40「おかえりなさい」

 すっかり雪がとけて、墓地は緑に囲まれていた。


「トールが死んでしまったのは、五月なのよ」


 そうカレンから聞いたのは、きのうのことだ。今月がこれほど重要な月だったことを知ったエリは、少し考えてから口を開いた。


「それなら、お墓をきれいにしておきたいです。あした、行ってきてもいいですか?」

「まあ、ありがとう。きっとトールも天国から見ていて、喜んでくれるわ」


 微笑を浮かべてカレンは送り出してくれた。エリが墓地に行って帰ってくるまでのあいだに、出かける準備をしておいてくれるらしい。


 死者の魂は、お墓ではなく神のもとに在る。だからお墓参りよりも教会で祈ることのほうが大切だ。


 そうはいっても、会ってみたかった人の亡骸が埋められていると思えば、エリの足はお墓に向いた。


 墓地は教会の裏庭にもあるけれど、クヌッセン家のお墓は教会から離れたところにある。森の一部を切り開いた場所で、周囲に建物はなく、日当たりがいい。


 トール・クヌッセンの墓石は、伸びた草のせいでなかばまで隠れていた。


 さっそく草を引き抜いて、箒で掃き清めていく。周囲がきれいになると、墓石を磨くために雑巾をしぼった。水は近くの小川で汲んできたものだ。


 年明けにカレンと一緒にここを訪れたのが、エリにとって人生初のお墓参りだった。


 あのとき墓石を隠していたのは雪だった。灰色の空と地上の白と、すべてが冷たい色で染め抜かれていた。


 今は草の匂いのする暖かいそよ風が吹き、空も青く晴れ渡っている。そばに立つ白樺の木は花を揺らしているし、のどかな鳥の声も聞こえていた。


 郵便馬車に託した手紙は、無事にキンネルまで届いていたらしい。墓地に来る途中で郵便局に立ち寄り、エリはマザーからの返信を受け取った。


 クヌッセン家には郵便受けがないので、手紙が来ているかどうかは郵便局まで行かなければならない。ソンドレにも手紙を送ったのだけれど、そちらの返事はまだだった。


 待ちきれなくて、エリは手紙を読みながらここまで歩いてきた。箒を脇に挟み、桶を片腕に引っかけて、いそいそと便箋を開いたのだ。


 ざっと目を通したあと、目的の花屋で小振りのお花を包んでもらった。


 冬至祭の日から、エリはカレンの家に住まわせてもらっている。カレンはお店を再開し、エリもそれを手伝った。


 短い髪は隠したほうがいいとカレンも言うから、外に行くときは常にスカーフを頭に巻いた。


 短くても、どうにか後ろでまとめてしまえば、その部分だけスカーフが盛り上がる。そうすれば長い髪を結っているように見えるとカレンが教えてくれた。


 身につけるのは白と黒の格子模様の、端にフリンジがあるスカーフだ。とても大切な、宝物のスカーフだった。


 客は見慣れない顔のエリに目をとめて、誰なのかと尋ねる。ヘンドリーの生き別れていた娘だとカレンが教えれば、その噂が徐々にひろまって、エリはさまざまな場所で声をかけられるようになった。


「いい人ばかりじゃないわ」


 カレンはそう言うけれど、エリはこの町の人たちを親切だと思っている。


 買い物をすればおまけをしてくれるし、カレンのお店で店番をすれば、お釣りを受け取らずエリの手に握らせてくれる。


「頑張ってな」


 そう声をかけてくれた人もいたのだ。


 ドラファンからロッベンまでの一人旅にくらべれば、今の暮らしは幸せだった。何も不満はない。


 ただひとつ、ロルフがいないことを除いて。


 エリは墓石を磨いた。


 四角い板のような墓石は、四つある。


 それぞれ大きさも異なり、トール・クヌッセンの墓石がいちばん小さかった。その隣に寄り添うように立つ墓石が、カレンの最初の夫のものだ。


 最も古い墓石は、トールの祖母のものだという。その祖母の棺は、祖父の棺の上に埋められているらしい。


 祖父の棺の下にも誰かが眠っているはずだし、トールの棺の下にも、最初の夫の下にも、クヌッセンの先祖が眠っているのだとカレンは教えてくれた。


 新しい棺を埋めて墓石を立てるとき、もともと立っていた墓石は取り去る。だから墓石の数にくらべて、実際に埋まっている棺のほうが多いということなのだろう。


 最も新しい墓石は、ヘンドリー・アーベルの墓石だった。


 エリはどの墓石も同じように、ていねいに磨いた。それが終わると、今度は買ってきた花束から一輪ずつ抜いて、お墓の前に供えていった。


 残りの花束はすべて、トール・クヌッセンのお墓に供える。本当はすべてのお墓に花束を供えたかったけれど、エリのおこづかいではこれがせいいっぱいだった。


(生きていたら、どんな人だったのかな)


 ロルフとよく似たお兄さんだろうか。仲のいい兄弟になっただろうか。そんなことを想像しながら、トール・クヌッセンの墓前で祈りを捧げた。


 風が、一瞬だけ強く吹き抜けた。


 黒いワンピースの裾がひるがえり、すっかり伸びた髪の毛がスカーフの下で乱れる。


 一輪ずつ供えた花が墓石の前から動いてしまった。エリはあわてて拾い上げ、元どおり墓石の前の草地に置く。


 そのとき、石に刻まれている名前が動いたような気がした。驚いて、もういちど目を向ける。


「ヘンドリー・アーベル」の文字が、やわらかい日差しを浴びていた。特におかしな様子はない。動いたように見えたのは、光の加減か何かだったのだろう。


(お父さん)


