39 吐露(真情)

 おかしくなる前のあいつは、話が面白いし、見るとからかいたくなるような雰囲気の人でした。


 たとえば、通りすがりにわざとぶつかったりとか。逆に仕返しされて、お互いに笑って終わりです。


 ちょっと嫌なことがあって俺が落ちこんでたとき、「元気ないな、どうした?」って声をかけてくれたこともあった。


 釣りに行ったこともあるんです。川にね、あいつが誘ってくれた。ちびっ子たちが通りかかって、いつの間にかすごく賑やかで。――楽しかったな。


 そういうあの人に戻ってほしかった。


 俺はそれを期待してた。それを望んでた。


 だから一年間、変わっちゃったあいつに耐えてきた。いつかお酒をやめてくれるって。元に戻って、そこから家族になってくれるって。


 だけど、通じなかった。あいつに俺の心は通じなかった。それが悔しい。悔しいし、腹が立つ。


 逃げるって母さんに言ったら、お金をくれました。Rって刺繍された袋に、小銭もお札もぎっしり詰まってた。


 俺のために貯めてたお金だって言われました。そんなこと、ちっとも知らなかった。


 母さんは謝ってました。ロルフごめんなさい、って。


 どうして母さんが謝ったのか、わかんないです。刺したのは俺だって思ってるはずなのに。


 むしろ謝るのは俺のほう。こんなことになったのは、ぜんぶ俺のせいなんだから。


 あんなこと言わなければよかった。


 あいつは、あのとき母さんを突き飛ばして、びっくりした顔をしてた。心配するような目になったんです。


 それなのに、死んでよなんて言うべきじゃなかった。酔ったあいつが何するかわかんないってのは、知ってたんだから。


 いや、酔っ払ってなくても言っちゃいけないけど、あいつがしらふだったら、たぶんあんなことしなかったはずだって思って。


 俺があんなこと言ったから、あいつは俺に怒って、腹いせみたいにあんなことして。


 だけどほんとに死ぬつもりなんてなかったのかもしれない。あのとき俺の手を握ってきたのは、助けてってことだったのかもしれない。


 最後まで助けようとしなかった俺を、あいつはきっと恨んだ。だから……


 確かなのは、俺があんなこと言わなければ、あいつもあんなことしなかったってことです。


 それだけじゃない。


 俺が急いで診療所まで走ってれば、もしかしたら助かったのかもしれない。


 何でそれができなかったのかなって、すごく後悔しました。迷うのはあとにして、とにかく診療所に行くべきだったんじゃないかって。


 俺はあいつを見殺しにしたんですよ。


 ――エリに会いに行った理由、ですか。


 キンネルを目指したのは、母さんの言葉を思い出したからです。荷造りをする俺に、母さんが言ったんです。


「ヘンドリーには娘がいるのよ」


 ああそうだったな、って思いました。あいつの娘ってどんな子だろうって。


 こんなことになっちゃって、俺、あいつに腹が立って、自分がゆるせなくて。


 眠いはずなのに全然眠れないし、夜の街道を一晩じゅう歩いて、朝になって、くたくたなのにずっと歩いて、頭に浮かぶのは母さんやあいつのことで、知り合いはどう思うだろうとか、置いてきたことばっかりで、そんなこと考えてもどうしようもない。


 だからあいつの娘のことを考えるのは、気が紛れたんです。


 どうせどこに行くにしても、キンネルに寄るのは最初で最後だろうって。会えるとは限らないけど、やり残しは潰しておこうって。


 エリが女子修道院にあずけられたのは、六歳のときだって知ってますか?


