13「それは、父と関係があるんですか」

 買ったのは、子供用のベッドと二人掛けのソファだった。


 安い物を探しまわって、五軒目に入ったお店にそのふたつがあった。中古にしては状態がいいらしく、「これにする」とトールが言った。エリは「はい」とだけ答えて従った。


 白く染まりはじめた道を荷馬車が走る。馬を御しているのはお店の人で、エリたちは馬車と並んで歩いた。荷台はベッドとソファに占領されて誰も乗りこめないのだ。


 荷馬車は有料だと言われたとき、トールはちらりと空を見上げてから「お願いします」と言っていた。


 もしも晴れていたら荷馬車など頼まず、自分たちで運ぶことになっていたかもしれない。それでも反対しなかっただろう、とエリは思う。


 灰色の雲が町を閉じこめるように覆いかぶさり、粉雪を落としてくる。エリのケープにも、トールの帽子や肩にも白い斑模様が生まれていた。


 町のすべての教会が、一斉に鐘を鳴らした。近くから聞こえてくる音色と、遠くから聞こえてくる音色とが複雑な輪を描くように響きわたって、午後三時を教えてくれる。


 あれからトールは一度も目を合わせてくれない。口数も減って、必要最小限のことしか話さなくなった。まるで最初に会ったときのトールみたいだ。


 トールの顔色をそっと窺うたびに、エリは胃が縮こまっていくように感じた。お昼も食べずに歩きまわったのに空腹を感じないのは、きっとこの緊張感のせいだ。


 お店の人に手伝ってもらって、ベッドとソファを部屋の中まで運んだ。とりあえずここで、とトールが言い、玄関をふさぐように置かれる。エリは見ていることしかできなかった。


 荷馬車が去ったあと、トールは部屋の真ん中にあったテーブルと椅子を、窓の近くに移動した。エリに声をかけることもなく、黙々とひとりで動かしていく。


 トールがソファを引きずろうとしたとき、すかさずエリは反対側からソファを押した。背もたれが低いから、腰を屈めて押さなければならなかった。


 トールは床に視線を走らせるばかりでエリを見ない。ぽっかりあいた部屋の真ん中にソファは落ち着いた。


「暖炉を眺めながらくつろげますね」


 つとめて明るく声をかけたけれど、返事はない。トールはさっさとベッドを動かそうとしている。


 ソファと違ってすべりにくいらしく、うまく運べないようだ。エリは急いでベッドの片側を持った。


「手伝います。どこですか」

「そこ」


 首をねじってトールが後ろ向きに歩く。二人で持ち上げたベッドは、ソファの後ろに置かれた。壁にぴったりと寄せたけれど、ソファとのあいだはわずか一歩しかない。


「トールはこのベッドを使うんですか」

「俺はこっち」


 トールが顎でソファを示す。それ以上の会話を拒むようにマットレスをひろげた。


 マットレスに詰められているのは羽毛と羊毛だとお店で説明された。軽いから、エリが手伝うまでもなく薄いマットレスがベッドに敷かれてしまった。


 次にトールはシーツをひろげた。これなら手伝える。エリは遅れまいとシーツの片側を引っ張った。


「ソファで寝るんですか? それならトールがベッドで、わたしがソファでも」

「ベッドがいいって言ってただろ」

「そう、ですけど……あの、ありがとうございます」


 トールはシーツの皺を伸ばして、余った部分をマットレスの下に挟みこんでいる。慣れた手つきだった。


「シーツ張り、上手ですね」


 トールの手が止まってしまった。視線をシーツに落としたまま、動かない。


(どうしたんだろう)


 また何か怒らせることを言っただろうか。


 落ち着かない気分で様子を窺っていると、ぼそりとした声が聞こえた。


「やってたから」


 声に険しさがない。それだけでエリは、よかった、と思った。トールの機嫌が直るなら話題は何でもいい。


「やっぱり! わたしもやってたんです。女子修道院のベッドは……」

「一緒にするな」


 ひろげようとした話題をあっという間に閉じられて、黙るしかなかった。


 トールが両手をベッドにつく。うなだれるように顔を伏せた。


 なんだか様子がおかしい。どうすればいいのかわからず見守っていると、トールは白い息と一緒に意外な言葉を吐き出した。


「……あの男はロッベンから来た。俺の育った町だ。知り合いじゃないけど、むこうは俺を知ってるかもしれない」


 背中が痺れたような気がした。


 あの男というのは、さっきのお客さんのことだろう。あんなに全力で拒まれたから、このまま教えてくれないのだと諦めていた。


 じんわりと、うれしさが胸の内側でひろがっていく。思わず笑顔になりかけて、中途半端にとどめた。新しい不安がよぎった。


(聞いてもいいのかな)


 だけど質問の仕方を間違えたら、また不機嫌になってしまうかもしれない。エリはおそるおそる、尋ねた。


「ふるさとの人に、どうして会いたくないんですか?」

「逃げてるから」


 わずかに笑みを残していた頬が、すうっと締まるのを感じた。逃げている、とは、穏やかじゃない。トールはいったい何を抱えているのだろう。


「隣の国に行きたいのは、逃げるためなんですか?」

「そうだ」


 トールが顔を上げた。


 どきりとした。トールの目は暗く底光りしていて、なんだかまるで知らない人に見える。


(逃げる途中でキンネルに来たの?)