 両手を組んで目を閉じた。


 葉擦れのささやきだけがエリを包む。足が地面から離れて、闇の中にぽっかりと浮かんでいるような心地になった。


(お父さん。どうか天国で、どうかやすらかに、笑っていて)


 きっと神の救いがあったのでしょう、と教会で説かれた。問題なく葬式を執り行えた、そこに神のはからいがあったはずだと。


 さまざまな事情や思いを汲み取って、どんな人間にも神は救いの手を差し伸べる。そういうことなのでしょう、と。


(神様、父を迎え入れてくれて、ありがとうございます)


 目を開けた。


 さっきと何も変わらないお墓が目の前にたたずんでいる。奇妙な感覚も消え失せて、現実を取り戻したように思えた。


 マザーの手紙が頭をよぎる。歩きながらだったから簡単に読み流したけれど、一箇所だけ、印象に残る言葉があった。


『真心で差し伸べられた手を取ったら、真っ黒に汚れているように見える手も、本来のきれいな色を取り戻すはずです。


 あなたは人のきれいな心を見つけるのが得意でしたから、あなたのそばに寄ってくる人は、きれいな色を取り戻したい人なのかもしれません。


 そんなふうに生きることが、あなたにとっても救いにつながっているのでしょう――』


(そうなのかな。そうだったら、いいな)


 あとでじっくり手紙を読み返そうと決めて、掃除用具を片づけはじめた。


 きょうはこれからカレンと出かける予定だ。ずっと会いたかった人に、やっと会いに行ける。


 ロルフが真実を語ったと知ったとき、エリはその内容に耳を疑った。思いもしない真相だった。


 父の選択に呆然としたし、ロルフを想って、すぐにでも会いたくなった。泣き崩れたカレンの気持ちは、自分よりも複雑だったはずだ。


 自白を撤回したからといって、すぐに死刑の宣告を覆すことはできなかった。


 骨を折ってくれたのはゲオルクだ。人脈を駆使して駆けまわり、もういちど裁判にこぎつけてくれた。


 ロルフの証言を裏づける確かな証拠は、ない。


 けれど、ロルフが殺害したという証拠もない。


 父が刺された瞬間をカレンが見ていないこと、これまでのロルフの人柄や行い、父の言動、遺体の腹部と手の傷がロルフの証言と矛盾していないことなど、できるかぎりの情報を並べて無罪を主張していくしかなかった。


 そうしてやっと、判決が出た。


「無罪を勝ち取ってくれたのは弁護士だよ。僕がやったことなんて、どうにかできないかと知り合いに相談したくらいさ」


 こともなげにゲオルクはそう言って、愛嬌のある笑窪を見せてくれた。


 その「相談」がなければ、ロルフの命が助かることは絶対になかったのだ。いくら感謝しても足りなかった。


 木漏れ日が揺れている。カササギが二羽、戯れるように飛び立って別の枝に移った。


 水を捨てた桶の中に掃除用具をまとめる。足元の箒を拾い上げたエリは、ふと気配を感じて振り向いた。


 手から力が抜けてしまった。箒を落として、背筋を伸ばす。


(どうして、今ここに?)


 まっさきに浮かんだ疑問は声にならなかった。いくつもの感情が胸につかえて、吐き出せないまま温度を上げていく。


(今から会いに行くところだったのに)


 こちらの迎えを待たずに、ひとりで戻ってきたのだろうか。それともこれは、会いたいという気持ちが見せている幻だろうか。いや、ちゃんと本人だ。これは夢じゃない。


 半年ぶりに会うその人は、エリの前で足を止めると、目をそらした。


「母さんから、ここにいるって聞いたから」


 ぶっきらぼうな声を聞いたとたん、エリの胸は熱い湯に浸されたようになった。喋ろうとすると泣き出してしまいそうで、なかなか返事ができない。


(会いたかった。ずっと待ってた。話したいことがたくさん、たくさんある)


 沈黙が気になったのだろう。目の前の顔が、怪訝そうにエリを見た。


「幽霊だと思ってる?……ちゃんと生きてるよ」


 エリは首を横に振った。まさかそんなことを言われるとは思わなくて、笑いがこみあげてくる。


 肩を揺らした拍子に、とうとう涙がこぼれ落ちてしまった。指先でぬぐいながら、エリはやっと声を発した。


「いいえ、あの……名前」

「ん」

「何て呼んだらいいですか?」


 茶色い癖毛が風に揺れた。琥珀色の目が、花束と小さな墓石を見つめる。


「トールは、そこに」

「はい」

「そのずっと下に、ロルフっていう、ひいじいちゃんだったか、ひいひいじいちゃんだったかが、埋まってるんだって」

「知ってます。名前をもらったんですよね」

「うん」

「ロルフさん」

「呼び捨てでいい」

「ロルフ」

「ん」


 エリは、笑顔で手を伸ばした。


「おかえりなさい」


 風が吹いた。春の香りがする、心地いい風だ。


「――ただいま」


 照れたように笑って、誰よりも優しい手が握り返してくれた。




(完)

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