38 吐露(事情)

 刑事さん、俺ね、兄がいるんですよ。知ってると思うけど。


 お墓に行ってくれたんでしたね。俺が生まれたときにはもう、兄はあの墓の下でした。


 父さんが死んだのも早くて、面影すら記憶にありません。ああ、実の父親のほうね。


 だから母さんの子供は俺だけ。それで小さいころ、伯父さんに言われたんですよ。


「この家に男はおまえひとりだ。おまえが母ちゃんや、ばあちゃんを守るんだぞ」


 ちっちゃかったけど、俺なりに、まじめに約束しました。そうするよって。


 ばあちゃんとも、約束してたことがあります。


「いつか新しいお父さんが来るかもしれないから、ちゃんと家族に迎えてあげるんだよ」


 亡くなる少し前にこう言われて。わかった、って答えました。


 ヘンドリーと初めて会ったのは、俺が十六歳のときです。


 いい人だと思いました。気さくで、話しやすい人。ほかの町のこととか、俺が知らないことをいろいろ教えてくれた。


 母さんもすごく楽しそうにヘンドリーと話してたし、ヘンドリーも母さんに親切だった。


 だから一緒に住むのも反対しませんでした。


 最初はよかった。だけど半年ぐらい経って、おかしくなったんです。


 ヘンドリーが、朝から晩までお酒を手放さなくなって。もう目つきがおかしくて、注意すると「うるせえ」って怒鳴られたり、物を投げられたり。


 それで気づいたんです。敵を招き入れたんだって。


 エリと旅して知ったんですけど、お酒の値段って、町によって違うんですね。びっくりするくらい安いのもあった。


 だけどロッベンで買えるお酒は、そこそこ高いんです。毎日なんて買ってたら、うちは食い詰める。


 それくらいのことは俺だってわかった。お店、手伝ってたし。うちは大酒飲みを養えるほどの金持ちじゃないんだ。


 なんとかしなきゃって思った。母さんを守らなきゃって。


 だけどね、刑事さん。


 俺はあいつのこと、嫌いじゃなかった。むしろ、好きだったと思う。


 最初の印象がよかったせいかな。お酒を断てば、また元の親切なおじさんに戻ってくれると期待したんです。だからどうにかしてお酒をあいつから遠ざけようとした。


 でも、だめだった。


 あの日。あいつが死んじゃった日。


 夕飯を食べて、俺は二階に上がったけど、母さんたちの言い争う声が聞こえたから様子を見に戻ったんです。そしたら、ヘンドリーが俺に殴りかかってきそうな感じで。


 それを母さんが止めました。でもあいつに突き飛ばされて、母さんはテーブルに頭をぶつけて倒れた。血がね、結構な血が出てました。


 ここまでは、すでに話したことと一緒です。違うのはこのあと。


 俺はあいつに腹が立った。


 だから台所に消えたあいつを追いかけて、座りこんで寝てるあいつを刺したって言いましたけど、違う。事実は違うんです。


 あいつが台所に行く前に、俺、言ったんです。ヘンドリーが憎くて、もういい加減にしてほしくて、だからあいつに言ったんです。


「もうあんた死んでよ。どっか行ってくれ」


 その瞬間、あいつの顔から表情が消えた。


 こいつがいるせいで、俺も母さんも苦しんでる。こいつさえいなければよかったのに。そんな気持ちをずっと抱えてた。だからあのとき、それが声に出た。


 あいつは台所に向かいました。俺は母さんの手当てをしようとした。そしたら母さんは、俺を咎めるみたいな目で見ました。


「ヘンドリーは病気なのよ。お願い、様子を見に行って」


 わけがわからなかった。


 何で母さんはあいつを庇うの? 何で俺を責めるの? 悪いのはあいつじゃないの? 俺なの?


 そう思ったけど、母さんの言うとおりにしてあいつを追いました。


 あいつが病気なんて聞いてなかったけど、病気のせいでおかしくなったんなら、俺はひどいこと言っちゃったのかもしれないって、少し反省したんです。


 でも台所に行ったら、あいつ、包丁を持って立ってたんですよ。包丁を両手で握って、こう、自分の腹に向けて立ってたんです。


 何をするつもりなんだろって思った。びっくりして、どうすればいいのかわからなかった。


「何してんの?」


 そう声をかけたけど、あいつは俺を見なかった。包丁を自分に向けたまま窓のほうを見て、返事をしなかった。


 そのときのこと、よくおぼえてるんです。細かいことまで。


 夕暮れの光がさしこんでて、母さんが芋の皮を剥くときに座る椅子とか、竃とか、桶に入ってる汚れた皿とか、宙にただよう埃なんかと一緒に、あいつのでかい体も赤ら顔も照らされてた。握った包丁が光を反射してた。


