14「どうしてわたしに会いに来たんですか?」
「じゃ、おまえは?」
息苦しさに耐えかねて、トールの手首を両手でつかんだ。トールは気にした様子もなく、エリの目を覗きこんでくる。
「おまえの気持ちを聞いてるんだよ。怒ってる? 泣きたい? それとも恥じてる。こんなやつについて来て、ばかだったなって? 警察に知らせなきゃって思ってる。ああ世間知らずは警察まで考えない? じゃあ、こうだ」
トールがさらに顔を寄せて、エリの耳元でささやいた。
「わたしも殺されるかも、逃げなきゃ」
反動をつけてトールが離れた。一瞬だけさらに強まった胸の圧迫に、エリは動けなくなる。つかんでいたトールの手がするりと抜けた。
からっぽになった両手を胸元に当てて、エリは呆然とトールを見上げた。
「復讐でもする?」
冷たい声が降ってきた。トールはもう笑っていない。どこまでも真顔だ。冷たい、真顔だ。
「どれでもいい。好きにしろ」
投げやりな響きを残してトールが玄関に向かう。雪の匂いがエリの鼻先をかすめた。ドアの閉まる音が、尖った針のように刺してきた。
ずり落ちるようにしゃがみこんだ。上からぽろぽろと何かが落ちてくる。見上げると、壁がへこんでいた。トールの拳がつけた穴だ。破片が落ちてきていた。
目をつぶった。耳鳴りがする。トールの暗い眼差しと声がよみがえって、今もすぐそばで責められている気分だった。
キンネルとロッベンはどれくらい離れているのだろう。
女子修道院で別れたあと、父はどこでどうやって過ごし、ロッベンに辿り着いたのだろう。
トールはロッベンからどうやって、どんな気持ちで女子修道院を訪ねてきたのだろう。
胸に押しつけられた手の圧迫感が消えない。エリは膝を抱えた。父のこと、トールのこと、自分のことを考えた。
さまざまな出来事が頭をかすめ、からまった感情が心を重くしていく。不意に寒けがして、身震いをした。
顔を上げると真っ暗だった。どれくらい経ったのだろう。もう夜になってしまったのだろうか。
何度か瞬きを繰り返すと、ベッドとソファの輪郭が見えてきた。足先は冷えきっていて、床に座りこんだお尻が痛い。
こわばった体をゆっくり伸ばして、立ち上がった。
カーテンのない窓からは、嘲笑のような冷気がただよっている。ガラスの曇りを手でぬぐった。隣の部屋から漏れる明かりに照らされて、雪が不穏な速さで降っているのがわかる。
「トール?」
窓についた手の跡から、涙のように滴が垂れた。
「どこ行ったの?」
返事などあるわけはなく、自分の声も闇に吸いこまれる。エリは途方に暮れた。
しばらく立ち尽くしたあと、とりあえず暖炉に火を入れた。
今にトールが帰ってくるかもしれない。帰ってきたら暖炉に当たるはず――そう思うのだけれど、いつ帰ってくるのだろうか。本当に帰ってくるのだろうか。
鐘が、午後七時を告げた。
あいかわらず食欲はない。パンとミルクだけの夕食を終えると、ベッドにもぐりこんだ。玄関の鍵はかけなかった。
闇の中で暖炉が燃えている。くべた薪は少ないから、きっとすぐに消えてしまう。トールが帰ってきてから薪を足そうと思っているのに、まだ帰ってこない。
とりとめのない夢を見た。
女子修道院で、聖歌を歌っていた。どうしてだか声が出なくて、ごめんなさいと謝った。院長が背中をさすってくれた。出て行きたいのですか、と優しい声が問うから、はい、と答えた。
次の瞬間、見知らぬ町に立っていた。通りすがりの誰かが言った。あっちに待ってる人がいるよ。
誰のことだろうと思った。お父さん? お母さん? それとも、トール?
