34 カレンが耐える現実

 息子さんが見つかりましたよ、と言われたとき、氷につらぬかれたようにカレンはふるえた。


 人はどうしようもない恐怖を感じると本当に体がふるえるのだと、身をもって知った。自分のことよりも、息子に訪れる結末が何より怖かった。


 十二月の始め、久しぶりに会ったゲオルク刑事は子供をあやすように穏やかだった。


「ロルフくんが自供しています。ヘンドリーさんを刺したのは自分だと。あなたではない、そう言っています」


 取調室のオイルランプは光と陰を生む。


 ゲオルク刑事の顔にも明るいところと暗いところができていた。光が当たっているところは真摯で頼もしく見えたけれど、陰になっているところは借金取りの作り笑いに見えた。


「ロルフはわたしをかばってるんだわ。刺したのはわたしです」

「困ったな」


 ゲオルク刑事は天井を仰いで苦笑した。


「あなたの言っていることと、ロルフくんの言っていることは食い違ってます。どちらかが一方をかばい、嘘をついている。このままだと、二人とも絞首台行きだ」

「どうして? ロルフは無実よ」

「無実なら、嘘をついてまであなたを助けたいわけだ。だけどそうやって警察をかき乱せば、それも罪になる。あくまで刺したのは自分だと二人とも主張するなら、それじゃあ二人が共謀して殺害したのだということになりますね」

「違うわ」

「カレンさん」


 前のめりになって声を荒立てたカレンを、見透かすような眼差しがからめとった。


「ロルフくんが、どこでどうしていたのか、気になりませんか」


 もちろん気になっている。ちゃんと食べていたのか、怪我や病気はしなかったか、どうして警察に見つかってしまったのか。


「ロルフくんは、キンネル女子修道院に行ったようです。エリ・アーベルという見習い修道女を連れて、ドラファンまで移動し、そこで暮らしていました」


 思いがけない名前が胸を打った。


(まさか)


 あの子が。その子に会いに行くなんて。


「エリ・アーベルという少女は、ヘンドリーさんの実の娘ですよ。残念ながらドラファンで別れてきましたが、とてもかわいらしい、素敵なお嬢さんでした。ロルフくんはエリちゃんとの暮らしを大切にしていた。それでも、あなたが捕まっていると知って戻ってきた。この意味を、よく考えてください」


 ロルフ、と胸の内側で呼んだ。


(わたしのために戻ってきたの?)


 かわいいロルフ。かわいそうなロルフ。わたしの大切な子。


 どうすれば守れるのだろう。どうすれば助けられるのだろう。ロルフの手が汚れたのは、わたしのせい。ひどいことをさせてしまった。いったいどうすれば報いることができるのだろう。


「ロルフは、いま、どうしてるんでしょうか」


 問う声は、自分で思う以上にか細くふるえていて、情けなかった。


 コートの内ポケットに手を入れて、ゲオルク刑事は懐中時計を取り出した。目を細めて時間を確認し、出入り口のそばに立つ男に向かってうなずく。


 ドアが開く音につられてカレンは振り向いた。そこに立ち尽くしている人物を見た瞬間、涙がこみあげた。


「ロルフ、ああ、ロルフ」


 両手をひろげて近寄った。抱きしめた体は記憶にある姿より痩せている。それでもロルフの匂いがした。


 カレンの背中が優しい力に支えられる。懐かしい声が耳元で「母さん」と呼んでくれた。数年前から低くなった声は、前の夫の声に似てきたとカレンは思っている。低すぎず、細すぎず、尖ったところのない声だ。


