31 別離

 もし、あのときキンネルを目指さなければどうなっていただろう。


 エリは今も女子修道院にいて、自分はどこかで野垂れ死にしたかもしれない。


 寒さに耐えきれず部屋を借りたとしても、もっと安いボロ家だっただろう。ひょっとすると、散財して落ちぶれて、泥棒を繰り返したかもしれなかった。


 これまでロルフが盗みを働いたことは一度もない。


「ヘンドリーを殺した」とエリに告白した夜、やけになって、裏通りの安い飲み屋で過ごしたのは事実だ。


 店の隅でうずくまる浮浪者を尻目に、おいしいとも思えない酒を無理やり飲んだ。ヘンドリーがしていたみたいに、飲んだくれのクズ野郎になってみようとした。


 そのときの酒代は、母が持たせてくれたお金で支払った。


他人ひとの金で飲んだ」と言ったのは、自分で稼いだお金ではない、という意味だ。それを説明せず、わざとエリが誤解するような言い方をしたのは、それこそ幼稚な意図だった。


 エリを試した。エリに軽蔑されたら、もうどうでもいいと思った。


 あのとき触れたエリの手は、はっとするほど温かかった。でも少し荒れていた。毎日の家事と労働のせい、つまり俺のせいだ、と思って、申し訳なくなった。


 ずっと握られているのも気恥ずかしいから、逃げるように手を引っこめた。あれはちょうど今ぐらいの時間だったはずだ。


(俺を裁けるのは、神様でも法律でもない)


 不意に、ベッドが軋んだ。はっとしてロルフは視線を向ける。


 毛布がこすれる音がして、やがて静かになった。エリが目をさましたのかと焦ったけれど、寝返りを打っただけのようだ。耳を澄ませば、規則正しい寝息が聞こえてくる。


 手に息を吹きかけた。部屋はそれほど寒くないのに、指先は冷えきっている。


(あれも、これくらいの時間だったかな)


 ヘンドリーが死んでいることをまだエリに告げていなかったとき、この部屋で眠るエリを覗きこんで、衝動的に手を伸ばしたことを思い出した。


 触れたのは首だ。喉元だ。細い首を片手でつかむように軽く触れた。


 温かかった。血の温度だと思った。脈が動いていた。生きているんだという実感が、ぞわぞわと肌の内側を舐めた。何も気づかず眠りつづけるエリの寝息が、ロルフの手首に当たった。


(殺そうと思えば殺せるんだな)


 それほど近くに、無防備に、エリは命をさらしていた。


 知ってるか、と声に出さず語りかけた。


(おまえの父親が死んだのが、誰のせいか、知ってるか)


 もちろんエリが知ってるわけないし、自分は何をしようとしてるんだと怖くなって、すぐに離れた。不安定な感情が血管を駆け巡るようで、鼓動が速くなった。


 そのときも、背後にヘンドリーが立っているような気がした。


(妹だ)


 血はつながってないけど、いちおう、妹だ。


 だから守る。たとえ妹じゃなくても、俺について来てくれたんだ。こんなに近くに、無防備にいてくれてるんだから。


 だから部屋を借りたんだし、ここで冬を越して、警察が絶対に追ってこられない場所まで行くんだ。


(だけどエリが俺を憎んだら? 俺の罪を知って、俺を責めたら?)


 そんな日が来ることを恐れた。


 ヘンドリーの死を知ったエリは、ロルフの予想に反して、「支えたい」という言葉をくれた。


 その言葉にどれほど救われたか、きっとエリはわかっていない。ロルフはそう思う。


(それでも、言えない。何もかもは、打ち明けられない)


 ロルフは闇を窺った。


 さっき感じた何かの気配は、すぐ近くにいるようにも思えるし、どこにもいないようにも思える。


 幽霊の正体は悪魔だと言われている。悪魔が死者のふりをして人をおどかすらしい。


 ロルフはこの手の話を聞き流すことが多かった。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、と。


 だから幽霊なのか、違うのか、よくわからない。悪魔かもしれないし、天国に行きそびれたあいつ自身かもしれない。


 どちらにしろ、あの男の影に悩まされているのは事実だ。そのことをロルフは誰にも相談できなかった。


(エリに話したって……本当のことは言えないしな)


