32「いやです、さよならなんて」

 ゆうべ、トールが帰ってきた。


 エリは暗い窓に向かって手を組む。鐘の音を聞きながら祈り、祈ったあとも手をほどかなかった。


 トールが盗んだというのは間違いだった。それが証明されたから、トールは帰ってきた。


 これからどうしようと不安でいっぱいのときだったから、顔を見たとたんに泣きそうになった。信じることができてよかったと、心の底から思った。


 けれど気がかりなことがまだ残っている。それを無視するわけにはいかなかった。


「トールは、ロルフさんなんですか?」

「そうだよ」


 夕食の席で尋ねたら、顔色ひとつ変えずにトールは肯定した。


「だけどその名前は捨てた。だからおまえと会ったのはトールだ。名前なんて、たいしたことじゃないだろ」


 そっか、とエリは溜め息をのみこんだ。


 偽名を使っているのなら、その事実を教えてほしかった。隠し事は信頼されていないからだという気がして悲しい。


 けれどそう思うのはエリだけで、トールには特に嘘をついているという感覚がなかったのかもしれない。


 ロルフと名乗る機会はもうないと思っていて、だからあえて言う必要もないと思っていただけなのかもしれない。


 それなら、仕方ない。少し寂しいけれど、今みたいに質問すればいつでも答えてくれるような、その程度の隠し事だったのなら、もう気にしないことにしよう。


 そう考えて、頭を切り換えた。気がかりなことがもうひとつある。こっちのほうが重要だった。


「トールのお母さん、捕まってるって聞きました」


 この知らせがトールの心にどう響くかと思えば、口にするのは怖かった。きっと、ひどくうろたえる。


 そう思っていたのだけれど、トールは少しも動じないで「知ってる」と返してきた。


「刑事から聞いた。さっき会ったから」

「そう……なんですか」


 刑事とは、ゲオルクさんのことだろうか。いったいどんなやりとりをしてきたのだろう。どうしてトールはこんなに落ち着いているのだろう。


「どうするんですか?」


 トールはしばらく無言のまま、目を合わせてくれなかった。スープの具をしっかりと噛んで、飲みこんで、それからやっと返事をしてくれた。


「逃げる必要がなくなったな」


 ちらりと目を上げてそう言い、視線を横に流す。


「母さんは俺に生きてほしいって思ってる。そういうことだろ。それなら俺は、そのとおりにする」

「トールのお母さんは、トールをかばってる……」

「だと思う」

「会いに行かないんですか」

「あの刑事はあした帰るらしい。あっちに着くころには、母さんの死刑が確定してるってさ。何したって間に合わないんだ。それなら母さんの望みどおり生きるしかない」

「でも……」

「戻りたくないんだ。あの場所には」


 そう告げる口元に、かすかな苦笑いがただよった。


 暖炉の炎が揺らぐ。煙突から吹き下ろしてきた風が食卓まで届いたらしい。一瞬だけ、冷たい感触がエリの頬をなでた。


 塗り替えるように苦笑いを消して、トールが笑いかけてきた。こんな表情をエリに向けるのは初めてのことだ。わざとらしいほど明るい、愛想笑いだった。


「ごちそうさま。おいしかったよ」


 琥珀色の瞳は、濡れたように光っていた。


 話はそこで打ち切りとなった。トールはとても疲れている様子だったし、エリも自分の気持ちをうまく言葉にできなかった。


 前の日はトールの帰りを待ちわびていて、よく眠れなかった。そのせいか、横になるとすぐに深い眠りへ落ちてしまった。おかげで今朝は頭がすっきりしている。


(トールはお母さんに会いに行かないつもりみたい)


 本当に、それでいいのだろうか。


 トールの話では、もうお母さんの最期に間に合わないらしい。


 たしかゲオルクさんは、トールをお母さんに会わせたい、と言っていた気がする。死刑になる前に会ってお別れを、という意味だと思ったけれど、エリの勘違いだったのだろう。


(それでも、会いに戻ったほうがいいんじゃないかな)


 トールが平気そうにしているのが不思議だった。父を手にかけてしまったのは、お母さんを守りたかったから、のはずではないだろうか。


 そのお母さんが自分のかわりに死刑になると聞いて、あんなに落ち着いて受け止められるわけがないと思う。あの愛想笑いは、きっと本心を隠している笑顔だ。


 ひょっとして、お母さんに合わせる顔がない、と思っているのだろうか。助けられなかったのに、どんな顔をして会いに戻ればいいのかと、そう思っているのだろうか。


(戻っても、戻らなくても、きっと、つらい)