 あいつはなんだか変な目をしてた。


 窓をすり抜けてどっか遠くを見てるみたいな、どこも見てないみたいな。ああいうのを虚ろな目っていうんですかね。


 あいつは急に手を動かしました。自分の腹に包丁を突き刺したんです。


 嘘だろ、って思いました。


 俺はあわててあいつの手をつかみました。そのとき、やっとあいつが俺を見たんです。表情のない顔で、酒くさい息で、こう言った。


「これで、いいか」


 一瞬でわかった。俺が言ったからこうしたんだって。死んでよなんて俺が言ったから。


「ごめんなあ、生きててごめんなあ」


 喉にからんでるようなガラガラ声で、そう言うんです。それで、あいつの膝が崩れた。前のめりに倒れたんです。


 包丁がもっと深く刺さっちゃうと思って、あいつの肩を支えて、でも重くて、足がすべって、俺も膝をついた。


 あいつの荒い息づかいが間近で聞こえて、どうしようって思って、とにかく包丁をなんとかしなきゃって。


 あいつの手をどかして柄を握った。そしたらあいつ、俺の手を逆に握り返してきて、力を入れたんだ。


 抜くなって言いたいのか、俺にもっと深く刺してほしいのか、わけわかんなくなって、すごく怖くて、焦って、夢中で包丁を引き抜いてました。


 そのとき肉を切ったのがわかったんですよ。あいつの肉。おなかと、あいつの手をね、切った。あの感触が手にしみついてて、今も気持ち悪い。


 あいつは床に倒れました。息が荒くて、血がどんどん噴き出てきて、あいつの目は、どこも見てなかった。だけど泣いてた。うわごとみたいな、途切れ途切れな声を聞きました。


「父親に、なれなくて、ごめんな」


 あいつの最期の言葉。耳から離れない。


 信じたくなかった。これが現実だなんて。居間では母さんが倒れてて、台所では義理の父親が倒れてて、次に何をすればいいのかわからなかった。


 しかもこうなったのは俺のせいだ。頭が真っ白になりました。


 少しして、母さんが来たんです。


 俺は立ち上がって場所を譲った。足がふるえて、床がゆがんでるように感じて、ちゃんと立ててるのかもよくわからなかった。


 あいつの血を止めようとして、母さんは布を当てたりしてました。でもそんなので止まる量じゃない。


 そのうち母さんは「診療所、診療所」って繰り返した。それで俺も、やっと頭がまわりはじめたんです。


 診療所に連れて行けば、助かるのかなって考えました。だけど、自分で腹を刺したなんて、そんなこと言えないって思った。


 血がすごかったんだ。


 母さんの手や服も汚れちゃってて、いや、それは母さんの血かもしれなかったけど、とにかくあいつの顔色がどんどん悪くなって、苦しそうに息をしてたのに、それも弱くなって、母さんが名前を呼んでるのに、返事もしなくなって。


 これで死んじゃったら、ほんとのことは言えないって思った。


 自分で自分を殺すっていうのは、罪なんですよね?


 法律じゃなくて、神様に対する罪。神様によって与えられた肉体を殺すっていうのは、神様への裏切りだって。


 聞いたことあるんですよ。自分で自分を殺した人は、葬式を引き受けてもらえない。そんな人の魂を神のもとへ送るなんてしないって。


 そんなことになったら、俺も母さんもこの町で居場所を失う。家族の中からそんな人を出したなんて、俺たちの責任みたいなものだ。


 言葉ではっきり考えたわけじゃなくて、頭の中に一瞬で駆け抜けた感じです。ヘンドリーがやったことは、いけないことだ。みんなに隠さなきゃって。


 もし助かるとしても、ほんとのことは言わないほうがいい。じゃあどう説明すればいいのかなって迷っちゃって、動けなかった。


 母さんが俺を見ました。俺の手元を見て、顔を見上げてきて、また手元を見る。俺は包丁を握ったまんまだったんです。


 母さんが何を想像したのか、わかった。


 叱られて証拠を隠すみたいな気持ちになって、俺は包丁を落っことしました。硬い音がしたの、おぼえてます。


 母さんに疑われてると思った。俺を見る母さんの目は、そういう目だった。


 違う、俺がやったんじゃないよ。そう言おうとしたのに、


「俺がやったんだ」


 こう言いました。


 俺がやったんじゃないよって心の中では言ってたけど、母さんに疑われてるって思ったとき、ああ、そうすればいいのかって。これしかないって。


 母さんは真っ青な顔で俺を見てたけど、すぐに腕の中のあいつに顔を寄せて、「ヘンドリー」ってもういちど呼んだ。それで、すごくつらそうな、悲しそうな顔をしました。


 死んだのかな、って思いました。


「ごめん」


 俺は謝って、二階の部屋に行きました。


 そのときにはもう、この先のことを考えてました。俺が刺したってことにして、葬式をやってもらえばいいって。それが母さんを守る方法だって。


 だけど俺、死にたくないから。逃げるって決めたんです。


 母さんをひとりで残すことになるけど、だけどそうすれば母さんが白い目で見られることはない。そういうのは俺ひとりだけですむって思った。


 おかしいかな。


 自分で自分を殺すのも、息子が血のつながらない父親を殺すのも、どっちもたいして変わんないのかな。


 でもあのときは、こうするのが一番いいんだって思ったんです。


 ほんとのことは、母さんにも言えない。言えば、きっとすごく悲しむから。その原因を作った俺が母さんのそばにいても、守れる気がしなかった。


 ほんとはどうするのがよかったのかな。わかんないや。


 とにかく真実を隠さなきゃって、それが頭にあって。母さんはしばらく悲しいだろうけど、少なくともこうすれば、あいつはちゃんと葬式をあげてもらえるはずだって。


 俺のせいだから、せめて、これくらいはって。


 神様なんて信じてないけど、やっぱり死んだら葬式をあげて、魂は天国に行ったんだって思いたい。


 天国なんてあるかどうか知んないけど、もしあるなら、そこで幸せになってほしい。


 あんなやつだけど、消えてほしいって思ってた相手だけど、それでもそう思ったんです。

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