 そっと溜め息をついて、苦笑する。


 蝋燭がさっきより短くなっていた。光はいつか消えるものだ。この命も、長くない。


 死んだらおばあちゃんに会えるかな、と考えた。同時に別のことも思い浮かんだ。


 祖母が死んだ日の、ちょうど二年後のことだ。


 知り合って間もないヘンドリーに、ロルフは説明した。あしたはおばあちゃんが死んだ日だから、お店を閉めて教会に行く、と。


 ヘンドリーは「そうか」と神妙な顔つきをしたあと、思い出したように言った。「あした? あしたは娘の誕生日だ」


(あした、いや、きょうか)


 ロルフは再びペンを取った。インク壺にペン先をつける。何を書くべきか、それだけに集中した。


 エリは手袋とマフラーを編んでくれた。「これを使ってください」と笑顔で渡されたとき、日頃の疲れが一気に吹き飛ぶほどうれしかった。


 けれど照れくさくて、ぶっきらぼうに「ありがとう」と言うのでせいいっぱいだった。


(せいいっぱいだ)


 罪の告白ではない。せいいっぱいの感謝をこめたいのだ。


 新しい便箋に言葉をしたためていく。せいいっぱいの想いをこめて書き終えると、ロルフは手袋とマフラーを身につけた。


 工場で働きはじめたころは、コートも帽子も休憩室に置いていた。


 盗むやつがいるらしいと知ってからは、コートを腰に巻いて、帽子やマフラーはポケットに突っこんで持ち歩くようにした。おかげでコートはもちろん、帽子もマフラーも少しずつ汚れてしまった。


 特に手袋は煤汚れがひどい。たまに手袋をしたまま石炭をくべていたせいだ。


(汚れてても、あったかいさ)


 毛糸の手袋は風を通すから、外を歩けば手が冷えるのは防げない。それでも素手よりはマシだし、エリが作ってくれたと思うだけで胸のあたりが温かくなる。


 もう二度とエリに会うことがなくても、このぬくもりを連れて行けるなら十分だ。


 ロッベンからずっと持ち歩いてきたバッグを肩にかけた。ブーツを履いて振り向き、エリの様子を探る。


 目をさましている気配はない。気づかれる前に行こうと、振り切るように部屋を後にした。


 黒く冷たい風が全身に突き刺さる。


 闇夜を歩くのは危険だ。街路灯がそばになければ何も見えないし、どんな悪人がひそんでいるかもわからない。けれどロルフに不安はなかった。


 工場からの帰り道はいつも暗かったから、夜道を歩くのには慣れている。


 エリに罪を告白して飛び出したあのときも、こうして歩いた。あのときは雪が降っていて明るかったけれど、闇に紛れこめる今のほうが歩きやすい。


 治安の悪い通りも、夜中に人が起きている飲み屋街の場所も、だいたいは知っている。何かの事情で急にこの町から逃げないといけなくなったときのために、休日を利用して調べておいたのだ。


 港を目指すなら、街路灯がない裏道さえ避ければ問題なく行けるはずだ。そのうえで自分は闇の一部みたいに、暗がりを選んで歩けばいい。


 そう思ってロルフは歩いた。


 誰かがつけてきているような気がした。物盗りなら襲われる前に逃げるべきだ。


 でも思い過ごしかもしれない。あるいは幽霊かもしれない。エリかもしれない。


(エリじゃないな)


 エリなら呼び止めてくる。走って追いついて、きっと顔を見ようとしてくる。それがないから、エリじゃない。


 追ってくる気配を巻くついでに、遠回りをして体を温めることにした。待ち合わせの時間まではまだたっぷりある。


 コートのポケットに手を入れると、部屋の鍵に触れた。


 大家が渡してくれた鍵はエリが持っているほうで、自分のはあとから作った合い鍵だ。もういらないから、そのうち捨ててしまおう。


 鍵と一緒に、書き損じた置き手紙もポケットに入っている。


 エリの目に触れない場所で処分しようと持ってきたのだ。どこがいいだろうか。やっぱり、海だろうか。


 この町に来た最初の日、エリと一緒に港を目指したことを思い出した。


 よっぽどうれしいのか、エリの目はきらきらして、頬も赤く染まっていた。そういうエリを見ると、ロルフも楽しい気分になれた。


 ひとつを思い出すと、つぎつぎに思い出す。


 初めて一緒に泊まったとき、食堂で料理を待つあいだにエリのおなかが鳴った。


 思いがけない道行きになってロルフは戸惑いと緊張を抱えていたのに、恥ずかしそうにしているエリを見たら、胸の奥がむず痒くなって笑いがこみあげた。


 あのときのエリは、ずっと歩きつづけたから疲れているように見えた。ロルフも疲れていた。


 あんまり疲れているときは、空腹でも食欲がなくなる。それでも食べられるときに食べておかないと、あしたもこういう食事ができるとは限らない。エリにはそう言い聞かせるつもりだった。