 そう思ったら、すんなり心が決まった。


 もういちどトールの考えを確かめよう。大事なことだから、本当に納得できるまで悩むのがいい。トールがどちらを選んでも、トールを支える。この気持ちをトールに伝えよう。


 エリは真っ暗な窓に背を向けた。暖炉に赤いおきが見えるのを確認してから、トールが眠っているソファの輪郭に目を凝らす。ふと、違和感を覚えた。


 静かだった。静かすぎるくらい、静かだった。眠っているはずの影も見えない。


 不安に駆られて手を伸ばした。触れたのは、人の体ではなく冷たい座席だった。


 ソファの前にまわりこんで手を横にすべらせる。やわらかい感触にぶつかった。毛布だ。手繰り寄せて抱きかかえた。トールの匂いがする。けれど、ぬくもりは残っていなかった。


「え?」


 立ちくらみがした。テーブルに手をついて闇をまさぐり、マッチを擦る。気持ちの悪い臭気を発して生まれた火を、蝋燭に移した。


 火影が揺れる。燭台を持ち上げようとしたエリは、照らし出されたテーブルに目をとめた。


(手紙?)


 見覚えのある便箋が一枚、たたんで置かれている。そばには羽根ペンも転がっていた。


 嫌な予感と、その予感を打ち消してほしいという願いで鼓動が速くなっていく。息をひとつ吸って、便箋を開いた。


 揺れる灯りが照らしたのは、やや癖のある筆跡だった。




   エリ


 誕生日おめでとう。

 祝ってあげたいけど、もう一緒にいられない。

 ごめん。

 ここで暮らしてもいいし、別の町に行ってもいいし、キンネルに戻ってもいい。

 当面のお金が必要だろうから、置いていく。引き出しに入ってるよ。遠慮せず使って。

 地図もあげる。俺にはもう必要ないから。いらなかったら捨てていいよ。

 こんなものしかあげられなくてごめん。

 マフラーと手袋、うれしかった。

 俺を支えたいって言ってくれたの、心強かった。

 ごはん、いつもおいしかった。

 たくさんの優しさと、楽しい時間をありがとう。

 さようなら。


          トール




「いや」


 首を横に振った。


「いやです、さよならなんて」


 便箋を置く手がふるえた。燭台をかかげてソファを照らす。エリが乱した毛布が浮かびあがった。ほかには何もない。


 ぐるりと部屋の中を歩いた。トールの荷物がない。コートがない。ブーツもない。


 玄関のドアノブを引いた。ガチャンと音を立てて動かず、開かなかった。見慣れた玄関ドアがトールの築いた壁に見えてくる。追って来るな、と言われたような気がした。


(置いてかれた)


 それだけは嫌だったのに、と泣き出したくなった。手から力が抜けて、燭台をうっかり落としそうになる。


 あわてて持ち直すと、消えかかった火はすぐに勢いを取り戻した。そのとき、蝋燭がゆうべよりだいぶ短くなっていることに気づいた。


 トールが夜中に使って手紙を書いたからだ。その様子を想像しながらテーブルまで戻った。自分が眠っているあいだに書かれた手紙をもういちど手に取る。


 ハッとして、エリは手紙を置いた。


 衣装戸棚に近づいた。引き出しを開けていくと、「R」と刺繍された小袋がすぐに見つかった。持ち上げると重みがある。


 たたんだ地図もあった。トールがいつも使っていた、ぼろぼろの地図だ。


(地図が必要ないって、どういうこと)


 お金も地図も持って行ってない。それでどうやって、どこに向かったのだろう。


 思い浮かんだのは、雪の路上に横たわるトールだった。冷たくなった体。あるいはセルヴァ川に浮かんでいる姿。


「だめ、ちがう」


 まさかそんな寂しい終わり方を選んでほしくない。もっと違う理由で出て行ったのだ。そう信じたい。


(それじゃあ、何を選んだの?)


 次に思い浮かんだのは、ロッベンだった。トールの故郷であり、エリの父親が眠っている土地。トールの母親が捕まっている場所。


 刑事と話した、とトールから聞いたときに感じた疑問が、ちくちくと胸を刺してくる。どうしてあんなに落ち着いていたのか。


 もしかして、トールはロッベンに戻ることを決めていた?


「ちがう」


 ロッベンじゃないかもしれない。ゲオルクさんはどこから来たと言っていた? どこの警察の人だと言っていた?


(聞いたはずなのに)


 エリは愕然として立ち尽くした。


 トールのお母さんは、たぶんゲオルクさんの警察がある町にいる。けれどそれがどこか思い出せない。でもロッベンじゃなかった。もっと違う地名だった。


「どうしよう」


 地図を手に取った。見れば思い出せるだろうかと床の上にひろげる。燭台を動かして照らし出し、ロッベンを探した。


 地図の見方はトールが教えてくれた。このへんだ、と見当をつけてロッベンを見つけたあと、周辺を舐めるように探した。聞き覚えのある地名が手がかりだ。


(トールがそこに行ったのなら、追いかける。絶対。なにがなんでも)


 こんなお別れはあんまりだ。さよならなんて、したくない。納得できない。


(お母さんを助けに行ったなら)


 どんな終わり方だろうと、そばにいたかった。

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