 最初に声をかけられたときのことが思い浮かんだ。ヘンドリー・アーベルの娘が女子修道院にいることを確認するため、とトールは言っていたはずだ。


 トールはエリに父の何かを伝えに来て、直前で気が変わった。エリを実際にその目で見て、言おうとしていたことを隠した。そんなふうにエリは感じていた。


(でも、逃げてるって、どういうこと)


 もしかしたら、思っていたのとは全然ちがう事情なのかもしれない。


「それは、父と関係があるんですか」

「かもな」


 屈めていた背を伸ばして、トールがエリに向き直った。唇だけで笑う。


「おまえにとって、いい話じゃない。たぶん最低最悪だ。それでも知りたきゃ教えてやる。どうする? ずっと知りたかったんだろ」


 薄笑いを浮かべるトールの背後で、雪が降っている。音もなく次から次へと落ちていく。部屋の中は薄暗く、吐く息は白い。


 それでもエリは、寒さなど気にならなかった。やっとこの時が来た。トールが知っている父のことを、トール自身の過去のことを、ようやく教えてもらえる。


 最低最悪の話、ということは、きっとトールにとっても楽しくない話なのだ。だからこんな目をしているのだろう。


 今を逃せば、またトールは口をつぐんでしまう気がする。それは嫌だ、と思った。


「教えてください」


 トールはわずかに視線をそらした。迷っているのか、何から話そうかと考えているのか、そのまましばらく黙りこんでいた。エリは待った。


 やがて、意を決したように目を合わせてきた。


「ヘンドリー・アーベルは、俺の義理の父親だ」


 え、とエリの喉がふるえる。


「あいつと初めて会ったのは二年前だ。ぼんやりしてるところもあったけど、親切でつきあいやすいやつだったよ。俺の母さんと結婚して半年ぐらいまではね」


 足元から力が抜けていくような感じがした。


 父が、トールのお父さんになっていた。新しい家族を得ていた。それがどういうことを意味するのか、一瞬で理解した。


(やっぱり、迎えに来る気なんてなかったんだ)


 捨てられていた。そういうことだった。


 同時に混乱した。血はつながっていなくても、トールはお兄さんだった。偽りの兄と妹じゃなかった。それならどうしてトールは父のことを頑なに隠していたのだろう。


「あいつはね、酒に溺れたんだ」


 吐き捨てるような声でトールが続ける。入り乱れた感情をうまく処理しきれないまま、エリはトールの言葉を聞いた。


「うち、雑貨店やってたんだけどさ、その売上金を使いこんで一日じゅう酒浸り。酔うと人が変わるんだ。大声で怒鳴って暴力をふるう。夏、二ヶ月前かな、母さんが頭から血を流して倒れた。あいつのせいで」


 トールがベッドの横に足を踏み入れた。ソファとの隙間をゆっくり歩いてくる。その姿が不気味な影のように見えて、エリは後退った。


「暴力って、父がそんな……?」


 父は、どんな人だっただろう。


 酒瓶をあおる姿を思い浮かべてみた。記憶と結びつかない。ましてや暴力なんて、そんな酔い方は知らない。


「おまえがどう思おうと俺は事実を話してる」


 トールの口調は静かだ。それがかえって怖かった。


「母さんの血を見て俺は腹が立った。あいつが憎かった。だから言った。死んでよって」


 トールが一歩近づくたびに後退ったエリは、玄関横の壁際まで追いつめられた。これ以上は後ろにさがれず、立ち止まってトールを見上げる。


 いきなり胸元を押された。壁に背中がぶつかって、瞬間、息が止まる。トールはもう片方の手で拳を握った。耳元で怖い音がした。


 息が届きそうなほど近くにトールの顔がある。だから暗がりでもよく見えた。血走った目も、乾いた唇も、痩せた頬に小さなほくろがあるのも、よく見えた。皮膚の下を走る青白い炎まで見えるような気がした。


「俺のせいであいつは死んだ。俺が殺した。ヘンドリーを、おまえの父親を」


 トールの目は濡れていた。けれど涙がこぼれたりはしなかった。怒っているのか、憎んでいるのか、あるいは悲しんでいるのか、トールの心だけが見えなかった。


(くるしい)


 トールの手のひらが、強い力で胸元を圧迫しつづけている。ケープの上からでもこんなに苦しいのだから、かなりの力をこめているのだ。


 どうしてこんなことを、と思った矢先、答えが思い浮かんだ。


(心臓)


 押さえられているのは、胸元じゃない。心臓だ。命をつかまれているんだ。


 頭の中が真っ白になった。呼吸が浅くなる。エリはトールから目をそらすこともできず、次に来る言葉を待った。


「あいつを信じてるって? そう言ってたよな」


 トールがせせら笑う。


「ばかばかしい。あいつは最低な父親で、最悪な人間だったよ。そんなやつを信じて待ってたとか、ばかばかしいって思うだろ? なあ、どんな気分? それでもまだあいつに会いたい? 最低最悪なあいつと、あいつを殺して逃げてる俺と、どっちが悪いって思う?」


 答えられなかった。唇がふるえて、何を言ったらいいのかわからなかった。


「言えよ」


 トールが焦れたように力をこめる。胸の真ん中がさらに圧迫されて、なおさら頭の中は白くなった。浅い呼吸の底から、何か言わなきゃ、という思いだけで声を絞り出した。


「……神様は、すべてをおゆるしに、なります」


 トールがしらけた顔つきになった。

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