25 ゲオルクの思惑

 トール・アーベルは、街路灯だけが照らす夜道を歩きはじめた。


 もう午後九時をまわっている。工場から帰宅するほかの労働者たちは、別の道へと消えていった。


 この通りには飲み屋がないから、ひっそりとしていて真っ暗だ。空も曇っているのか、星も見えない。


 ゲオルクは足音を立てないよう気をつけているが、トールの足音も聞こえてこない。見失ったのではないかと少し距離を詰めると、かすかに揺れる人影を見つける。そんなふうにして追いかけた。


 トールの足取りに迷いは見られず、まっすぐ橋へと辿り着いた。


 寒いのだろう、肩を丸めた後ろ姿が街路灯に照らされる。首に巻いた青いマフラーが、そのまま闇の奥へと消えていった。


 セルヴァ川は小型の船も行き交うほど大きな川であり、橋もそのぶん長い。街路灯は橋の出入り口にしかないので、踏みこんでしまえば闇だ。


 遠くにぽつんと見える光を目印にしながら、先を歩いているはずの背中を捜した。


 橋を渡りきったあともトールは歩きつづけた。かなりの距離を進み、やっと到着したのはアパートだ。


 トールが部屋に入っていく。垣間見えたドアのむこうも闇だった。


(ここに住んでるのか?)


 容赦のない寒さに耐えながら、しばらく様子を見ていた。人が出てくる気配はない。アパートはどの部屋も沈黙している。


 小道を歩いてアパートの裏側にまわってみた。


 樅の木に囲まれた裏庭があった。隙間から覗きこむと、明かりが漏れている窓が五つ見える。暖炉の明かりだろう。朝までの暖を取りながら、普通は就寝している時間だ。


 トールが入った部屋は真ん中だったな、と見当をつけた。ガラスが曇っていて中の様子はわからない。それでも、じっと見つめる。


 一回だけ人影が揺れたように見えたが、その後はいくら待っても変化がなかった。寝てしまったのかもしれない。


 ゲオルクも宿へ戻ることにした。頭の中は、降り積もる雪のようにさまざまな考えで埋め尽くされた。






 翌日の昼間、アパートを再び訪れた。


 ゆうべは暗くてわからなかったが、割ときれいな外観のアパートだ。町の中心部からは離れているものの、近くには商店があるから住みやすいかもしれない。


 ということは、格安家賃の物件というわけではなさそうだ。


 小道を挟んで、アパートの隣に広い庭付きの一軒家がある。少し聞き込みをしようと訪ねたら、住んでいたのはアパートの管理人だった。


 ゲオルクはバッジを見せた。「警察」と「ハリン」の刻印をまじまじと見つめた管理人は、困惑した顔つきで質問に答えてくれた。


 思ったとおり、食い詰めるほど貧しい人間は住んでいないようだ。なにかしらの店舗を経営していたり、働きに出たりしている。


「なにか、犯罪に関わってる人がいるんでしょうか」


 怯えた様子の管理人にゲオルクは笑いかけた。こういうときに捜査内容を教えることはしない。


「ご協力感謝します。私が来たこと、質問した内容については、くれぐれもご内密に」

「はあ……まあ、はい」


 管理人は物足りないような顔をした。


 いったんその場を離れたゲオルクは、のんびり散歩するふうを装いながら、逸る気持ちを抑えるのに必死だった。


 トール・アーベルとエリ・アーベルが、あのアパートに住んでいることがはっきりした。


 ただしアモットで聞いたのは、修道女になる妹を兄が連れているという話だった。ここではコングスの父親に会いに行く途中、という事情らしい。


(別人か?)


 いや、同じ名前の、同じ年頃の兄妹が二組も旅をしているとは考えにくい。


 二人は周囲に嘘をついている。


(なぜ?)


 それは旅の理由を正直に言えないからだ。本当の事情は他人に話せない。後ろ暗い。真実に触れてほしくない。つまり――


 トール・アーベルがロルフ・クヌッセンと同一人物だとするならば、彼は故郷ロッベンに戻るつもりがない。


 もし彼が事件とは関係なく、ただ家を出ただけなら、そんな嘘をつく必要などないからだ。


 その嘘に協力しているエリは、トールと名乗っている彼が何者かを知っているのだろうか。


 知らずに、適当に言いくるめられた? それとも――シーラ院長の話では、エリは父親をずっと待っていたというが、本当は恨んでいて、父親を殺した少年に好意を持った?


