10「ベッドがいいです!」

 どんなに遅く眠っても、エリはだいたい決まった時間に目をさましている。


 祈りの時間を知らせるために教会が朝の鐘を鳴らす。それより先に起きるのが女子修道院での習慣だった。今も身体にしみついて抜けない。


 きょうは、ことさら早く目がさめた。頬をぴしゃりと叩くような寒さに起こされたのだ。


 暖炉はとうに沈黙し、あかあかとした炭が暗がりに浮かびあがっている。きのうまでとくらべて格段に寒い。ということは、外はもっと寒いはずだ。


 毛布の中で縮こまった。体勢を変えると、自分の体温で温かくなっているところとそうでないところがよくわかる。冷たさから逃れたくて、結局もとの体勢に戻った。


 そのまま二度寝してしまったらしい。聞こえてきた鐘の音で飛び起きた。


 毛布から抜け出した手足にたちまち冷気がからみついてくる。冷たい床を軋ませて窓辺に近づいた。午前六時。まだ日は昇らない。


 指を組んで暗い天に祈りを捧げた。鐘が鳴り止んでも、しばらく動かなかった。


 七年ものあいだ育ててくれた場所はすでに遠い。神様の教えを守り、祈りと労働の日々を送っていたのが、もう遠い過去の出来事に思える。


 神様に背を向けるように飛び出してきても、いまだ罰はなく、こうして住む家がある。そばにいてくれる人がいる。


 それこそ神様のはからいですよ、というマザーの声が聞こえた気がした。もしも感謝を忘れたなら、救いのない道に迷いこむでしょう、と。


 指先がみる。祈り終えて解いた両手をすぐにこすりあわせ、息を吹きかけた。


 朝のお祈りをすると、さあ一日の始まりだ、と気持ちが切り替わる。だから女子修道院を離れても、この習慣だけはやめようという気になれなかった。


 振り向いて闇に目を凝らした。ふくらんだ毛布の輪郭が足元に見える。どこにも頭らしき影は見えないから、たぶん毛布をすっぽりかぶっているのだろう。


 きょうは仕事が休みだ。遅くに帰ってきて疲れているトールを起こしたくない。床が鳴るのはどうしても防げないけれど、どうか起きないで、と願いながら爪先立ちで台所に向かった。


 暗くてよく見えないから、勘を頼りに桶を持つ。玄関から外に出たエリは、たまらず身震いをした。


「寒い…」


 息を吸えば喉も冷えた。部屋の中とはくらべものにならない寒さだったけれど、そのぶん空気は澄んでいて気持ちがいい。おかげですっかり目がさめた。


 アパートの真ん中の部屋だから、右から行くにしろ左から行くにしろ、ほかの部屋より裏庭までの距離は遠い。洗濯物を裏庭で干すときも大変なのだ。


 端の部屋はいいなあと思うけれど、思うだけで口には出さなかった。


 うっすら見える井戸に近づいた。細長いハンドルを握ると、氷のような冷たさが両手に伝わってくる。


 気にせず力をこめて上下に動かした。ジャバジャバと吐き出された水が、地面に置いた桶に入っていく。


 重くなった桶を両手で持ち上げた。こぼさないように気をつけながら、来た道を戻る。空がさっきよりも薄明るくなっていた。


 玄関を開けた瞬間、凍えるような風が足元をすり抜けて、部屋の中に入ってしまった。床の毛布がもぞもぞと動いた気がする。


 起こしてしまったのかと思ったけれど、トールは静かだった。


 桶の水を甕に移し終わったとき、居間で衣擦れの音がした。開けっ放しのドアのむこうを覗いてみれば、半身を起こした人影が見える。やっぱりさっきの風で目をさましてしまったのだろう。


