三十七段目

 いつもの見慣れた道を走る。小学校前の角を曲がり、少し坂道になっているところで転びそうになるのをぐっと堪え、お米屋さんの前を駆け抜けた。最近新しく舗装された道は、少し走りやすい。


 真夏日に迫る今日の気温は、高い湿度にをさらに高める為か、わたしから水分を奪った。正午の太陽は真上からわたしを照らし、頭の天辺が熱い。


 耐えかねて、自販機で小さいサイズのお茶を買った。小さく一口飲むと、また走りだす。


 商店街の入り口一歩手前。サクラマンションに着く頃には、運動不足のわたしの足は棒を通り越して縄になっていて、立っているのも辛かった。急ぐわけでもないのに、どうしてわたしは走っていたのだろう。


 荒い息を整えながら、エントランスへと入る。すると、自動ドアの向こう側から女性が一人出てきた。明るい時間だから、不正をして中に入るべきか少し迷っていたところだ。わたしは、ドアが完全に閉まる前にくぐり抜けた。


 一階にいたエレベーターに乗り込み、九階のボタンを押す。


 壁にもたれかかり、乱れた息を整える。普段から乱れることの少ない呼吸は、正常に戻るには少し時間がかかる。エレベーターが目的地に到着した時点でも、まだ呼吸は荒いまま。


 普段運動しないにしても、呼吸の戻りが遅い。自分の身体が、本能的に行くのをためらっているような感覚。どこかに、わたしの死を止める秋介に論争で勝てるわけがないと思っている自分がいるのだろうか。それとも、まだわたしは死ぬことを躊躇っているというのだろうか。


 いや、そんなはずはない。秋介にだって負けはしないし、遺書を書く用意までしてきたのだ。部屋も、化粧台だけでも小綺麗にしてきた。思い残すことなど、あるはずがない。


 階段をゆっくりと、一段一段噛みしめるように登りながら、呼吸を落ち着かせる。屋上につくころに、やっと落ち着いた。


 いつものように金網扉をよじ登って越える。三度目にもなれば、慣れたものだ。


 下にいるよりも少し空気が涼しく感じるのは、気のせいだろう。きっと、濃い青色の空が近すぎて、わたしにそう思わせるのだ。


 秋介は、やはり屋上に居た。いつもの給水塔の影で、一冊の文庫本を読んでいる。


 汗だくのわたしとは対照的に、秋介の肌は乾いている。しかし、砂漠のように暴力的なまでに乾いているわけではなく、波一つない穏やかな海を思わせるような、健康的で優しい乾きだ。


「もう、ここには来ないと思った」


「あら、迷惑だったかしら」


「いや、来てくれて嬉しいよ」


 芝居がかったわたしの返答に、秋介は文庫から顔を上げず、笑みを含ませて答えた。時々見せる、意図的に作る綺麗な笑顔だ。


 今日秋介が持っている本は、表紙を見る限りわたしの知らない本だ。


 水彩だろうか。淡いタッチで、表紙絵が描かれている。木で出来た机に向かって、うつ伏せで眠る少女。右腕を枕にした彼女は、とても安らかな顔で眠っている。


 彼女の前には、開きかけの小説と、食べかけのパスタが一つ。どこか優しい雰囲気を持っているのは、彼女の寝顔のおかげだろうか。


 表紙の左上に、赤と朱と黒でタイトルが控えめに書かれている。タイトルを見ても、やっぱりわたしの知らない本だった。


「それで、紗英の決心は決まったのかい」


 文庫本を置いて、まっすぐにわたしを見つめる秋介。濁ったその瞳は、澄んだ瞳よりも重みを感じる。歳はそんなに変わらないはずなのに、わたしよりも経験豊富に見えた。おもわず目線を外すと、わたしは誤魔化すように秋介の隣に腰掛けた。


 日陰と日向では、体感温度がかなり違っていて、汗がすっと引いていくのがわかる。


「やっぱりわたしは、死のうと思う」


「理由を聞こうか」


 二度深呼吸をして、夏の熱さにやられている頭に酸素を送る。昨日必死で考えたのだ。整理はできていなくとも、気持ちだけでも伝わるかもしれない。


「わたしは、お父さんが好き。それで、お母さんも同じくらい好き。お母さんが自分の幸せのために、わたしとお父さんを捨ててどこかに行ったのだとしたら、もちろんそれは悲しい。でも、わたしの中には、三人での幸せな思い出があるし、お母さんの大好きな部分を知っているから、嫌いになんてなれない。

それにお母さんは、わたしよりも好きな人ができただけで、わたしが嫌いになったわけじゃないと思うんだ。お父さんに対しては、出て行った理由がわかんないから言い切れないけど、わたしに対しては間違いない。だってお母さんは、わたしの想像以上に、わたしのことが大好きだから」


 ぽとり、ぽとりと、わたしの中にお母さんとの想い出を取り出して落とす。一番古い思い出は、お母さんの横顔だ。


 キッチンで、鼻歌を歌いながら料理をするお母さん。それを、かなり下の方から見上げているわたし。多分、わたしがまだ小さいからだろう。


 そういえば、ご機嫌で料理をしていると、よく変な鼻歌を歌っていたっけ。スパゲティを作っている時は、スパゲティの歌。ハンバーグの時は、ハンバーグの歌。お母さんがオリジナルソングを歌っている時は、出来上がる料理もいつもより美味しい気がした。


 次に古い記憶は、お父さんとお母さんの後ろ姿だ。どこかの帰り道だろうか。二番目、三番目の星が遅れながらも現れた頃。まだ明るみの残る夜の中を歩いていた。


 少し歩みの遅いわたしは、おばあちゃんと手を繋いで歩いている。その前を、お父さんとお母さんが腕を組んで歩いている。いや、お母さんがお父さんの腕につかまって歩いているといった風だろうか。


 おばあちゃんがよく「子供の前ではしたない」と言っていたのを覚えている。それにお母さんは「仲の良い夫婦だと、子供も安心するでしょ」なんて笑いながら返していた。


 わたしのさらに後ろを歩くおじいちゃんが「アホって言うたれ」なんて、意地悪な子供のうような顔でわたしに小声で話した。


 お母さんの口癖は「お父さんとお母さんはラブラブだから、紗英もそんな相手を見つけるんだよ」だった。


 お母さんがそう言わなくなったのは、いつからだろう。こんなに古い記憶は思い出せても、比較的最近であろう記憶はうまく引き出せない。出て行った時のお母さんの最後の表情だって、本当は、仕舞ってある引き出しの取っ手が壊れていてわからない。


 連絡する手段だって、もちろんある。けれど、できない。


 わたしやお父さんのことを、大好きだって言ってくれたお母さん。そのお母さんから変わっていたらと思うと、とても怖くて勇気がなかった。時間が過ぎるほど、その気持ちは大きくなった。


 だからこそ、大好きなお母さんのまま、旅立とうと思う。表面に出しているわたしくらい、最期までわたしの持つお母さんを留めておきたい。

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