(いや、やめておこう)


 彼女の心情を想像しても意味がない。


 肝心なのは、どうやってロルフに近づいてカレンのことを伝えるかだ。ロルフが母親をどう思っているのか、助けたいと思うかどうか、考えるべきは彼の心情だ。


「いや、待てよ――」


 エリにも、伝えなくてはならない。父親が死んだことを。


 それにはまず、エリとトールの仲がどういうものなのかを把握したい。


 エリはトールから離れたがっているのか、頼りにしているのか。こちら側に協力してくれるのか、トールに従うのか。


 エリは何をどこまで知って、あの少年と一緒にいるのだろう。


 事件の真相を、ひょっとしたらロルフがエリに語っている可能性もある。それを聞き出すことができれば、ロルフがヘンドリー殺害の犯人だと判明するかもしれない。


 そうなったらロルフを――トールと名乗っている彼を拘束してハリンまで連行すればいい。


 ロルフが自白すれば、カレンの死刑は回避できる。本当にカレンが犯人である場合は、せめて息子を連れ帰って、最後に会わせてあげたい。


 思考に区切りがついたゲオルクは、ある場所に向かった。管理人から聞き出した、エリが働いているらしいという文房具店だ。


 店のドアを開けたとき、入れ替わりに出ようとしてきた女の子とぶつかりそうになった。


 体調の悪そうな顔がゲオルクを見上げて謝罪する。青みのある緑色の目だ。道を譲ってあげると、落ち着いた色合いの金髪がふわりと揺れた。


(もしかして)


 去っていく後ろ姿を見送ったあと、ゲオルクは店主に話しかけた。


「具合悪そうでしたね。今の女の子、この店によく来るんですか?」


 店主は穏やかに笑って、ゲオルクの目をまっすぐ見つめ返してきた。


「あの子には店を手伝ってもらってるんですよ」

「お孫さん?」

「いやいや。隣に住んでる子ですよ」

「なるほど。それじゃあ、ふだんからよく知ってるんですね」

「あの子は最近、隣に引っ越してきた子なんです。お兄さんと二人で暮らしててねえ」


 店主が話し好きな性格であることは幸いだった。やはりさっきの娘はエリ・アーベルのようだ。


 店主から聞き出したことは、アパートの管理人から得た情報と大差なかったが、収穫もあった。エリの勤務時間がわかったのだ。


 ゲオルクは自分が警察であることを店主に伏せた。


 雑談のふりをした聞き込みで時間を取ったため、冷やかしの客では申し訳ないと思って適当に買い物を済ませる。


 その後は再び工場に出向き、ロルフを観察した。


 その日もロルフはきびきびと働き、寄り道せずに帰宅していた。






 翌日、トールはまっすぐ帰宅しなかった。


 雪がひどく降っているときは、いつも遅くまで稼働している工場も午後六時ごろには閉まるらしい。


 人によっては泊まりこむこともあったようだが、窃盗被害が増えたのを機に、従業員はみんな閉め出されるという。


 それを知ったゲオルクは、作業指導者の身なりをして午後四時ごろから工場内に入りこんだ。地下室を出たり入ったりしながら、トールの様子を見張ったのだ。


 工場の各建物は、暗くなると出入り口にもガス灯が輝く。


 そのまばゆい光の下に出てきたトールは、新雪の上を歩きながらコートに袖を通した。ポケットから帽子と手袋、マフラーを取り出し、手早く身につけていく。


 雪のせいで視界は悪いものの、風はないし、そもそも新雪は明るい。相手を見失うことはないだろうが、こちらも闇に紛れることができない。


 ゲオルクは距離を開けて、なるべくトールの足跡を踏みながら追いかけた。


 こんな天気なら、まっすぐアパートまで帰るのが普通だ。けれどひっそりと罪を犯すのなら、こういう天気がうってつけかもしれない。


 疑っているわけではなく、彼がこの町でどんなふうに暮らしているのかを知りたいだけだ。


 なるべく早く、彼がロルフ・クヌッセンだと明らかにしたい。そしてこの町から連れ出したい。どんなふうに近づけば警戒されないのか、それを判断するためにも彼の行動や性格を把握したかった。


 トールは途中で大通りをそれて、小道に入った。


 雑貨店などが並んでいる通りだ。どの店も閉まっているのだが、トールは一軒の店の前で立ち止まった。壁掛けのランプに火がともっているから、まだやっているのだろう。


 頭を振ったり肩を叩いたり、トールは雪を軽く落としてからドアを開けた。


 店の小窓から、わずかな明かりが漏れている。ゲオルクはそっと近寄って中の様子を覗いた。


 毛糸や生地などを扱っている店のようだ。それらの商品が邪魔をして、肝心のトールを見つけられない。やがてドアが開いて、トールが出てきた。


 ゲオルクはあわてて店の脇にすべりこむ。


 トールは少しうつむき、ゲオルクがいるほうに顔を向けた。


 背筋がひやりとした。姿を見られただろうか。あるいは、トールのものではない足跡が続いていることを不審に思われただろうか。


(まだ顔を合わせたくない)


