二十九段目

 少し乱れたスカートのプリーツを直して、柊さんは蹴った拍子に投げ飛ばしてしまった鞄を拾いに行った。


 遠くに飛んで行った鞄の距離が、腰のひねりの凄さを物語っている。


「柊は部長か。さすがだねえ」


「あれ、東高は笹瀬じゃないの」


「あたしは副部長だよ。不満はないけどね」 


 先ほどのまでの険悪な空気は夢だったのかと思うほど、ふたりは仲睦まじく話している。


 切り替えが早いのは、普段から敵チームと友人の関係を行き来しているからだろうか。


「それにしても、まさかあんなクズ男に引っかかるとはね。もっと慎重になるべきだったか」


 柊さんの口ぶりからは、わたしと違って特別気にしているようには見えない。


 痛い目を見せてやったことで、ある程度すっきりしているからだろうか。良くないと思いながらも、メンタルの強さを自分と比べてしまう。


 けれどわたしとしても、かなりスッキリした。逃げていく矮小な後ろ姿が、恐怖という感情を濃く塗りつぶしてくれた。


 わたしの中で、淳斗という人物がいかに過大評価されていたのかがよくわかった。


 たとえ大きな存在に見えても、結局はわたしと同じ歳の人間だ。


 へらへらと女性を軽く扱うような人間が、結局は逃げるようなことしかできない人間が、強いはずがない。


 本当に強い人は、杏子のように目標や信念があって、逃げずに打ち込めるひとのことを言うのだろう。


 もしくは、柊さんのようにブレない一本の自分がある人だ。


 裏に醜い笑顔を忍ばせていた淳斗のような人間に、それらがあるとは思えない。


 あったとしても、ただ人を傷つけるだけの不誠実さは、目標へ向かう道のりで足を引っ張る腐った腕になるだろう。


 お父さんは、どうだったのだろうか。ふと、そんなことが思い浮かんだ。


 度々口にする「紗英は何も心配しなくていい」は、お父さんの信念なのではないだろうか。


 お母さんが出て行って、娘を一人で育てる上での、ある種の誓いのようなものとしているのではないだろうか。


 父子家庭となり、自分とは性別が違う子供を育てる。ましてや、思春期の子供だ。


 お父さんの不安は、わたしには到底理解できないだろう。


 それでも、わたしを育てるために何も心配させないと、心に決めたのでは無いだろうか。


 いや、やめよう。これ以上考えるのは危ない。わたしの決意が鈍ってしまう。


 強い目標もない。自己も曖昧なわたしが、最期に決めたことぐらいからブレるわけにはいかない。


 わたしは、お父さんが自由になれるように死ぬのだ。


 お父さんが抱える荷物を最小限にして、新しい自分を始められるように死ぬのだ。


 そもそも、心配させないと決めたことで、逆に心配してしまっているのだから本末転倒だ。


 わたしは、わたしの信念と決意を持って、わたしの決めたことを実行するだけだ。


「紗英ちゃんもありがとね、私の目を覚まさせてくれて。すっかり騙されてた」


「ほとんど私怨で叩いたから。むしろ、杏子がいなかったら、蹴られてたのはわたしかもしれないんだし」


「いや、さすがに初対面の女の子は蹴れないよ」


 笑顔を含ませながら言っているが、あの時の雰囲気と形相は、そうなってもおかしくはない程に尖っていた。


 突飛な行動を取ったわたしも、悪いのかもしれないけれど。


 それからしばらく立ち話をすると、柊さんは帰って行った。淳斗の悪評を部員や他の知り合いにも話しておいて、他に被害が及ばないようにするらしい。


 高いところから発せられる声は自信にあふれていて、怒った時の言葉は荒くとも、彼女自身は正義の人なのだろう。


 柊さん自身に報復がありそうで少し心配になったけれど、助けてもらっておいて申し訳ないが、わたしにそんな余裕はない。


 杏子と二人で駅まで戻り、自宅の最寄り駅で杏子は下車していった。


 最後までわたしの風邪だという嘘を気遣ってくれていて、病院まで連れて行くという杏子をなんとか帰らせるのには少しだけ苦労した。


 病院に付いて来ない代わりに、スーパーでの買い物に付き合ってもらった。


 家についてすぐ、スーパーに寄って買ったものを冷蔵庫にしまう。


 今日は元気があまりないから、簡単な鮭のホイル焼きにしよう。お父さんも好きだし。


 今の時期にしては安かった鮭の切り身に、塩と粗挽き胡椒を振る。玉ねぎと人参を半月切りに、メークインを輪切りにする。


 大きめにとったアルミホイルに薄くマヨネーズを塗り、鮭と切った具材と、軽く洗ったもやしを乗せる。


 少しだけお酒をかけて、アルミホイルで包む。ここまでしておけば、あとは焼くだけだ。


 二人分を手早く用意し、冷蔵庫に入れておいた。ついでにお米も研いでおこう。


 部屋着に着替えて、やっと一息つく。ふと、柊さんの綺麗な蹴りを思い出した。


 あの時のように普段からもっと大胆な行動をとれていたら、今とは違うわたしになったのだろうか。


 淳斗に振られた時に怒りのままに掴みかかっていれば、お父さんともっと声を荒げて喧嘩していれば。


 お母さんが出て行った時、大声で泣きながら後を追っていれば、せめて今日のお昼くらいは、何も気にせずに美味しく食べることが出来ただろうか。


 いや、わたし程度が淳斗に掴みかかったところで、返り討ちにされて怪我するだけだろう。お父さんとだって、結局は大人の対応で言いくるめられてしまう。


 お母さんだってそうだ。わたしが泣いたところで、あのお母さんが、理由はどうあれ出て行くのを止めていたとは思えない。


 わたしの力なんて、その程度しかないのだ。


 ならせめて、もっと早く死んでおいた方が良かったのではないだろうか。


 秋介を待つなどとは言わず、わたしが決心したあの日のうちにさっさと飛び降りておけば、一々悩まずに済んだのではないか。


 そもそも、わたしがもっとしっかりして頼りになる娘だったなら、お父さんも色々話してくれて、頼ってくれたのではないだろうか。


 そんな考えが、ぐるぐるとわたしの中を歩きまわっている。


 何の解決にもならない、堂々巡りの考えは、いつしかわたしを眠りに落としていたようで、目が覚めたら部屋の時計は七時を過ぎようとしていた。


 炊飯器に研いだお米をセットし、早炊き設定でご飯を炊く。二十分もあれば炊けるだろう。その間に、鮭を焼いてしまおう。


 下拵えしておいた鮭を一人分だけ取り出し、アルミホイルごとフライパンに乗せ中火より少し小さい火にかける。あとは、放置しておくだけ。


 お米が炊けるよりも少し早く、鮭が焼き上がってしまった。火を消してそのまま置いておけば、冷めることはないかな。


 残っていた玉ねぎと、粉末ダシの素でお味噌汁も作る。


 しばらくするとご飯が炊けたので、盛りつけてお盆に乗せ自分の部屋まで持っていった。


 一人の時にリビングで食べるのは、あまり好きではない。テレビを付けていても、静かすぎるように感じるから。

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