09 ゲオルクの嗅覚

 キンネルには、ハリンから馬車を乗り継いで五日もかかった。


 およそ半月分の給料が飛んだことになる。カールに捜査費用として申告すれば返してくれるらしいが、さて、帰りの馬車賃が足りるだろうか。


 財布を覗きこんで眉をひそめたあと、まあなんとかなるさと顔を上げた。


 静かだった。


 楡の並木に見守られるように灰色の壁が続いている。中の様子はわからない。鐘楼だけは壁越しに見えたが、それも今はひっそりと息を殺しているように感じられた。


 修道院は数あれど、女子のための修道院はこの国では三つしかない。そのうちのひとつが、ここキンネル女子修道院だった。


 ゲオルクがこれまで女子修道院に足を踏み入れたことは、もちろんない。


 修道院で過ごした経験のある知り合いもいないから、いったいどんな場所なのか、ぼんやりとした想像しかできない。いくらか緊張してしまうのは仕方がなかった。


 来訪を大声で告げると、門番らしき老人が小屋から出てきた。ひとりの修道女が一緒に現れて、門を内側から開けてくれた。


「こんにちは。ハリン警察署のゲオルク・ランゲです。本日はご協力いただき、ありがとうございます」

「うかがっています。こちらへ」


 ゲオルクはにこやかに挨拶をしたが、修道女はにこりともしなかった。視線を合わせるのを避けるように、うつむきがちで足早に歩いていく。


 愛想笑いのひとつでもくれないかねえ、と内心で苦笑し、彼女の案内に従った。


 いくら警察とはいえ、男の訪問はやはり異例なのかもしれない。どうして受け入れてもらえたのか、いまひとつわからなかった。


 なにしろ事前にやりとりをしてくれたのはキンネルの警察で、ゲオルクは「訪問して良し」としか言われていないのだ。


「はじめまして、ゲオルクさん。院長のシーラと申します」


 院長室にいたのはシーラ院長ひとりだった。何か書き物をしていたようだが、わざわざ立ち上がって柔和な笑顔を向けてくれる。垂れ気味の目尻にどことなく哀愁が刻まれていた。


「ご用件はうかがっています。エリに伝えたいことがあるとか」

「はい。エリ・アーベルさんがこちらにいらっしゃると聞いて。会わせていただけるでしょうか」


 シーラ院長は目を伏せ、残念そうに吐息をついた。暖炉はあるのだが、火が入っていないから部屋の中は寒く、吐く息もうっすらと白い。


「いいえ」

「というと?」

「もういないんですよ」

「どういうことです?」

「出て行ったんです」

「いつ?」

「先月の末……急なことでした」


 シーラ院長はゆっくりとした動作で椅子に腰かけた。硬そうな木の椅子だ。


 狭い院長室にはほかに椅子が見当たらない。ここまで案内してくれた修道女は、部屋の隅で彫像のように立ち尽くしている。ゲオルクも立ったまま質問を続けた。


「なぜ出て行ったんですか?」

「迎えが来たのでしょう」

「迎え?」

「父親か、父親に連なる人物か」

「父親?」


 ゲオルクはわずかに身を乗り出した。


 ここに来ようと思った自分を褒めたくなった。きっと警察の訪問を受け入れてくれたのは、事がエリに関する話だったからに違いない。情報が欲しいのだ、お互いに。


「エリ・アーベルさんの父親は、ヘンドリー・アーベル、で間違いないですよね?」

「ええ、そのように聞いていますよ。エリの口から」

「ヘンドリー・アーベルさんは、亡くなられたんです。私はそれをエリさんに伝えるために来たんです」


 半分は本当だったが、もう半分は隠した。本当に知りたいのは、シーラ院長が口にした「父親に連なる人物」についてだ。いったい誰のことを言っているのか。


 シーラ院長は目を見開き、すぐに眉根を寄せて瞼を下ろした。


 窓からさしこむ陽の光が白いベールと黒い修道服を照らす。小声で唇を動かすシーラ院長の周囲から厳かな空気がただよい、部屋を包みこんだ。


 祈りの邪魔をしてはなるまい、とゲオルクは黙って見つめた。


 ロルフ・クヌッセンはどこへ行ったのだろう。


 ロッベンに近い町や村で足取りを追ってみたが、手がかりはつかめなかった。そこでいったんロルフの捜索を中断して、ヘンドリー・アーベルという人物について詳しく調べた。


 彼がどこから来て、どうやってカレンと出会い、どんなふうにロルフと関わっていたのかを知りたかった。


 それがわかれば、ロルフの思考をたどりやすくなるかもしれない。どんなに細くてもいいから、ロルフにつながる糸を見つけたかった。


 ヘンドリーの娘がキンネルにいるらしいと知ったとき、あの墓地で嗅いだ土の匂いが、なぜかよみがえった。


 ロルフはヘンドリーの娘に会いに行ったかもしれない。


 根拠はないが、可能性はある。爪の先ほどの小さな可能性かもしれないが、これといって手がかりがないのだから確認してみようと思った。可能性をひとつずつ潰していくのも人捜しの基本だ。