 エリが修道女になりたいって言ったからじゃなくて、エリを育てられないから手放したんです。ヘンドリーがそう言ってました。


 父親のことをどう思ってるんだろうって気になりました。


 もしかしたら怒ってるかなって。憎んでるかなって。ひどいやつだよねって、言ってくれるかなって。


 そしたら、俺の罪悪感も少しは消えるかもしれない。たぶん消えないだろうけど、でももしかしたらって。


 とにかくあのときは、もう、いろいろと限界で。


 行くところもないし、あいつの声が聞こえてきておかしくなりそうだったし、だから会いに行ってみようって決めました。


 俺は五歳も下の、会えるかもわからない女の子に、助けてほしかったんだと思います。すっごく情けないけど、助けてほしかった。


 女子修道院があるのはキンネルだったな、って思い出して、目指しました。いつだったか、母さんがあいつに場所を尋ねてるのを聞いてたんです。


 あんなに遠くまで行くのは生まれて初めてだったけど、地図は自分の部屋から持ってきてた。


 俺、子供のころから地図って好きで。


 いつだったかな、十歳ぐらいのときかな、伯父さんがくれた地図が最初で、持っていったのは三年ぐらい前に自分で買ったやつです。


 今回の旅で、ぼろぼろになっちゃいました。


 夏が終わって、夜は肌寒くなってきてて、だから途中でコートを買いました。安いのでよかったのに、結構して……ああ、こんなことはどうでもいいですね。


 そう……その前に、血で汚れた服を適当な川に投げ捨てました。


 なんとなく、家に置いていかないほうがいい気がして持って出たんです。ほんとになんとなく、そう思っただけなんですけど。


 キンネルに着いたときは、もうすっかり秋でした。


 女子修道院に続く道には楡の木が立ってて、まるで監視されてるみたいだと思いました。俺が、異物。侵入者、みたいな。


 門の前に修道女らしき人がいました。箒で落ち葉をかき集めてた。それがエリです。


「ここに、エリ・アーベルという人はいませんか」


 そう声をかけた俺に、エリはこう答えた。


「エリ・アーベルはわたしです。あなたは父の代理の人ですか?」


 その瞬間、わかったことがふたつ。


 あいつの娘はあいつがあずけた女子修道院に今もいた。そして、父親を憎むどころかずっと訪れを待っていた。


 閉ざそう。すぐにそう思いました。俺は何も語らない。このまま別れようって。


 純粋すぎる目で父親が迎えをよこしたと勘違いしている女の子に、いったい何を言えるんだって話ですよ。


 エリの目、きらきらしてた。このきれいな目は、あいつのきれいだった部分かもしれないって、そんなことも思いました。


 あいつはこの場所に自分のきれいな部分を置いてきた。一番きれいなものを、自分の中で腐らせないように、女子修道院っていう箱庭に守ってもらうために。


 だったら、これ以上かかわっちゃいけない。


 俺は父親を殺したかたきなんだから。会いに来ちゃいけなかった。そう思って、そのまま別れるつもりでした。


 でも、エリは追いかけてきた。


 俺が誰か知らないくせに、初めて会ったばかりなのに、ヘンドリーを知ってるっていうだけで追いかけてきた。


 なんて子だろうってびっくりしました。振り切って逃げなきゃいけないって頭では思ってるのに、足が重くて、振り切れなかった。


 エリは普通の服に着替えてました。ベールも取り去ってて……知ってるでしょう? エリの髪の毛。灰色っぽい、落ち着いた金色。目は青みがかった緑色。


 ヘンドリーと同じ色なんです。髪も目も。だけどあいつと違って、生き生きしてた。


 エリに名前を聞かれたとき、「トール」って答えました。


 死んだ兄の名前。汚いことを何も知らないまま死んだ、兄の名前です。


 偽名を使って身を隠したいって、とっさに思いました。別人になりたいって。エリの前で、別人の人生を歩みたいって。


 ぐちゃぐちゃになったロルフを殺して、新しい名前で、兄が生きたかもしれない時間を生きるみたいにできたらなって。


 そうやって新しい人生を夢みたんです。


 できませんでしたけどね。


 ずっと誰にも言わないつもりでした。それがせめてもの、あいつへの謝罪だと思ってた。


 でも……まさか母さんが捕まってるなんて。


 あいつに悪かったって思ってるから、ほんとは自分で刺したってこと、隠してやりたい。でも罪を母さんがかぶるなら、それは違うよって言わなきゃ。


 俺は、もう死ぬしかないんだって思ってここに来た。生きるのは、諦めた。


 だけど、エリの手紙を読んで、なんていうか、たまらなくなった。言いたくなったんです。


 嘘を取っ払って、たとえば、好きなものを好きだって。欲しいものを欲しいって。俺は俺を生きたいって。


 今さら遅いですよね。でも、ひとりで抱えるのも疲れました。


 このまま死刑でも、俺が選んだことだから仕方ない。嫌だけど、仕方ない。


 どうにかできるかな。……いや、無理は言いません。


 刑事さんなら聴いてくれると思いました。ドラファンで捕まったとき、盗んでないっていう俺の言葉を信じてくれたし、船に乗る前に自由な時間もくれたから。


 たったひとりでもこの話を信じてくれた人がいるって思えれば、十分。それでいいです。


 ありがとうございました。俺にはもう隠していることはひとつもありません。

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