


 随分と長い間を岩と土塊つちくれのなかで暮らしてきた彼にとって、少女の持つ瑞々みずみずしさは神聖で特別なものに思えた。だから彼は少女のことを「妖精の国ファタナシオ」からきた妖精ではないかと思ったのだ。


 この可憐ではかなげな娘は、なにゆえ斯様かような場所に一人でいるのか。


 傷を負い、汚れた服に身を包んだ少女の顔には涙の跡が残って見えた。


「どうせ、ろくな話ではあるまい」

 口減らし、孤児、追放――少女が荒野を彷徨さまよう理由は彼にもいくつか想像出来た。

 

妖精の国ファタナシオにも地獄はあるのか……」

 憐れな少女の身のうえを思い、彼は残酷な世界を憎んだ。



 誰時たれどきの空には黄泉雀ヘレムスの群れが集まっていた。

 彼は少女を狙う魔鳥を雄叫おたけび一つで追い払い、地面に腰を下ろしてかばんの口を素早く開く。

 大きなブラックカーフの肩掛け鞄のなかには、水や食料だけでなく薬や医療道具も入っている。群れから離れ一人で暮らしている彼にとって、この鞄は何より大事な命綱、相棒のようなものだ。


「……血と水分を失い過ぎているな」

 水袋の管を少女の口に差し込み、鋭い爪があたらぬようにと気を付けながら、彼は少女の顔から涙の跡を拭った。


 この花を、散らすわけにはいかない。


 呟く心の声には、彼自身戸惑うほどの熱がこもっていた。

 彼は静かに息を吸い込み、仮面を外して傷の手当てを開始する。

 洗浄、消毒、縫合、最も重傷である左手の咬傷こうしょうを彼は手早く処置していった。痛みのなか、苦悶の表情を浮かべる少女はうわ言のように誰かの名前を呼んでいた。


 セガール、セガールと。


「家族……いや、恋人の名か。これほど美しい娘だ、オスも放ってはおくまい」

 少し切なげな表情で彼は呟く。

 処置を済ませた頃には朝日が昇りきっていた。

 彼はその明るさから身を隠すように、黒いマントでその身を包み、仮面を再びつけ直した。

 

 やはり、来たか。


 少女を運ぶため、始動機スターターに魔力を通して「浮きソリ」を浮上させる。その瞬間、黒い影のような獣が岩陰から姿を現した。


影狼シャトルーヴ……」

 血の臭いに誘われてきたのか、漆黒の魔狼は低い唸り声を上げ、二人の前に立ちはだかった。彼は少女を抱えて後ろに飛び退き、うような動きで浮きソリの影に身を隠した。


「忌々しい……」

 こぼした声に屈辱と怒りがにじむ。

 緊張で喉が渇き、身体が小刻みに震える。鬼種おにしゅさえ狩り殺す彼は、自分より遥かに弱い相手――影狼シャトルーヴに怯えていた。


 まるで、蛇に睨まれた蛙。


 種族を縛る鎖は硬く、引きちぎるのは容易ではない。彼が魔狼に感じる恐怖、それは種に刻まれた呪いのようなものだ。


「だが、それも想定の内だ……」

 戦闘ばかりが手段ではない。彼は不敵な笑みを浮かべて、浮きソリの陰から静かに機を伺った。


「貴様にも同じ恐怖を刻んでやろう」

 彼は鞄から「鬼笛」を取り出し、それを口に咥えた。そうして大きく息を吸い込み、肺の中の空気を一気に吐き出した。


「鬼笛」から大きな音が響き渡り、周囲の空気を震わせる。それと同時に、彼は「浮きソリ」の陰から飛び出し、奇声をあげて踊り狂った。


「泣く子はおらぬか! 泣く子はおらぬか!」


 彼は叫び、お手製の一つ目仮面をつけたまま、剣をブンブン振り回す。

 突然現れた奇形の小さい一つ目鬼キュクロプス。それが剣を持って近づいてくる。よほど怖ろしかったのだろう、影狼シャトルーヴは、その場から一目散に逃げだした。


「上手くいったな」

 彼は仮面を外し、安堵の溜息をついた。

 彼にとっての影狼シャトルーヴがそうであるように、魔狼の天敵もまた、この「流血の地平サンテーレ」には存在する。


 影狼シャトルーヴを好んで食らう、単眼の巨人「キュクロプス」。怪力と巨体を誇る「鬼種」、流血の地平を住処すみかとする狂暴な鬼人である。




 奇策により魔狼を退けた彼は、浮きソリのなかで新たな強敵と対峙していた。


 近すぎる……ああ、また触れてしまった。


 可憐な乙女の肉体的接触ダイレクトアタックに、ピュアっ子である彼はタジタジだった。


「浮きソリから降りて歩くべきか……いや、ただでさえ『反発リプルション』の制御は難しいのに、外から操作するのは……」

 彼が浮きソリと呼ぶ魔道具は、平底の小舟を改造した地上を走るボートのようなものだ。見た目はシンプルだが、その船体には「反発リプルション」を含む、いくつもの魔術式が組み込まれている。


