二十八段目

 淳斗は、煙草のヤニがこびり付いたみたいな汚い笑いを見せた。


「どういうって、そういうことだよ。茜も綺麗だったのに、残念だ」


 ボロボロと崩れるように、表情が変わっていく淳斗。まさかこの光景を、もう一度見ることになるとは思わなかった。


 気持ちが悪い。先程まで食べていたオムライスが逆流してきそうだ。


「この短期間で二人もいなくなっちゃうなんて。さすがの俺もちょっと心苦しいな」


 心苦しいと鳴る淳斗の声は、夏の湿気よりべたついていて嘘くさい。


「それじゃあ、淳斗はわたしを騙していたんだね。茜だけなんて、嘘だったんだね」


「そうだね。そういうことになるね」


 自分が間違っているとは思っておらず、むしろ騙した相手を蔑んだ目で笑っている。


 べたついた笑いに晒される柊さんを、衝動的に抱きしめたくなる。「大丈夫。あいつが全面的に屑なだけ」そう声をかけたくなった。


 思わず足を踏み出した時、杏子に腕を掴まれた。後方下へと引かれる腕につられて、またしても転びそうになる。


 わたしの手を引いた杏子の顔を見て、わたしは小さい時の想い出が一瞬頭をよぎった。


 お母さんに怒られて、家の近くにある石細工屋さんへ連れていかれた時だ。


 そこの旦那さんがその地区の町会長をしていて、仲が良かった。


 嘘をついたわたしは、その店にある、旦那さんが作った閻魔様の石像の前に連れていかれる。


「閻魔様に、地獄へ連れて行ってもらいな!」


 地獄へ行くのが嫌で、わたしは喉がつぶれるほど泣いた。


 閻魔様はおっかないし、知り合いに泣き姿を見られているのも嫌だしで、わたしは何度も「ごめんなさい」を繰り返した。


 なんで、そんなことを今このタイミングで思い出したのだろう。


 思い出から、現実世界へと帰ってくる。柊さんは淳斗の方を向いていて、表情がわからない。


「そっか。なるほど」


 声は、独落ち着いて聞こえる。頭が追い付いていないのだろうか。


 信じていたものが偽物だと知らされる、ゆっくりと切り付けられるような痛みに、今彼女は晒されているに違いない。


 柊さんは、一歩ずつ地面を踏み固めるように淳斗へと近づいた。


「なるほど、わかった」


 そう言うと、柊さんは左回りで上半身を後ろに回し、遅れてくる下半身に全身のバネを使って勢いをつけた。


 暴風を貯めるためにあるような柔らかい関節の撓りは、彼女の輪郭を一瞬ぼやけさせる。


 腰のひねりが戻るのと同時に、左足を軸にして、綺麗な細い右足が高く上がる。スカートがめくれ上がることも気にしない。


 長身を活かした勢いは、見事に全身から右足へと伝導していき、そのまま淳斗の右耳のあたりめがけて振り降ろされる。


 それはまるで、鏡面のように磨き上げられた日本刀で袈裟懸けに切り払ったようだった。


 美しく芸術的な蹴りは、一瞬のことにもかかわらず鮮明にわたしの眼の奥へと焼き付いた。


 その場に崩れ落ちる淳斗。ゆっくりボロボロと崩れていた仮面が、蹴られた勢いで一気に無理やり剥がされる。


 ふっと短い息を吐いた柊さんは、残心もしっかり残した後で、声も出ないで地面にのたうち回る淳斗を、凍った眼で見下ろした。


「痛いでしょうね、わりと本気で蹴ったから。私とこの子はもっと痛かったけどね。その辺のこともちゃんと理解した上で、やってるんだよね。


 蹴られる程度のことは、もちろん覚悟の上なんだよねえ」


 先ほどの低い声で、淳斗に声をかける。味方にいると、こんなにも頼りになるのか。


「こんなことして、ただで済むと思ってんのかよ」


 蹴られた部分を抑えながら、淳斗は柊さんを睨む。その姿が、猫を一生懸命睨む小さな鼠に見えた。


「あんたに何が出来る。連れて歩く女の数増やすだけだろうが。脳みそが下半身に付いてると、自分が偉いと錯覚するのかい」


「うるせえ!」


 好青年の顔どころか醜悪な顔すら吹っ飛んでいったようで、ひ弱そうな頼りない部分だけが浮き彫りになっている。発する声にも覇気がない。


 怒りと痛みで真っ赤になった顔は、冷蔵庫で長く放置されて皺々に萎んでしまった林檎を思わせた。


「だいたい、お前は見た目が良いのに口が汚すぎるんだよ。女のくせに汚い口調で罵りやがって。その上蹴りまで入れるって、どんな神経してんだ」


「女だってね、腹が立てば罵ったりするし、それが限界に達せば、男相手に蹴りぐらいかますんだよ。口がうまいつもりになって、女の子萎縮させて悪評が広まらないようにする小悪党より随分マシだね」


「お前みたいな女がいるから、男を立てない女が増えるんだ」


「お前みたいな男がいるから、女が呆れて男を立てたく無くなるんだ。どうせ浮気するんなら、した後ビシっと背筋伸ばして堂々としてやがれ。みっともない逃げ方すんな。私たちが余計惨めになる」


 十に対して十一で返す柊さん。口でも腕力でも、おそらく淳斗では彼女に勝てないだろう。分身しても勝てそうにない。


 言い返す事ができなくなったのか、淳斗は一瞬こちらを睨むと、そのまま立ち上がって走って行ってしまった。


 走り去る背中を見ていると、どうしてわたしがあんな小さな男に恐怖心を抱いてビクビクしていたのかがわからなくなる。


 女の子に説教されて、返せなくなったら睨むしか能のない。少し顔がいいだけのただの矮小な男だった。


 いや、男の子だった。今はむしろ、哀れんですらいる。


 あんなにも怖かった仮面の剥がれる瞬間が、今となっては特別なんとも思わない。


 むしろ、あんな小さな男の子と見破れなかった自分が恥ずかしい。


「ごめんね、さっきは掴んじゃって。痛かったよね」


「いや、大丈夫だよ。ありがとう」


 淳斗を睨みつけていた表情はくるりと消えて、清楚で綺麗な笑顔に戻っていた。やはりこの子は、ガブみたいだ。


「笹瀬もごめんね、あんたの友達傷つけちゃって。私が淳斗のこと見抜けてたら。名前呼ぶだけでも鳥肌立つわ」


 両肩を手でこする仕草でおどけて見せる。本来は、優しくて愉快な人なのだろう。


「あたしはいいよ。紗英にだけ、ちゃんと謝ってあげてくれたらそれで充分」


 柊さんがもう一度、わたしに深々と頭を下げた。


「磯高二年女子バスケ部、部長の柊茜です。この度は、大変ご迷惑をおかけしました」


「いや、こちらこそ。ありがとう、淳斗に凄い蹴り。少しすっとした。葉月紗英です。こちらこそ、いきなりごめんね」


「うん、びっくりした」


 にこりと笑いながら言う柊さん。嫌味な笑いではなく、嫌なしこりを残さないための友好的笑い。


 その笑顔から、わたしや杏子には無い大人な余裕を感じた。

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