十八段目

 腕時計を確認する。中学校入学の時に母さんが買ってくれた、レザーベルトの小さくて少し大人っぽい時計。


 中学生のわたしには早すぎて似合わないような気がしながらも、休みの日には毎日着けていた。着けているのを見たお母さんが、嬉しそうだったから。


 高校生になってからは、毎日学校へ着けていった。特別に意味は無く、着けていたかったから。そう、ただなんとなく。


 時計の針は、八時半を指している。いつの間にそんなに時間が経ったのだろう。時間に気づくと同時に、月明かりが濃くなったような気がする。


「そろそろ帰るかい?」


「もう少し、夜風にあたっていくよ」


 黙って目を閉じる。いろいろな考えに煮えた頭が、ゆっくりと冷やされて心地よかった。






 家に帰りついたら、時計は十時を少し回ったころだった。あの後は、何か話をするでもなくただ夜空を見上げたり、ぼーっとして過ごした。


 あんなに無駄な時間を過ごしたのは、いったいいつ振りだろう。基本的に効率良く動いてきたから、かえって新鮮だった。


 秋介は隣で本を読んでいた。白い表紙に、黄色い銀杏の葉が散りばねられた綺麗な装丁の本だった。


 リビングに入ると、お父さんの姿はどこにもなく、そのままにしてきたカップも片付いていた。


 玄関にお父さんの靴はあったから、自分の部屋に居るのだろう。


 声をかけておかないと不自然だと思ったので、部屋の扉をノックする。


「お父さん、ただいま」


「ああ、おかえり。ご飯作って冷蔵庫に入れておいたから食べなさい。父さんは、明日朝から出かけるからもう寝るよ」


 耳には、いつも通りのお父さんの声が届いた。けれどわたしの心には、作り笑いのお父さんが浮かんだ。


「うん、おやすみ」


 扉を開けずにやり取りする。わたしが口答えをしたことが珍しかったので、お父さんも戸惑っているのだろう。


 心の中で「ごめんなさい」と謝りながら、わたしはお父さんに背を向けた。


 キッチンの冷蔵庫を開けると、一人前のチャーハンと野菜スープが入っていた。


 それをレンジで温めなおし、リビングに置きっぱなしにしていた携帯をスカートのポケットに入れると、夕飯を持って自分の部屋へと帰ってきた。


 リビングは、なんだか居心地が悪かったから。


 持ってきた夕飯をテーブルに並べて、クッションの上に座る。やっと一息つくことができる。


 携帯を充電器にセットして、テレビをつける。人気アイドルグループのバラエティ番組がやっていたので、それを眺めながら夕飯を口に運んだ。


 アイドルのどんな馬鹿げた行動よりも、自殺しに行った人間が食べるという生きるための行為をしていることの方が面白い。


 こんな自虐を笑ってくれる人は、残念ながらわたしの側にいない。大して面白くもないアイドルの絡みに、テレビの中にいるゲストの芸人は笑っていた。


 お父さんの作るチャーハンは、相変わらず塩コショウが強い。昔から濃い味が好みの人なのだ。自分の分は、もっと濃いのだろう。


 もう若くないのだから、塩分は控えて欲しいのだけれど、調味料の消費速度が落ちることはない。


 わたしが薄味で作っても、あとから付け足すからだ。何度か注意しているのだけれど、なかなか改善されない。


 コショウでむせそうになるのを、野菜スープで落ち着付ける。柔らかくなった人参とブロッコリーの芯が、丸く優しい甘味を口の中に広げてくれる。


 コンソメは顆粒状のものだが、野菜と少しのベーコンが、充分な旨味を出してくれて、スープに深みを与えていた。私の大好きな味の、野菜たっぷりコンソメスープだ。


 テレビが本当につまらなくなってきたので、行儀が悪いとは思いながらも、携帯をチェックした。


 メールが八件、着信が六件入っている。メールの内五件が迷惑メールで、後は全部杏子からだった。


 着信は、一件がお父さんで、後は全部メール同様杏子から。それも、着信は四分おきに鳴らされていたみたいだ。


 最初の二回の着信は、連続している。電話に出られないのがわかって、それでも四分おきにかけてくるのが杏子らしい。


 四分という微妙な時間は、早く話したいせっかちな杏子と、出ないだろうという冷静な杏子の戦いの末なのだろう。


 少々冷静な杏子の方が劣勢なようだ。がんばれ、冷静な杏子。


 時計を確認すると、針は十時半を指している。今折り返し電話をかけると、確実に長電話になるだろう。


 杏子の口はいつもよく回るけれど、電話になると、見えない身振り手振りの分を補うかのように、回転数を激増させる。


 流し見していたドラマが二回分終わってしまうなんて、いつものことだ。


 先にお風呂に入ろう。ある程度時間を遅くすれば、そこまで長電話にならずに済むだろう。明日も、学校があることだし。とても、長電話をする気分にはなれない。


 そう決めると、チャーハンの残りを胃につめこんで、お風呂場へと向かった。

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