33「後悔したくないんです」

「エリちゃん、トールくんは?」


 エリが挨拶をするより先に、ソンドレが声をかけてきた。今から店の雪かきをするところのようだ。


「捕まったって聞いたけど……」


 ゆうべのソンドレは部屋に帰っていないようだった。きっと工場主だという友達の家に泊まったのだろう。トールのこともそこで聞いたのに違いない。


 エリは心配そうなソンドレを見つめ返して、微笑んでみせた。


「誤解だったので、もう釈放されました」

「そう、それはよかった」


 ほっとしたようにソンドレが微笑む。けれどすぐに首をかしげた。


「その荷物は?」


 エリはいつもどおり、白黒模様のスカーフを頭に巻いて、羊毛のケープを羽織っている。けれどいつもと違って、雪の模様が描かれたまるい水筒を首からぶら下げ、大きな袋も背負っていた。


「わたし、この町を出ることにしました」

「え?」

「急でごめんなさい」

「ええ? どうして? トールくんは?」


 面食らった様子でソンドレが軽くのけぞる。そして決まり悪そうに眉根を寄せた。


「その、なんていうか……ゆうべ、何かあった?」

「ソンドレさん、ゲオルクさんがどこの町から来た人か、知っていますか?」


 ソンドレが目を見開き、「え」とつぶやいた。一瞬だけ視線をそらしてから、考えるような顔つきでエリを見つめる。


「ゲオルクさんが、どうかしたのかい?」

「ゲオルクさんが今どこにいるか、知っていますか?」

「いや……エリちゃん、何があったの? 実はきのう、あの人が刑事さんだったって知ってね。何かの捜査をしているらしかったんだけど」

「捜査……」


 もしかして、と思った。


 もしかして、ゆうべトールが帰ってきたとき、外にはゲオルクさんがいたのかもしれない。


 トールはゲオルクさんに見張られながら、別れを告げるためだけに帰ってきてくれたのかもしれない。


(やっぱり、ゲオルクさんの警察署)


 行き先はそこだろう。


 まっすぐその場所に向かいたいけれど、肝心の地名をエリは思い出せないままだった。ここかな、と思う町がいくつかあって、はっきりしないのだ。


 だからといって、ここにいてもトールに会えない。追いつくためには、一刻も早く出発しなければいけない。


(とりあえず、ロッベンに行ってみよう。そこで何かわかるかもしれない)


 ソンドレが寂しそうに笑った。


「エリちゃん、これからどこに行くの? ゲオルクさんの出身地は、わたしも知らないんだ。でも遠いんだろうね。そこに行くのかい? ひとりで?」

「はい」


 エリは微笑んだ。


 辿り着けるのか、会えるのか、確かなことはわからない。それでも気持ちは揺らがなかった。


「歩いて行くの? 船じゃなくて?」

「船?」


 あ、とエリは口を開けた。旅と言えば徒歩、という発想しかなくて、船のことは頭になかった。


「船でロッベンまで行けますか?」

「ロッベン? さあ……調べてみないとわからないね」


 もし船でロッベンに行くことができて、それも徒歩より早くてお金も安いなら、船がいい。


 期待で胸が高鳴ったけれど、すぐに考え直した。船でロッベンに行けなかったとしたら、調べるだけ時間を無駄にすることになる。


 地図を思い返した。ロッベンは山の中にあるはずだ。船で行ける場所とは思えない。


「歩いて行きます」

「そう……それは、大変だと思うよ」

「ソンドレさん、わたし」


 背負い袋の肩紐を握りしめた。自分用の手袋は編み終わらなかったから、手が寒い。


「大好きな人に置いていかれたことがあるんです。追いかけなかったことを後悔しました。だから今度は、後悔したくないんです」


 ソンドレは、そっと吐息をついた。


「何があったのか、わからないけど――」


 つぶやいて、苦笑を浮かべる。


「エリちゃんを止められる人は、ここにはいないってことだね」

「……ごめんなさい」

「謝らなくていいとも。会えるといいね、その大好きな人に」

「はい」

「まだ春は遠いから、くれぐれも気をつけて。絶対に外で寝ちゃいけないよ。かならず泊めてくれるところを探すんだよ。頼れそうな人がいたらどんどん頼ること。だけど悪い人もいるからね、騙されたり、襲われたりしないように、よくよく注意するんだよ。教会を見つけたら立ち寄りなさい。きっとご加護がある」

「はい」

「――なんだかエリちゃんは、雪みたいな子だね」

「雪ですか?」

「雪は純粋だけど、純粋すぎて真っ白な闇だ。こう、ちょっと頑固なところがあるからね、エリちゃんは」


 はは、と乾いた笑い声をあげて、ソンドレはエリの肩に手を置いた。力強い重みが伝わってくる。


「つまり意志が強いんだ。エリちゃんは、芯が強い。何があったのかはわからないけど、大丈夫。春になれば雪はとける。赤い涙も、黒い足跡も、きれいにとけて見えなくなる。エリちゃんが笑えば、春が来るよ」


 エリにはたとえがよくわからなかった。ソンドレの目尻に刻まれた皺を見つめて、しばらく考えた。


(励ましてくれている)


 それだけわかれば十分だった。


「お世話になりました」

「気をつけるんだよ。元気でね。いつかまた会いに戻っておいで」

「はい。ありがとうございました」


 ソンドレが手袋をはずして右手を差し出してくる。短く握手をかわした。老いてなお力強い手は、温かかった。


 エリは歩いた。角を曲がるときに振り向いたら、ソンドレの痩せた小さな体が遠くに見えた。


 ずっと見送ってくれていたらしい。エリが手を振ると、同じように手を振り返してくれた。


 角を曲がった。もう店は見えない。


 歩いているうちに、ひんやりした白いものが空から落ちてきた。迷子のように頼りなく、ふわふわと視界に紛れこむ。


 手に息を吹きかけ、小声でささやいた。


「ペンを、忘れていってます、トール」


 インク壺は消えていた。でもそれと一緒に買った羽根ペンは残されていた。忘れていったのか、わざと置いていったのかはわからない。それを届けようと決めた。


 十四歳になった日、エリは港町ドラファンを出た。


 灰色の空から雪が舞い降りる、冷たい朝のことだった。

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