確かめに行こうと思った。それなのに足が動かない。石みたいに重くて持ち上がらないのだ。
――早く行かないと、置いていかれちゃうよ。
誰かの声が聞こえた。どうして足が動かないのだろうと下を見たら、幼い女の子が泣きじゃくってしがみついていた。
どいて。
そう言いかけて、やめた。泣いている女の子は、エリ自身だった。
そこで目がさめた。
暗闇の中にいた。ここはどこだろうと一瞬わからなくなって、目だけを動かす。窓がぼんやりと白く光っていた。
ああ外は雪だ、と思って、眠る前のことを思い出した。
吐息がこぼれる。夢の余韻が体のすみずみに残っていた。
ずっと思っていたことがある。
女子修道院で祈りを捧げるより、馬車に乗って父の行方を捜しに行きたい。噂でしか知らない鉄道に乗って、首都チャニアまで行ってみたい。
女子修道院の鐘楼から見える町の果てに行くのが、エリのひそかな夢だった。実際に女子修道院を飛び出して辿り着いたのが、この部屋だ。
暗闇の中で、ソファやテーブルの影がうっすら見えた。それらの輪郭を眺めながら耳を澄ましてみる。息を吸う音すら何かに吸いこまれていくようで、何の音もしない。
頭をもたげた。
赤い光を発する点のようなものがいくつか見える。何だろうと思って、すぐに思い当たった。
体の力を抜いた。枕に頭が沈むと熾火が見えなくなる。遮ったのはソファだ。無言の影をしばらく眺めたあと、ゆっくりとベッドから下りた。
ソファの背もたれをつかみ、まわりこんで座席に手を伸ばす。ひんやりとした布地の感触を確かめた。
毛羽立っているのは元からで、特に変化は感じられない。誰かが座った様子も、横たわった形跡もない。
ぼすっ、という鈍い音が遠くから聞こえた。
聞き覚えのある音だった。屋根から雪が落ちた音だ。窓の明るさから察するに、かなり積もっているのだろう。
ベッドに戻った。冷えた手足を温め直そうと体をまるめる。自分が残したぬくもりに包まれたとたん、寒い、と思った。
この毛布も、シーツも、マットレスも、枕も、すべてトールが選んだものだ。いったいどういう気持ちで買ってくれたのだろう。
考え事をしているうちに、鐘の音が聞こえてきた。
ひとつ、ふたつ、と音を数える。今は午前五時だとわかった。あと一時間でいつもの起床時間になる。きょうはお休みの日ではないから、トールが出かける時間も迫っていた。
鐘が鳴り終わる。いっそう静けさが増す。
トールはどこで何をしているんだろう。もう帰ってこないのだろうか。夜が明けても帰ってこなかったら捜しに行こう。道行く人を捕まえて、片っ端から聞いて歩こう。
そんな考えを頭の中で繰り返していたとき、また雪の落ちる音がした。
音がいちばん響くのはアパートの両端の部屋だ、と思い出したようにエリは気づく。三角屋根だから、玄関前と裏庭側には滑り落ちてこない。真ん中の部屋であるここまで音が届くなんて、やっぱりたくさん積もっているのだ。
音の余韻はすぐに消える。それでもまた音が聞こえないかと耳を澄ましていたら、雪ではなく、足音が聞こえた。
(誰か、いる)
足音は玄関の前で立ち止まった。服をはたいているような音がして、靴を踏み鳴らす音も聞こえてくる。きっと雪を落としているのだろう。
エリは体を起こした。じっと息を詰めて玄関を見守る。物音はいったんやみ、ひと呼吸おいてから、ドアが軋んだ音を立てた。
外の雪を背景に、見慣れた背格好の人影が部屋に入ってくる。
エリは毛布をはねのけてベッドから降りた。雪明かりでほのかに明るいテーブルからマッチを取り、燭台に火をともして闇にかざす。
すでに玄関のドアは閉じていて、ブーツを脱ごうとしている人影が照らされた。
駆け寄ろうとしたけれど、足が動かなかった。無言の背中が少し怖くて、近寄りがたい。迷ったあげくエリは暖炉に向かった。熾から火をおこし、新たに薪を燃やしていく。
床が鳴った。エリは振り向かなかった。ソファに体が沈む気配を、背中で感じ取った。
炎が力強くうねって闇を遠ざける。熱が顔に当たり、まぶしさで目がくらむ。息をひとつ吸って、振り返った。
まるで視線が合うのを避けるように、トールは天井を見上げて深い息を吐いた。帽子にも肩にもまだ残る雪の粒が、炎に照らされてちらちらと光っている。
エリは燭台をテーブルに戻して火を吹き消した。蝋燭代を節約するため、暖炉が明るいうちは蝋燭をなるべく使わないという約束だからだ。
少しためらってから、トールの右側に座った。腕が触れないように距離を開ける。それでもトールから外の匂いがただよってきた。雪と、さらに別の匂いもする。
「お酒、飲んでたんですか」
「……
仰のいた横顔がわずかに傾いて、血走った目をエリに向けた。唇の端をゆがめてトールが
「盗んだって思ったろ」
エリは答えずに目をそらした。予想外の言葉で決めつけられて、どう答えたらいいのかわからなくなってしまった。
盗んだなんて、まったく思い浮かばなかった。誰か親切な人におごってもらったのかなと真っ先に考えたのだ。それなのにどうしてトールはこんなことを言うのだろう。
もしかして、盗んだのだろうか。それとも、今じゃなくても、これまでに盗んだことがあったのだろうか。そういう後ろめたい何かがあるから、こんなことを言ってきたのだろうか。
返答に困って視線をめぐらせた。
トールの手が膝の上に無造作に投げ出されている。指先が上を向いて、見えない石でも持つような形をしていた。
冷たそうだ、と思った。この寒さのなか歩いてきて、素手で雪をはらったあとなのだから。感覚なんて消えているはずだと思った。
「で?」
問う声に呼ばれて顔を上げたら、荒んだ眼差しとぶつかった。
「裁きを受けろって? それとも別れを言うために待ってた? 逃げたいけど帰り道がわからなくて困ってる、なんていう情けない理由なら、馬車代ぐらい出してやってもいいよ」
ばかにしたように鼻で笑う。それでも目がそらされることはなかった。見つめ合いながら、トールは返事を待っているようだ。
「どれも違います」
エリはきっぱりと答えた。
「教えてほしいことがあるんです。それを聞かないと、考えがまとまらないんです」
トールの笑顔から少しずつ力が抜けていく。唇はまだ嗤っていたけれど、エリを見つめる目が真剣な色を帯びた。
「父を
目の前の顔から、完全に笑みが消えた。琥珀色の瞳に火影が踊る。迷うような、ためらうような光が浮かんでいる。
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