26「トールが、盗んだんですか?」

 エリは森にいた。


 昼間なのに暗い森の中を、息を切らして歩いていた。


 誰かを捜していたのだ。名前は思い出せない。ただ、とても会いたい、会わなければならない人だった。


 目を開けると闇が続いていた。ベッドで少し横になるだけだったのに、いつの間にか夢を見ていたらしい。


 朝を通り越して夜になってしまったのかと思ったけれど、そうではないと赤い熾火が教えてくれた。まる一日たっているなら熾火も消えているはずだからだ。


 部屋は静かだった。静かで暗くて、エリのほかには誰もいない。


 あの夜と同じだと思った。


 半身を起こして、ぼんやりと暖炉を眺めた。教会の鐘が聞こえる。六時だ。


 あいかわらずカーテンのない窓は真っ暗で、外の景色は見えない。それでも窓の前に立った。


 祈ろうとした。けれど聖句は、トールへの呼びかけにかわった。


(どこにいるの)


 最後に顔を合わせたのは、きのうの夜明け前だった。エリが編んだマフラーと手袋をして、「じゃあ」と出て行ったのだ。街路灯に照らされた姿を、台所の小窓からひそかに見送った。


 それと同じことを、今朝もするはずだった。


 大雪でも降っていれば、身動きがとれなくて工場に泊まることにしたのかと想像できる。けれどゆうべは降らなかった。


 それとも、エリが寝ているあいだに吹雪にでもなったのだろうか。だから帰り道の途中でトールはどこかに避難した。そういうことだろうか。


 ためしに窓を開けて蝋燭をかかげてみた。曇っているけれど、降った様子はない。ベッドに入る前に確認したときと同じだ。


(どうして帰ってこないの)


 あの日、ベッドを買ったあのとき、トールは明け方まで帰ってこなかった。どこかでお酒を飲んだらしいけれど、今回もそうなのだろうか。


 玄関にトールのブーツがないのを見たとき、じりじりと胸が焦げついた。


 じっとしていられず、ケープを羽織って外に出た。冷たい風が吹いている。ひとけのない表通りに出て、しばらく歩いて、街路灯の手前で立ち止まった。


 目を凝らしても、振り向いても、誰の姿も見つけられない。


 仰向いて息を吐いた。何も見えなかった。月も星もない。凍える闇の空がのしかかってくるだけだ。


 ずっと見ていると吸いこまれていきそうで、目眩がした。


 足にうまく力が入らない。体が振り子のように揺れている気がする。真っ暗な世界に自分だけ取り残されたような心細さで、胸が押しつぶされそうだった。


(工場でお友達ができて、その人と一緒にいるだけで、きっとなんでもない顔して帰ってくる。きっと、帰ってくる)


 部屋に戻ったエリは、かじかんだ手に息を吹きかけてから、朝の仕事を開始した。


 けれど、ひとつの作業を終えるたびに動きが止まった。窓を眺めたり、うつむいて考え事をしたり、どうしてもいつもどおりにはできなかった。


 鳥のさえずりが聞こえる。夜明けだ。蝋燭の火がなくても歩きまわれるほど、部屋の中もだいぶ明るくなっていた。


 突如としてノックの音が響いた。


 ぼんやりとパンを切っていたエリは、はっと顔を上げて台所を飛び出した。急いで玄関のドアを開ける。冷たい風がふわりと鼻先を吹き抜けた。


「おはよう。きょうはお休みだって聞いて」


 青い瞳がまっすぐ見下ろしてくる。エリに向かって控えめな笑窪を浮かべ、その人は黒い帽子のつばをちょっと上げた。


(どうしてこの人がここに?)


 立っていたのはトールではなく、きのうお店で会ったお客さんだった。名前は何だっけと考えて、すぐに思い出す。ゲオルク・ランゲだ。


「おはよう……ございます」


 戸惑いつつも挨拶を返すと、ゲオルクは眉を曇らせた。部屋の中を遠慮がちに見渡して、気遣うような声を出す。


「エリちゃん、お兄さんはいるかな」

「え?」

「トール・アーベルって、君のお兄さん? 第六地区の製紙工場で働いてる」

「はい」


 胸が騒いだ。紙にインクをこぼしたように、嫌な予感がひろがっていく。


 この人は何者だろう。どうしてトールのことを聞くのか。いったい何を知っているんだろう。トールに何があったんだろう。


「ちょっと、いいかな」


 そう言って一歩、踏みこんでくる。


 ゲオルクの背後でドアが閉まった。外の光が遮断されて薄暗くなる。冷たい風も入ってこなくなったけれど、エリは寒けがした。


「実はね、工場で窃盗事件があって、きのう警察が従業員を連行したんだ。そのなかにトール・アーベルくんもいたんだよ」

「え……」


 とっさに思い浮かんだのは、手錠をかけられるトールの姿だった。次に思い浮かんだのは、ソンドレのお店で去り際にちらりとエリを見た、トールの眼差しだ。


「トールが、盗んだんですか?」

「それはこれから調べるんだ。今はまだ、怪しいって疑われてる段階だよ。――君は、お兄さんが犯人だと思う?」

「トールは」


 口の中がカラカラに渇いた。冷えた指を祈るように絡めて、首を横に振る。言葉は出てこなかった。


 まさかそんなはずは、と思う。だけどもしかしたら、という気持ちもある。


 トールが「他人ひとの金で飲んだ」と言ったあのときから、かすかな疑いを抱いてきた。思い過ごしだと流してしまえるほどの、薄ぼんやりとした疑いだ。


 その疑いを、エリは表に出さなかった。トールに問い質すことなどしなかったし、今この場で言うつもりもない。


 新しくやりなおしたいとトールは言った。誰かを救いたいとも言っていたように思う。そんな人が罪をかさねるだろうか。


(信じたい)