 それにもし、エリ・アーベルが今も女子修道院にいるなら、実の父親が亡くなったことを知らせることができる。無駄足にはならない。だからここに来たのだ。


 エリはいなかった。だが、エリを連れ去った人物がいるらしい。もしかしてそれは、ロルフではないのか。


「ここではね」


 シーラ院長が視線を落としたまま話しはじめた。


「作ったお菓子を売ったり、繕い物をしたりして、ささやかだけれどお金を得ています。でもそれはみんなのお金。個人のお金というものは持ちません。――あの子、何も持たずに出て行ってしまって……言ってくれれば少しは用立てたのに。どうしているのでしょうね……」

「誰がエリさんを連れて行ったか、心当たりはありませんか」

「父親ですよ」


 シーラ院長は穏やかな微笑を浮かべてゲオルクを見上げた。思わぬ返答にゲオルクは面食らう。


「冗談はやめてください」

「いいえ。やはり父親です。それ以外にあの子がここを離れる理由がない」

「というと?」

「エリはずっと父親を待ちつづけていました」


 穏やかだが、どことなく厳しさも感じさせる笑みがシーラ院長の目元にただよった。その笑みがふっとかき消えて、悲しげな表情になる。院長の視線はゲオルクからはずれた。


「門の前で初めてエリに会ったとき、エリは六歳の子供でした。雪が降っていて、とても寒かった。それなのに夏服のままの子供がうずくまっているから、どうしたのと尋ねました。お父さんを待っているのと、歯をガチガチ鳴らしながらあの子は答えました」


 宙に視線を投げたまま院長は語る。当時の光景を思い出しているのだろう。降りしきる雪と、うずくまってふるえていた女の子を。


「ここは寒いから、中にお入りと促したら、嫌だと言うんです。ここで待つと約束したから、ここにいないとお父さんに見つけてもらえないって。とても頑固でしょう? いじらしいと思いましたよ」


 ひとつ息を吐いて、「だって」と院長は続けた。


「だって、こんな雪の日に子供をひとりで待たせる親がありますか。あの子は膝を抱えていて、頭にも肩にも背中にも、雪が積もっていたんですよ。この子の父親は戻らない。そう思いました」


 ゲオルクが聞いていた話とは、微妙に違った。


 ヘンドリーは娘を女子修道院にあずけたとカレンに言っていたらしい。きちんと手続きを踏んで、女子修道院に入れてもらったと。


(実際は、置き去りにしていたのか)


 ゲオルクには妻も子もない。子供を捨てる親の気持ちも、捨てられた子供の気持ちも、あくまで想像することしかできない。


 ヘンドリー・アーベルは南東部の出身らしい。


 冬が長く山がちなこの国では、農業といえば牛や羊の放牧なのだが、南東部では大麦や小麦などの栽培もしている。ヘンドリーはそうした農家の、小作人の家に生まれた。


 自分の耕地を買うほどのお金はないから、ほかの農家から借りて耕す。できた作物を売って得た金銭の大半は、耕地を継続して借りる代金として出ていく。


 そういう暮らしの家に生まれたヘンドリーは、十代後半で都会を目指した。


 海のむこうの島国から伝わった新しい技術、人の手ではなく機械によって物を作るという革新的な技術によって、これまでとは仕事の在り方が変わった。


 ほんの十年ぐらい前から、次から次へと都市に工場が建設され、今も変わらず働く人間を募集しているのだ。


 そうした時勢だから、田舎で貧しい暮らしをしているより都会で稼ごうと思うのは、不思議でも何でもない。


 問題は、ヘンドリーと同じように田舎から出てきた求職者が都会にあふれたということだ。


 そのうえ、工場の仕事は低賃金かつ過酷だった。貧しいまま体を壊すという者たちが続出したそうだ。


 工場の仕事がつらいからとすぐにやめる者も多いが、やめたところで仕事が見つかるわけではない。結局は別の工場に雇ってもらったり、あるいは職が見つからないまま住居を失ったりする。