 抱きしめる手をゆるめて体を離し、ロルフの顔をなでた。やっぱり痩せてしまっている。


「元気なの、ロルフ」


 ロルフの口元に笑みが浮かんだ。落ち着いていて、とても大人びて見える。


「元気だよ。ごめんね、母さん」

「なにを」

「嘘をつかせてごめん」


 そのとたん、カレンが必死にかぶりつづけてきた仮面が完全に砕けてしまった。こらえきれずに嗚咽をもらし、顔を覆って泣き崩れた。


 かわいいロルフ。かわいそうなロルフ。しっかり者の、大人びたロルフ。守ったつもりだったのに、最後は守られてしまった。


 取り繕うことができなくなって、カレンは嘘を認めた。


 連れて行かれるロルフは去り際に、「母さん、ありがとう」と笑った。


 カレンが夫を殺した罪は、なかったことになった。けれど警察を騙し、真犯人を隠した罪は消えない。カレンの勾留も続いた。


 ロルフがどうしているのかは、まったくわからなくなった。


 次の週、カレンは法廷に立った。ありのままの罪を認め、罰金刑を科せられた。


 裁判のさなか、カレンよりも先にロルフの裁判があったことを教えられた。


 ロルフに下された罰は、死刑だという。


 さんざんそこから逃がそうとしたのに、やっぱりだめだった。聞いた瞬間、カレンは自分の顔がゆがむのをはっきりと感じた。目が焼けそうなほど涙があふれて止まらなかった。


 罰金を支払うためのお金は、兄が用立ててくれた。誰からどのように伝わったのかは知らないが、妹一家に起きた異変を知って、実家から飛んできてくれた。


 ロッベン行きの馬車へ乗りこむとき、知った声に呼び止められた。ゲオルク刑事だ。


「ロルフくんの刑は、まだ日時が決まっていません」


 そう教えてくれた。執行される場所も、ハリンではないだろうという話だ。そこはカレンの知らない町、とても遠い町だ。


「ロルフのこと、何かわかったら教えてくださいませんか。何でも、どんな小さなことでもいいですから」

「ええ、かならず」


 青い目に真摯な光を浮かべて、ゲオルク刑事は約束してくれた。






 カレンがハリンで捕まっているあいだに、自宅は泥棒に入られていた。


 まだ栓を開けていないお酒が寝室の枕元にあったはずだけれど、それも誰かに持ち去られていた。


「まあ、仕方ない」


 兄は何度もそう言った。


 口数の少ない妹を叱らず、甥の末路を嘆かず、唇を引き結んでせっせと動きまわる。兄のおかげで、荒らされた家の中はみるみるきれいになった。


「起きてしまったことは仕方ない。それでも生きなくちゃあいけないんだ。生きられるうちは生きるのが、神様との約束事さ」


 ぽん、と兄は妹の背中をかるく叩いて笑った。


「うちに戻ってくるか」


 カレンは首を横に振った。


 実家よりここのほうがハリンに近い。それに家族のお墓もある。


 お墓参りなんてめったにしないけれど、実家に戻ればますます足が遠のく。何もかも忘れて離れるには、心残りが多すぎた。


「そうか」


 幅広で厚い手がカレンの背中をもういちど叩いた。


 生きる気力を分けようとしてくれている。そう思って、涙がにじんだ。


 頼もしい手が離れるのは心細かったけれど、引き止めるわけにもいかない。数日だけ泊まってくれていた兄は、兄を待つ家族のもとへと帰った。


 真冬の風は冷たく、空はいつも暗い。


 カレンの店も自宅と同じように、泥棒に入られていた。


 荒らされ放題の惨状を見て途方に暮れたけれど、このままというわけにもいかない。溜め息をついて後片付けに取りかかった。


 夏と違って出歩く人は極端に少ない。それでも商店街だから、人が来る。


 ゴミを外に出したカレンを見て、化け物にでも会ったように逃げた人がいた。逃げはしなくても、はっとした顔で振り向いたり、「え」と小声で驚いたりする人たちもいた。


 だいたいの人はそのまま通り過ぎて、離れたところからもういちどカレンを窺うのだった。


「あなた、どうしてここにいるの。捕まったんじゃないの」


 お店の常連客だったおばあさんが、おそるおそるといった様子で声をかけてきた。


 そう聞いてくるということは、まだロルフのことが知れ渡っていないのだ。


 妹のかわりに外出していた兄も誰かと話すことがあっただろうに、何も言わなかったのだろう。あるいは、言えなかったのかもしれない。


 カレンも返事をためらった。何をどこまで説明しようかと迷った末に、ひとことだけ口にした。


「息子が、自首してしまったんです」


 おばあさんの目に浮かんでいた恐れと疑問が、驚きと憐れみの色に塗り変わるのを、ぼんやりと見つめた。自分の体から魂が抜け出して、遠くから見ているような気分だった。


「まあ、ロルフくん? 行方不明だって聞いてたけど、あの、優しい子が? それじゃあ、あなたは……」

「守れなかったんです」


 そう声に出したとき、体の芯がふるえた。背骨が砕けるみたいに揺れて、ほんのちょっと押されただけで倒れてしまいそうだった。


 ヘンドリーを殺したのは、ロルフ。


 その事実が、日を追うごとに人の口から口へ、ひろまったのだと思う。


 たまたま顔を合わせた隣のおばさんは、大変だったね、とすぐに言ってくれた。憐れむような眼差しだった。


 以前は気軽に家まで訪ねてくる人だったけれど、そういうことはなくなった。あの日の血に染まった台所を目の当たりにしているから、近寄りにくいのかもしれない。


 それでいい、と思った。あからさまに避ける人もいたから、最低限の挨拶を交わしてくれるおばさんの態度が、いちばん優しかった。


 ヘンドリーはどうして刺されたのかと詳しく聞いてくる人もいたし、ロルフのことを「おかしくなっちゃったんだ?」と一方的に決めつけてくる人もいたのだ。


 実は罪を息子になすりつけたのではないかと勘繰る人もいて、睨まれることもあった。


 こういう視線や言葉にぶつかると、カレンの心は両手できつく絞られているように苦しくなった。言いたいことが、声にならなかった。


 ロルフを助けようとしたこと、できなかったこと。


 そんなの、もうどうしようもない。知らないくせに、適当なことを言わないで。


 おかしくなったんじゃないわ。ロルフを悪者にしないで。ろくでなしの亭主を息子に殺された女房、なんて整然と片づけないで。そうじゃない、そうじゃないのよ。


 わたしも、ロルフも、ヘンドリーも、それぞれがそれぞれを苦しめてしまったの。


 カレンは外に出るのが億劫になった。


 ひそひそと囁かれる噂話や、ちらちらと盗み見る視線が嫌だった。どうにか生活を立て直さないといけないのに、お店を再開することを諦めてしまった。


 ロルフに会いたかったけれど、面会はもうできない決まりだった。今頃ロルフはどんな気持ちで、どうしているのだろう。


 カレンが勾留されたときと同じように、鉄格子に囲まれた雑居房にいるのだろうか。


 あそこはとても寒かった。体を壊していないだろうか。さまざまな罪で捕まった人たちが押しこめられていたから、ケンカも起きた。からまれて、暴力をふるわれてはいないか。


 そんなことを考えはじめると、じっとしていられなくなった。けれどカレンにできることは何もないのだ。


 蓄えはほとんどない。あの悲しい日を思い出すから台所に立つのもつらい。もとより食欲もないから、わずかな食事を一日に一回だけ取って過ごした。


 そんなカレンを訪ねてくる人物が、ひとりだけいた。

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