第4話 挨拶少女 《君の名は》

 ベッドに横たわった少女は、ぼんやりと部屋の様子を眺めている。


 赤土で覆われた丸太小屋は、なかにいる限りは普通のログハウスと変わりなく見える。十畳くらいの板敷きの床には、少女が寝ているベッドの他に小さなダイニングテーブルと椅子が二脚、人間であれば三人くらいは座れるであろう革張りの黒いソファが置いてある。


「あれは……」

 部屋の隅、木製のハンガーラックに見覚えのある服と下着が干されていた。青いジャージにネイビーチェックのプリーツスカート、そして、お漏らしパンツ。


 血と屈辱にまみれた服は寝ている間に脱がされていた。少女は今、ワンピースにしては幅広はばひろな、白いポンチョのような服に身を包んでいる。


「随分と世話をかけてしまったようで……」

 うんこまみれのパンツを洗わせるなど、迷惑どころの話ではない。少女は申し訳なさそうな顔つきでこの家のあるじを見る。


 うーん、猫!


 それは、どう見ても猫であった。

 少女から少し離れたところに椅子いすを置き、ゆっくりと腰掛けたモフモフは、紛うことなく猫であった。人に猫耳が生えた、というものではない。服を着て二足歩行する猫そのものである。無論、二足歩行が出来るのだから、少女の知る猫とは骨格も手足の造りも違うのだろうが。


「これは、アレの……仲間かな」

 少女の頭に浮かんだのは、便利道具をいくつも所持するネコ型マシーン。眼鏡ボーイをアシストしたりしなかったりする、ネズミが苦手な機械猫マシーンキャットだ。


 クソえもんの別ロット――いや……彼とクソえもんでは、明らかに用途が違う。


 ぬいぐるみのようにフカフカな見た目、しかし所作の一つ一つに、隠しきれない鋭さがあった。

 同じ猫型ではあるが、クソえもんやサンリオとは違う。彼らをサポート系、あるいは愛玩系とするならば、彼はおそらく戦闘系、戦うにゃんこ――ねこ戦士ウォーリアだ。

 壁に掛けられた片刃剣や使い込まれた弓、それらを見ずとも少女は確信できた。この猫は強者であると。


 十円ガムのあいつでは相手になるまい。成長し、野生に目覚めた「しまじろう」ならあるいは……


 少女の脳内では、人型ネコ科動物による最強決定戦が繰り広げられていた。道具の使用は禁止なので、クソえもんとサンリオは不様に初戦敗退である。


「いい気味だ」と、脳内で世界的なキャラクターを侮辱しつつ、少女は彼の分析を続けていく。


「イカした服を着ているな」

 そのセンスに感嘆の声が漏れる。

 美しい毛並みは白とグレーのバイカラー、フード付きの黒いマントを羽織り、首には赤いスカーフを巻いている。履き古した革のブーツはずんぐりとしていて、そのアウトローみた格好が上品な毛色とサファイアブルーの瞳を見事に際立たせていた。


「オシャレ上級者か……」

 強さと優しさを兼ね備えた、愛くるしい見た目のオシャレ上級者。少女は尊敬に満ちた眼差しで彼を見る。椅子に座った彼は、熱い視線に少し戸惑う様子を見せたが、すぐに落ち着きを取り戻し少女の目を見てニコリと微笑んだ。

 少女は「猫の笑顔は初めて見たな」と思いつつ、彼に向かって照れ笑いを返した。

 


 ベッドから降りた少女は、床に正座をして利き手とは逆の左手側に包丁を置いた。背筋はすっと伸び、凛とした瞳は彼を真っすぐ見据えている。

 

「神崎流包丁術、神崎シーナ……年は十五だ。猫殿ねこどのの名前を教えてもらいたい」

 言葉が通じないのは承知のうえだが、命の恩人である彼には誠意を持って応じたい。少女はそう思い、自分なりの礼を尽くして名前を名乗った。


 彼もまたそれが儀礼の一種であることに気づいたのだろう、椅子から降りて胡坐あぐらをかくと、右の拳を床について、見た目に似合わぬ低い声で名乗りの言葉らしきものを呟いた。


 フ…リィ……ジ…ザ……フリーザ!