「おはようございます」

「……ああ」


 答える声はかすれていた。


 床が軋む。寝癖のついた髪もそのままに、ぼんやりした足取りでトールが台所へやってきた。エリの背後に立って、調理台から油の入った小瓶を手に取る。


 エリは甕から器に水を移した。火をともした燭台をそばに置き、乾いた布を調理台に用意する。トールが顔を洗うからだ。


 トールは顔に油を塗っている。ゆうべは工場から帰るとすぐに眠ってしまったから、顔も手も煤で汚れたままだ。


 こうやって油でなじませてからでないと、煤はきれいに落ちない。最初のころはそれがわからなくて、トールはいつも黒い顔をしていた。


 トールが顔を洗っているあいだ、エリはパンとチーズを居間のテーブルに並べた。


 チーズは茶色くて伸びがよく、これをパンに塗って食べる。女子修道院でもそうだったし、旅のあいだの宿でもこういう朝食が多かった。


 清貧をかかげる女子修道院の食事はともかく、外での朝ごはんがパンとチーズだけというのは節約のためなのかと最初は思った。


 そうではなくて、ごく普通の朝ごはんなのだとトールが教えてくれた。朝にサラダやスープが出るのはむしろ豪華なのだという。


 その豪華な朝食を、エリはトールにだけ用意する。いそいそと暖炉に近づいた。


 この寒さだから、暖炉横に積んである薪をくべたいところだ。けれど薪が足りなくならないように、暖炉を使うのは夕方からと決めている。


 提案したのはトールだったけれど、エリも反対しなかった。女子修道院でも同じだったからだ。

 

 暖炉の中から鍋を取り出した。素手で持てるほど温度が下がっているものの、中身はまだ温かいはずだ。


 ゆうべ作ったスープの残りが入っている。エリはきのうのうちに食べたから、これはトールのぶんだということにして、いつも朝食に出しているのだ。器にそそぐと、かすかに湯気が立った。


 台所のほうに目を向けたエリは、すぐに顔をそらした。服を脱いだ背中が見えたからだ。体も拭くらしい。そんなところをまじまじと見るのはいけないことだ。


 暖炉の前にしゃがんだ。赤い炭に灰をかぶせる。この炭はおきだから、次に火をつけるために取っておく。


 かき出した残りの灰は外に捨てに行った。あいかわらず樅の木の根元に捨てているけれど、まだ誰にも苦情を言われていない。


 戻ってきたときには、トールはもう席に着いていた。服も着替えている。


 トールの正面にエリも座った。短く祈りを捧げてから、静かに食べはじめる。トールも黙ってスープに口をつけた。


 窓の外は裏庭の様子が見えるほど明るいけれど、部屋の中はまだ薄暗い。だから燭台の火は消さなかった。


「ベッドを買いに行こう」


 唐突に言われて、すぐに返事ができなかった。


「ベッド、ですか?」

「食べ終わったら、買いに行こう」

「あ……はい、でも」


 トールの目は真剣だ。冗談で言っているのではないらしい。


 正直なところ、床で眠るのはつらかった。だからありがたいのだけれど、それで大丈夫なんだろうか。今までベッドを買わなかったのは、高い買い物だからなんじゃないだろうか。


「お金は……?」

「仕方ないだろ」


 トールはパンに茶色いチーズを塗りたくって、ぶっきらぼうな声を出した。


「これから雪の季節なのに、さすがに無理だ」

「床よりベッドのほうが暖かいですもんね」

「あんまり喜んでないな。床がいいのか?」

「まさか! ベッドがいいです!」

「床がいいならおまえは床で」

「ベッドがいいです!」


 トールは小さく笑った。やわらかい眼差しだったから、エリも笑って返した。けれどトールはすぐに笑顔を引っこめて、またぶっきらぼうに言う。


「早く食べろ。もう行くぞ」


 最後のひと切れを口に放りこんでトールが席を立った。


 あわててエリもパンを頬張る。チーズのこってりした甘さが口の中にひろがって、胸の奥まで満たしていくようだった。


 トールが脱いだ服を洗濯したい気もするけれど、帰ってからでいいや、とケープを羽織る。


 働きはじめたトールはいつも疲れをにじませていて、笑顔も見せてくれなくなった。それなのに休みの日もどこかにひとりで出かけていくから、エリは部屋で黙々と過ごしてばかりだった。


 だから二人で出かけるのは久しぶりだし、こうして言い合いをするのも久しぶりだ。エリはわくわくしていた。

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