「とりあえず、この状況はよろしくない。これは、何というか……不純だ」

 少しでも早く戻ろうと、彼は両手の肉球に魔力を集めた。力の高まりに応じて風の方陣が輝きを増していく。


「結局、手放さなかったな」

 少しづつ速度をあげる浮き橇のなか、彼は穏やかに眠る少女の右手を見る。


 彼女の手には一本の刃物が握られていた。


 輝く銀色の刃、黒く滑らかな持ち手、その形状を見るに、戦闘用の武器ではないようだ。よほど大切なものなのか、意識を失いながらも彼女はそれを決して離そうとはしなかった。


 不思議な娘だ。


 その刃物は一目で結構な業物わざものだと分かった。着ている服も上物だった。それ以外には何も持たず、少女は「流血の地平サンテーレ」の中心近くで倒れていた。


 貴族のような服を着て、ナイフ以外の装備を持たない、女の子。汚れの少ない履き物は、歩いた時間がさほど長くはないことを示していた。


「飛んできた、というのなら理解出来るが……」

 呟く声にわずかな落胆が交じる。


 つややかな黒の毛並みは常闇蝶とこやみちょうの羽、白くなめらかな肌は涙百合リリティアの花弁、しかし、少女の背中に羽根はない。


 つまり彼女は、妖精ではないのだ。


「人間か……」

 朝日を背にした浮きそりのなか、巻き上がる土煙に目を細めて彼は小さな溜息をついた。

 

 


 その瞳が開くことなく、自分の姿を見なければいい。そんなことを彼は思った。


 組み上げた丸太を赤土で覆った住居は頑強だが、見栄えはあまりよろしくない。


「彼女には似つかわしくない穴倉だ」

 彼は苦笑し扉を三度ノックする。扉の向こうからは、なんの返事も聞こえてはこない。


 まだ、眠っているのか。


 見られずに済む――感じた安堵は、心の弱さ故だろう。

 無論彼は、自分の容姿を恥じてはいない。ふわふわの毛並み、ピンと立った耳、長くしなやかな尻尾。親から受け継いだそれらすべてが彼の誇りだった。それでも、己を見た少女の顔が恐怖に歪むのは見たくなかった。


 人間――自らを女神の第一眷属ファーストと呼ぶ傲慢な種族。彼自身、人に対して良い印象は抱いていない。そして人間かれらが自分たちに向ける感情も十分理解している。

 怖れ、さげすみ、拒絶、そんなもの、今さら気にすることでもない。そう思っていたはずだ。


 泣き叫ぶくらいは覚悟せねば。


 感情に諦めでふたをして、彼は静かに扉を開いた。




 高窓から降り注いだ光が少女を明るく照らしていた。


「ふああ……きん、じゃあああっぷ!」

 木製の簡素なベッドのうえ、白いシーツに包まれた少女はのんびり奇妙な欠伸あくびをしていた。彼女は右手の刃物と包帯を巻かれた左手を交互に眺め、何かに気づいたように、いまだまどろむ瞳を彼へと向ける。

 

黒瑪瑙オニキス……」

 髪と揃いの黒い瞳、その輝きに彼は目を奪われた。


 なんて美しい――


 言葉を失い呆然と立ちすくむ彼を見て、黒い瞳が大きく見開かれる。 


「待ってくれ! 君に危害を加えるつもりはないんだ!」

 黒瑪瑙オニキスの輝きが恐怖ににごることを怖れ、彼は懸命に叫んだ。彼女に怖れられること、それが何より怖かった。


「私は、君の……」

 彼は呟き、言葉に詰まる。


 命を助けた――だから仲良くしてくれと、そんなことを言うつもりか。


 己の浅ましさに顔が歪んだ。彼は俯き、断罪の瞬間を待った。しかしいつまでたっても、泣き叫ぶ声も侮辱の言葉も聞こえてこない。


 覚悟を決めて顔をあげれば、少女はこちらをじっと見ていた。黒い瞳がキラキラと輝いている。彼女は考えるような素振りをみせて、やがて納得したように今度は何度も頷いてみせた。


「私は――」

 言葉を発しようとする彼を手で制し、少女は首を横に振って何かを言う。


 その言葉を彼はまったく理解出来ない。


「言葉が通じないのか……」

 彼の呟きに少女は静かに頷いた。

 どうすればいいのか分からず戸惑う彼に、まるで大丈夫だと言うように、少女はスッと親指を立てる。


「君は私が怖くないのか?」

 言葉が通じないと分かっていても彼は尋ねずにはいられなかった。


 少女は「ん……」と小首を傾げたあと、微かに笑みを浮かべて、舞うようにベッドから飛び降りた。そしてそのまま、彼に向かって歩いてくる。

 身長の変わらぬ二人は向かい合い、二つの視線がきれいに交わる。


 彼は呼吸することさえ忘れて少女の瞳に見入っていた。

 彼女は彼を抱きしめて、優しい声で囁いた。


 サンキューマイフレンドと。

 


 木製の簡素なベッドのうえ、白いシーツに包まれた少女は再び眠りについた。石のように固まった彼はそんな少女を見つめている。

 その日、誇り高き「猫人ニャーマン」の戦士は初めての恋に落ちた。


「人間の雌は、もっと恥じらいを持つべきだ」

 かろうじて口にした言葉は、精一杯の強がりだった。




 次話予告。


 救った者、救われた者。彼らは互いを知りたいと願った。

 世界の果てで出会った二人、結んだ絆は永遠か、それとも玉響たまゆらか。

 すれ違った想いは、やがて一つに交わる。


 次話「挨拶少女」


 彼の戦闘力は53万ではない。

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