 店の裏側、通りの先を目だけで確認した。雪かきをした形跡があるものの、すでに誰の足跡もない。新しい雪が蓋をしたのだ。


 トールがこっちに来るようなら、路地裏に抜けよう。それでも見つかったら、店の様子を見に来た店員のふりをしよう。


 幸いにもトールは背中を向けて歩きはじめた。何かをポケットに入れたようだ。


 ゲオルクは胸をなでおろす。


 トールが大通りのほうへ歩き去ったあと、店に入った。店内の暖かさに思わず息をつく。


「こんばんは。ちょっとお尋ねしたいのですが」

「はい?」


 丸眼鏡をかけたおじいさんが顔を上げた。帳簿の整理をしていたようだ。カウンターにあるランプだけが店内をほのかに浮かびあがらせている。


「巡回中の警察です」


 そう言って襟の内側にあるバッジを示し、「さっきの客はよく来るんですか?」と質問した。


「いいや。数日前に来たのが初めてですね」


 やや面食らった様子で、店主はゲオルクを見つめた。


「買い物をしていったんですか?」

「そうですよ。そこの、ええっと、これ」


 店主はカウンターから出て棚に近寄り、女物のスカーフを手に取った。


「これを買っていったんですよ。前に来たときは値段を聞かれましてね。うちは、ほかより安いと思いますよ。だから彼も気に入ったんでしょう」

「なるほど。それで、買いに来ると約束したんですか?」

「そうですよ。店は何時まで開いてるかって聞くから、さあねえ、気まぐれだね、って言ったんです。ここに住んでるから、融通が利くよってね」


 店主は丸眼鏡を指で持ち上げて、思い返すように虚空を眺めた。


「そしたら夜の七時ごろまで開けておいてくれないかって言ってきたんです。近いうちに買いに来るからって。ほら、あの人の顔、煤で汚れてたし、きっと工場で働いてるんでしょう。そしたら帰りは遅くなる。あんまりていねいに頼むんで、べつにいいよってことで、待ってたんですよ」


 スカーフを見せてもらった。


 薄手だが冷たい感触はなく、手触りもいい。白と黒の糸で格子状に編まれていて、端にはフリンジがついている。


「羊毛を使ってるんですよ。べつにねえ、そこまで高価ってわけじゃないんだけど、安物でもないから、工場の給料じゃ、すぐには買えなかったんでしょうねえ。きっと誰かへの贈り物だ。いろいろ見比べて選んでましたよ」


 ゲオルクは礼を述べて外に出た。


 たちまち澄んだ冷気が鼻の奥まで飛びこんできて、思わず咳きこむ。


「店じまいですよ」


 店主が外に出てきて、ランプの火を消した。「ご苦労様です」と愛想笑いを浮かべて店内に戻っていく。


 鍵のかかる音がしたあと、小窓から漏れていたわずかな明かりも消える。一切の音が絶えたように感じた。


 あたりには誰もいない。しんしんと雪が降りしきり、音を吸い取っている。


 気がゆるんで、なんとなく視線を上げた。顔に次から次へと雪が当たる。とっくに日は落ちているが、曇りの夕暮れどきのように空はうっすら明るい。


(明るくても、闇は闇だな)


 灰色に濁っていて何も見通せないのだから、闇だ。地上は薄明るいが、空は灰色の雪で閉ざされている。


 顎の下がひやりとした。マフラーの隙間から雪が入りこんだらしい。たまらず身震いをした。


「……腹が減ったな」


 ぽつりとつぶやいて、積もりつづける雪に新しい足跡を刻んだ。






 ゲオルクが工場長からその話を聞いたのは、翌日だった。


「いやあ、あなたの言っていたことを社長に伝えたら、それなら贈り物でも持って挨拶に行こうと言い出しまして――ええ、ようやく警察が乗りこんできてくれるようです」

「乗りこむ、というと、窃盗の犯人がわかっているんですか」

「怪しい奴らが何人もいますから。それを一斉にしょっぴいて、ひとりひとり調べてくださるんですよ」

「そうですか」


 ゲオルクは静かに微笑む。


 口には出さず、あの警察署長にまた会わないとな、と考えていた。

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