 今でも都会では、凍りつく冬の路上に痩せた体が横たわっている光景もめずらしくないと聞く。彼らは教会でひっそりと葬られるという。


 こういう寒けのするような話は、田舎ではひろまりにくい。


 成功して大金をつかんだ者がいる、という噂のほうが強いのだ。身ひとつでお金を稼げるという期待が、先の知れきった日々に鬱屈とする若者たちを旅立たせる。


 ハリンは地区でいちばん大きい町だが、都会から見れば、工場などない田舎町ということになる。そこで暮らすゲオルクが都会の様子を知っているのは、職業柄、さまざまな情報を手に入れやすいからだ。


 大半の田舎者と同じく、ヘンドリーも都会の実情は知らなかったのだろう。現実に直面して、立ち往生した。地道に働いていたようだが、貧しさからはなかなか抜け出せなかったようだ。


 そのときの苦労をヘンドリーはカレンに語っている。エリの母親と暮らしていたときはそれなりにまともな生活だったらしいが、結局ヘンドリーは子供を抱えて路頭に迷った。


 そして彼は独りを選んだ。愛娘を女子修道院の前に置き去りにした。


「だから約束をしました」


 冬枯れの木立を吹き抜ける風のような、清冽な声がゲオルクの思考を引き戻した。


「お父さんが迎えに来るまで、この建物の中で待つといい。迎えが来たら、いつでも好きなときに出て行っていいと。彼女はそのとおりにしたのですよ」

「院長は、エリさんを連れて行った人物にお会いしましたか」

「いいえ。顔も名前も知りません。エリが突然お別れを言いに来て、それっきり」

「どうして引き止めなかったんです? 十三歳の女の子でしょう。まだ子供だ。心配じゃないんですか」

「あら。わたしが親元を離れてお針子になったのは、今のエリと同じくらいの年頃でしたよ」


 ゲオルクは返答に困った。シーラ院長が修道女になる前の話だろう。彼女の出身地がどこかは知らないが、場所が変われば十代の女の子の境遇もいろいろ違うのかもしれない。


 反論できないゲオルクを見て、シーラ院長はいたずらっぽく微笑んだ。そしてまた静かに話しはじめる。


「確かに、エリは軽率かもしれません。けれどもういとけない子供ではありませんよ。善悪の判断はできますし、身の回りのことも自分でできます。思い込みは強い子かもしれませんが、そのぶん物事を深く考えることができますし、あれでなかなか、冷静なところもありました。それに、そういう約束ですから」

「でも、だからって――」

「刑事さん」


 柔和な物腰を崩すことなく、シーラ院長はゲオルクを見据えた。たしなめられた気配に、ゲオルクの背筋が思わず伸びる。


「わたしたち修道女はね、受け入れるところから始まるのです。神の教えを受け入れ、自己の在り方を受け入れる。けれどエリはそれを拒みつづけました。門前の掃き掃除を進んでやりはじめたのも、なるべく外に出て、父親に見つけてもらうため。エリが捧げる祈りは、今の自分を受け入れたくないという頑なさから来るものでした」


 ゲオルクは、まだ見ぬ少女の姿を想像した。見習い修道女の服を着て、この場所で育った女の子の、懸命に祈る姿を。


 胸に宿るのは怒りだったか、悲しみだったか。いずれにしろ、寂しかったに違いない。涙をこぼした夜もあっただろう。


「神の教えがエリを救った一面は、確かにあるでしょう。でもエリは、父親に捨てられた現実を受け入れて苦しみを手放すより、迎えが遅くなっているだけだと言い張って、父親を待ちつづけることをいつでも選んだ。信じることは美徳ですが、これでは修道女になれません」


 苦笑して、シーラ院長は力なく首を横に振った。


「だからエリが外出着を作りたいと言ってきたとき、特別に許可したのです。エリにはまだ伝えていませんでしたが、遅かれ早かれ、ここを出て行ってもらうつもりでした。その機会を自分で選んだのだから、引き止めませんよ。それに――」


 厳しくも優しい眼差しがゲオルクを見つめる。シーラ院長の顔には、染み入るような微笑が浮かんでいた。


「刑事さんが今、立っているその場所で、エリはお別れの挨拶をしてくれました。そのときのエリの顔は、今まで見たことがないくらい、とてもうれしそうでしたよ」

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