 ところがエリは食欲旺盛で、なんだ俺より元気じゃないか、と感心してしまった。


 たまたま食堂に居合わせた客の子供が、ロルフという名前だった。母親が「ロルフ」と呼ぶのを聞いて、心臓が止まるかと思った。母さんの声かと錯覚した。


 その夜、途切れがちな眠りのなかで、隣のベッドにエリがいる気配をずっと探っていた。ちゃんと眠れているか心配だったし、この先どうすればいいのかと、不安になった。


 不安はずっと消えなかった。


 一緒に暮らすことを決めたときも、ここでちゃんと稼げなかったらお金は出ていくだけで路頭に迷うんだ、と暗い気持ちになった。


 煙突に鳥の巣がないか確認するために、屋根に登ったこともある。心配そうに見上げてくるエリと目が合ったとき、初めて不安が消えた。


 屋根からの眺めが気持ちよかったせいもあるかもしれない。「トール」はここで新しく生きられる。そんなふうに感じた。


(うまくいかなかったけどな)


 工場での稼ぎは愕然とするほど少なかった。


 このままじゃマズイと思って、食事を抜いた。ちゃんと外で食べてるよと、エリには嘘をついた。


(エリは朝早くに起きて俺を送り出して、遅く帰る俺を寝ないで待っててくれた)


 そうやってエリが優しければ優しいほど、つらくなった。


 おまえの父親を死なせたのは俺なんだって思って、エリを遠ざけたくなった。すべてがバレたとき、エリの信頼を失うのが怖かった。


 ベッドを買った帰りにケンカをした。雪がエリの金色の髪の毛に絡みついていた。それを見たとき、ひどいことしてるなって自分で自分が嫌になった。


 だから打ち明けた。終わるなら終わればいいって、投げやりな気持ちで。


(ごめんな)


 嘘をついたことも、父親を死なせてしまったことも、こうして置いていくことも、エリにはひどいことばかりしている。


 こんな自分に、エリは純粋な思いやりと楽しい時間をくれたのに。


(ほんとに、ごめん)


 届かない言葉を胸の内で繰り返しながら、ロルフは歩いた。


 荷物からコツンコツンと音がする。バッグの中は隙間があるから、何かがぶつかっているのだろう。


 羽根ペンは使う予定がないから置いてきた。インク壺は、フクロウに愛着がわいて持ってきてしまった。


 ぶつかっているのはたぶんインク壺と水筒だろう。この水筒にもずいぶん世話になった。母がくれたお金で最初に買った持ち物だ。エリのまるい水筒とは違って、細長い樽のような形をしている。


(むこうに着いたら、没収されるんだろうな)


 なるべく気配を消したかったから、音を鳴らさないように荷物を押さえてみたり、ゆっくり歩いてみたりした。


 不意に大きな音が降ってきた。どきりとして足が止まる。


 振り仰いだ教会は闇に沈んでいた。音だけが降ってくる。神に仕える誰かの手によって打ち鳴らされた音が、容赦なく腹の底まで届いて、反響して、心を穿ってきた。


 いつかのエリの言葉がよみがえった。


『トールを裁けるのは、神様でも法律でもない。お父さんだけだと思うんです』


 そうかもしれないと思った。


 だけど、たとえ何に裁かれようと、自分がゆるされることはない。そのことをロルフはよくわかっていた。自分が自分をゆるせないのだから、どんな裁きも無意味だ。


(エリが起きる時間か)


 鐘が鳴り終わる前に、教会から離れた。


 ひとけのない道を、凍える道を、ゆっくり歩く。ときおり酔っ払いや早起きの通行人とすれ違いながら、無事に港へ辿り着いた。雪が降りはじめていた。


 予定より早くやって来たゲオルクと合流する。この刑事がどうしてこんなにも自分を自由にさせてくれたのか、ロルフにはわからなかった。


 待ち合わせをすっぽかして逃げるとは思わなかったのだろうか。どうして逃げないことを信じてくれたのだろう。


 ひょっとして、誰かがつけてきているような気配、あれはこの刑事だったのかもしれない。


 そうだとしても腹は立たない。むしろそれがいい。あいつの幽霊より数段マシだ。


 夜が明けるころ、船に乗りこんだ。


(もう、読み終えてるよな)


 白い町並みが遠ざかっていく。エリと過ごしたアパートを目で探しながら、ロルフは胸の痛みをこらえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る