 信じると決めたからには、疑ってはいけない。疑うのは弱い心の表れだ。まだうまく信じきることができないのは、自分が弱いせいだ。せめて疑いを口にすることだけはしたくなかった。


「エリちゃん、もうひとつあるんだ」


 ゲオルクの声は、足元から吹き上げる暗い風のように不安をあおってくる。聞きたくないと、とっさに思った。


「僕はキンネルに行ったんだよ。キンネルの女子修道院に。エリ・アーベルという女の子に会いに行ったんだ」


 君じゃないかな、と青い目が見つめてくる。道を尋ねているだけのような物静かな顔で、ゲオルクは言った。


「ヘンドリー・アーベルの娘の、エリ・アーベルさん?」


 なぜそれを、と思ってすぐに、膝がふるえた。


 ひょっとして、この人と知り合ったらいけなかったんじゃないだろうか。お店であんなにおしゃべりしたのも、いけなかったんじゃないだろうか。


「僕は、ハリン警察署の者です」


 ゲオルクがコートの襟の内側を見せた。


 話に聞いたことはあるけれど、見るのは初めてだ。これが正義の証のバッジなのだろう。王冠を模した紋章に、「警察」という文字と、それより小さい書体で何か文字が刻まれている。とても冷たくて、硬い光を放っていた。


「君に伝えたいことがあるんだ」


 ゆっくりとした口調でゲオルクは話を続ける。


「君のお父さんは、亡くなりました。それをね、伝えたくて君を捜していた」


 返事ができなかった。父の死を知らせに来たということは、どんなふうに父が死んだのかを知っているということだ。つまり、トールのことを知っている。


 ゲオルクが苦笑いを浮かべた。困ったような声で告げる。


「知っていたのかな?」


(どうしよう)


 どう答えるのがいいんだろう。


 トールに会ったらこの人は「君が犯人だね」と言って捕まえるのかもしれない。二人を会わせたらいけない。どうやって切り抜けよう。嘘をついて……どんな嘘をつけばいいの。


「君がトールと呼んでいる彼が、何者なのかも知っている?」


 ほら、やっぱりトールのことも知っている。殺人者だと言いたいんでしょ。父を殺した犯人。逃げている罪人。でも、だけどトールは――


「ロルフ・クヌッセン」


 知らない名前が耳に飛びこんできて、何のことかとゲオルクを見上げた。真剣そうな顔つきで、まっすぐ見つめ返される。ゲオルクの目には不思議な重みがあった。


「彼の本名だと思う。トールというのは偽名だ。どういうつもりで君と一緒にいたのかはわからないけど、兄妹というのはあながち嘘じゃない。君のお父さんと、彼のお母さんは結婚していた。そして君のお父さんは、彼のお母さんに殺されてしまった」

「え?」


 聞き間違いかと思った。


(どういうこと)


 ロルフ・クヌッセンだとか、トールは偽名だとか、父を殺したのはトールのお母さんだとか。言っている意味がわからない。


(だってトールはトールと名乗ったし、お父さんを殺してしまったから逃げてるって……)


「僕は彼をハリンに連れ帰ろうと思っている。鉄格子の中にいるお母さんに、最後の別れをさせてあげたい」


 でも、とゲオルクは溜め息をついた。


「でも、彼は捕まっている。本当に彼が盗みを働いたのかどうか、僕も知りたい。これから彼に会いに行くけど、一緒に来るかい?」


 すぐには返事ができなかった。ゲオルクから目をそらして、エリは頭を整理した。


 この話は本当だろうか。トールから聞いたことと違う。嘘をついてるのは誰なのだろう。いったい何が起こっているのだろう。


 少なくとも、「ヘンドリー・アーベル」と、「キンネル女子修道院」と、そこにいた「エリ・アーベル」は、正しい。「ロッベン」という地名も、トールの話と合っている。


 それじゃあ、父を殺したのはトールではなくトールのお母さんなのだろうか。トールは嘘をついたのだろうか。名前を偽って、罪を偽って、旅の目的も偽った?


(ううん、そんなわけない)


 そんな嘘をつくのはおかしい。もし本当は殺していないなら、どうして逃げているの。そんな必要はどこにもないと思う。


 だとすれば、嘘をついているのはゲオルクさんか、トールのお母さんだ。


 だけどゲオルクさんの目は、騙そうとしている人の目とは思えない。すべて本当のことを言っているような気がする。


(トールのお母さんが、嘘をついてるのかもしれない)


 父の命を奪ったのは息子ではなく、母親だということにした。


(どうしてそんな嘘を)


 疑問に思ってすぐ、ひらめいた。


(トールを死刑から守ろうとしている?)


 そうだ、きっとそういうことだ。自分が犯人だということにすれば、息子は死刑にならない。トールのお母さんは、そう考えたんだ。そうとしか思えない。


 それを知らずに、トールは偽名を使ってまで警察から逃げてきた。


 今までとは違う焦りが胸を突く。


 教えないといけないと思った。お母さんのことを。知ればトールはどちらかを選ぶはずだ。戻るか、戻らないか。けれど戻るということは、つまり――


(どうするんですか、トール)

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