十段目

 お父さんが、すべてを話してくれるはずがない。わかりきっていることだった。すべて自分で解決していこうなどと、考えているのだから。


 それでもわたしは、どこかで期待してしまっていた。自分の成長を。この数年間での、わたしの立場と、父さんからの味方の変化を。


 考えが甘かった。最初から、わたしは蚊帳の外。優しいお菓子だけを与えられて、幼児向け絵本のような、甘い世界にだけ触れておけばいいと思われている。


 結局何も変わっていない。あの時から子供で、どれだけ家事や雑用を覚えたところで、わたしは守られるだけのもの。苦労も不安も、共有してもらえない。


 贅沢かもしれないが、わたしはそうありたくなかった。お父さんの、積み荷でいたくなかった。


 お父さんのハンドルになんて贅沢は言わない。推進力の一部になれていれば。いや、エンジンにある一本のボルト程度でよかったのに。


 わたしがいなかったら、お父さんは新しい奥さんを見つけられたかもしれない。


 わたしがいなければ、わたしの生活や進学の費用を、お父さん一人で負担しなくてもよかったかもしれない。そのお金でおいしいものを食べたり、楽しいことができたのかもしれない。


 新しい趣味を見つけて、交友関係も広がって。そこから人脈が増えれば、リストラなんてなかったかもしれない。


 下手な責任感を理由にして、自分の家の中でかくれんぼをする必要なんてなかったかもしれない。


 そうか、そういうことか。


 お父さんはまだ、わたしに向かって何か言葉を発している。ご飯をいっぱい詰め込む大きな口を小さく窄めて、優しく。熊みたいな大きな手を一生懸命動かして。


 けれど、もうわたしには届いてこない。いや、届いてはいる。けれど、わたしが防音室に閉じこもってしまった。中からのわたしの声は誰にも届かず、外からの声は、わたしに届かない。


 気付いてしまったのだ。小説よりも奇怪なのに、小説よりも救いのない現実に。サンタさんは、現実世界に居ないのだ。


 本当は、今まで気づいていたのかもしれない。こんなにも簡単なのだから、少し考えればわかるはずだ。


 煙突があれば、やってきてくれる。うちには煙突が無いだけだ。心のどこかが、そういう風に現実を包み隠していたのだろう。ただ、その包みが破けてしまっただけだ。


 離婚した親にとって、子供は重荷でしかない。今までを捨てて、新しい人生を歩みますという決意の署名。わたしが居ることで、その決意は片方にしか適用されない。


 だからお母さんは、わたしを置いて出て行った。それも、あんなにもあっさりと。決意が済んだ後だったから。


 お母さんが出ていったとき、わたしを捨てらたすっきり感であの表情を浮かべていたわけではない。元々さっぱりした性格だからだ。


 そんなこと、誰に確認を取ったわけでもない。そう決めつけたのはわたしだ。考えるのを怖がった惰弱なわたしだ。


 残ったお父さんは、置いて行かれたわたしを一人で養うことになった。それは、産んでしまった親の義務だから。


 どんなに重たくても、簡単に捨てることなどできない。世間体や法律なんかが、わたしという大きな岩を、お父さんにきつく括りつけた。わたしが、お父さんの幸せを奪ってきたのだ。


 悲しみよりも、申し訳なさが先にやってきた。今まで、お父さんの邪魔をしてしまった。まだ足腰の弱い子供なわたしが、自分の重さを一人で支えられないから。


 もう対等になれている。そう考えていたことが、ひどく恥かしく思えた。そういう考えこそが、明らかに子供だった。


「ごめんなさい。少し頭を冷やしてくるよ」


 そう切り出すと、わたしはカップを流し台に置き、玄関を出た。


 背後からお父さんの声が聞こえていたけれど、心の防音室の扉をぎゅっと抑えた。そうしていないと、決心が鈍ってしまいそうだったから。




 夏にまだなりきっていない空は、早くも太陽を隠そうと、空の隅の方へ太陽を押しやっていた。


 オレンジ色の空が広がっていく様は、太陽が空に対して我儘を言っているからだろうか。「もう少しいたい。まだ帰りたくない」そんな声が聞こえる。


 空から視線を落とすと、実際にそう言って駄々をこねている小さな子供がいた。


 公園の前で駄々をこねる男の子は、お母さんの腕を一生懸命引っ張っている。足も腕も泥まみれで、元々キャラクターの描かいていたのであろう靴は、まるで砂埃を履いているよう。


 糸で操られた人形の様にばたばた動く少年の手足を横目に見つつ、わたしは足を速めた。


 駅前の商店街を目指す。夕方の商店街が、わたしは大好きだ。


 果物を極端に置いてない八百屋さん。鶏肉の安い肉屋さん。横切っている途中の、滑り台と、二つのベンチが並ぶ公園。


 狭い道路を挟んで、菓子パンがすごく甘いパン屋さん。小さな銀行と、最近出来た接骨院。その隣には、中学生向けの学習塾。一番角には、少し大きめのスーパーマーケット。


 統一感がなく、いろんなものが道沿いに並んでいるこの商店街。この気の抜けた乱雑さが、どこか学校の教室のようで、商店街の雰囲気を身近に感じさせてくれる。


 ペンギンの絵の書いたクリーニング屋さん。女性スタッフばかりの美容院。路地を挟んで、小さな居酒屋さん。


 古い不動産屋さんのとなりには、もっと古そうなおもちゃ屋さん。他にもいろんなお店が並ぶ。


 毎日のように買い物をしている、なじみ深い商店街を抜ける。わたしの最終目的地は、そこに鎮座していた。

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