 彼の発した言葉から少女は彼の名前を推測する。


「フリーザか、変身しそうな名前だね。偶然だろうけど親近感を覚えるニャ」

 彼にうながされベッドに腰掛けた少女は、聞き覚えのある名前と彼の気配りに表情を緩める。語尾につけた「ニャ」は、彼との距離を縮めるための少女なりの気遣いだった。

 

「フリーザ様、きみには本当に感謝しているニャ」

 少女は宇宙の帝王ならぬ命の恩人に深々と頭を下げる。


 「包丁使い」として生きる。そう決めた日から死は覚悟していた。それでも、受け入れられない死に方というものはある。

  

 お漏ら死など冗談ではない。


 荒野での失態を思い返し、少女は奥歯を強く噛んだ。視線の先では洗いたてのおパンツがみじめにゆらゆら揺れている。


「しかし……私はやはり、うんちを漏らしたのだな」

 彼のお陰で運良く糞死ふんしは免まぬがれた。しかしいくら洗っても落とせないものはある。

 うんちを漏らした。その消せない事実が、少女の心を深く苛んでいた。


「私は一生、この十字架を背負っていかねばならないのか」

 その身に刻まれた「クソ漏らし野郎ファッキンシットベイビー」の烙印を嘆き、少女は絶望の声を漏らす。

 そんな少女を心配してか、フリーザ様が優しく声を掛けてくる。内容を理解することは叶わないが、見た目に合わない低音ボイスに、少女はフリーザっぽくないな、と少し笑った。


「心配ないよ、フリーザ様。私は確かにうんちを漏らした。でも、それを隠すつもりはないし、きちんと向き合っていこうと思っている。そうすればきっと、漏らしたうんちの分だけ強くなれると思うんニャ」

 少女は神妙な顔つきで、実にしょうもない決意を語った。フリーザ様は少し困った顔をして何かを一言呟くと、サファイアブルーの瞳を細めて首を大きく横に振った。


 お漏らしなど気にするな、そう言っているのかな。


 優しい猫だ、と少女は思う。

 フカフカの体毛を持つ彼からすれば、頭くらいにしか毛のない自分は、醜い「ハダカデバネズミ」みたいなものだろう。

 血まみれで刃物を持った便臭漂う異形の怪物。そんな自分を手当てしたうえ、家まで連れ帰るなんて……まるで聖人、いや聖猫ではないか。


「フリーザ様、この恩は絶対に忘れニャいよ」

 彼の手を握って、少女は再び感謝の言葉を告げた。彼は変わらず困った顔をして笑っている。


「言葉が分かればいいんだけど……」

 この気持ちは彼にどれだけ伝わっているのだろうか。それが分からない自分を少女はとても歯痒はがゆく感じた。


 すぐにでも「猫語」をマスターしなければ。


 サファイアブルーの瞳を見つめながら、少女は強く思った。


 



 病み上がりの身体を押して彼と向き合う少女の姿はとても凛々しく美しかった。「シーナ」という名も彼の耳には心地よく響いた。


 可憐なだけではない、誇り高い娘なのだ。


 彼女の立ち居振る舞いから彼はそう感じていた。王国の公用語である「フェツルム語」を理解できないというのは不可解だったが、彼女が王国さえ知らない遠い異国から来たのだとしたら、それは彼にとって喜ばしいことでもあった。


 彼女になら本当の名を伝えていいのではないか。彼はそう思い、故郷と共に捨てた名を少女に伝えた。


「私の名はルドルフ……ルドルフ・ザリア・クティノス・ジ・レクスだ」

 その名のすべてが、彼があの日失ったものをあらわしている。


「今はただのルドルフだがな……」

 呟く声には深い悲しみがにじんでいた。


 名乗りを聞いた少女は、しばらく何かを考え込んでいる様子だった。そして彼女は、すべてを知る女神のような顔をして言い放つ。


 フリーザと。

 

「私はフリーザではない」


「フリーザ………ニャ」


「フリーザという言葉すら言っていない。それに、その語尾はなんだ」


「フリーザ………ニャ」

 何度訴えても彼の言葉は少女にまったく届かない。


 一刻も早く、この言語を理解せねばならない。


 黒瑪瑙オニキスの瞳を見つめながら、彼は思った。


 



 次話予告。


 赤い大地に蠢くものがいる。

 彼が欲するは血、彼が欲するは肉。その獣は、かつて君臨した暴虐の王の信奉者。

 吹き荒れる赤い旋風が、少女と猫に襲いかかる。


 次話「至高少女」


 モンキー、あえて火中の栗を拾うか。

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