湖の空にて


 孝雄が夕滝の森病院を訪れるのは、ほとんど一年ぶりのことだった。

 出来るだけ面会に行く、すぐにでも迎えに行く、そう言って、嫌がる娘のえりなを半ば無理に入院させたあの日以来、初めて来た。

 その一年前も今も、同じ夏の盛りの昼下がりであるが、どういうわけか森を歩くのが、一年前よりもひどく疲れるように彼は感じた。

 愛娘を精神病院に投げ出しておいて、彼女が死んでからようやく訪れる後ろめたさかと考えた。しかしすぐに、自らが壊してしまった娘を冷たい壁の向こうに閉じ込めた一年前のこの道にも、後ろめたさはあったのを思い出し、そして既にそれを忘れつつある自分に気付き、もう何も考えたくないほど暗澹としてきた。

 病院に着いた彼を迎えたのは、老いた医者と一人の看護婦だった。彼はその医者とはえりなを入院させる時に一度会っているので、多少の気まずさを抱きながら、ささやかに会釈を交わした。医者の隣で、初対面の看護婦が、小さく頭を下げた。

「この度はご愁傷さまでした。私はえりなさんを担当していた、看護婦の笹井です」

 孝雄は、彼女の黒の深い瞳を見て、直感が閃いた。

「はじめまして。えりなの父です。もしかすると、あなたがひなこさんですか」

 彼の問いかけに、看護婦は表情に乏しいことのすぐ分かる平らな顔を、驚いたように少し和らげた。

「はい、笹井日奈子と申しますが……」

「やはりそうでしたか。お話はえりなから伺っておりました」

「はあ、そういえば、えりなさんがお父様にお便りを書いているのを、よく見かけました」

 何気ない、短いやりとりの陰で、日奈子の細い眉が一瞬だけ微かに震えたのを、孝雄は見逃さなかった。えりなの手紙にあった、電気棒での刑罰などは、真実なのだろうと彼は思った。

 しかし、抗議をするような激しい感情は起こらなかった。

 怒りもないではなかったが、それよりも、早く全てを終わらせたかった。


                  〇


 医師と日奈子に連れられて、孝雄は霊安室に入った。

 床と壁の白い、ひどく簡素な空間の中央に、えりながいた。全身に被せられた白い布が、蛍光灯の明かりをいくらか反射していた。

 布の端をつまむと、布が震えているのに、孝雄は気付いた。彼の手が震えているのだった。

 何を今更躊躇っているのかと、胸中で孝雄は強引に自分を嘲笑った。自らの手で娘の運命を壊し、挙句の果てには共に死のうとすらせずに病院に捨てた、そんな人間が死体に向き合うのが怖いなど言う資格はない、孝雄は自らをそう攻撃した。

 彼は静かに深呼吸をしてから、震える手で布を取った。

 さみしさの沁み付いた死顔だった。ぽろぽろと泣き出しそうな表情で、しかし冷たく静止していた。

 かなしみに狂った果てで遂に訪れた死の瞬間に、少女らしい投げやりさで何もかも諦めたような顔だと孝雄は見た。首を吊ったと聞いていたから、惨たらしいものを予想していたが、彼女の死顔には何も激しいものがなかった。

 かなしみの結晶体のような死顔が放つ美しさに彼は驚いた。孝雄の妻であり、えりなの母である女の死顔を彼は思い出して、親子でありながらなんという違いだろうと思った。妻の死顔には、幼い娘を遺して逝く苦悶が痛々しく表れていたものだった。このような清い静謐はなかった。

 紐の痕が仄かに残るえりなの首に、孝雄はそっと掌を添えた。彼はえりなの身体のうちで首を最も愛していた。その細さ、白さ、冷たさが、えりなの胸に巣食う無垢な憂鬱を深く感じさせるのだった。死体となったえりなの首は、生きていた時まじわりの後に触れたのと、まるで違わなかった。同じ静かな冷たさだった。

 孝雄は、かつてよごれたままの手で撫でた首に、長いこと触れていた。


                  〇


 いつの間にか医者はどこかに消え、孝雄は日奈子と二人で、えりなの病室に足を運んだ。彼女の私物を整理して持ち帰るためだった。焼き捨てておいてくれと、孝雄は頼みたい気がしたが、言い出せなかった。看護婦に気兼ねする必要などない、彼女も職業人だ、孝雄はそう自分に言ってみたが、自分が気兼ねしているのはえりなに対してだと気が付いた。遺品を持ち帰るぐらいなら、自分の心も乱されはしないだろうと、いくらか気紛れのように、孝雄は考えた。

 とはいえ、えりなの私物はほとんどなかった。入院の時に持って来た数着の服や生活用品ぐらいだった。手紙も便箋も、看護婦や他の患者にその都度借りていたと、孝雄は日奈子から聞いた。そもそも、孝雄はこの一年でえりなから数十通にも渡る手紙を受け取り、その中には持ってきて欲しいものを頼む手紙もあったが、それでも彼は病院に出向かなかったのだから、私物は少なくて当然だった。

 しかし孝雄はえりなからの手紙の全てを、ほとんど諳んじているほどであった。読めば、二度と会わぬと決めた心が揺れる、そう分かっていて、それでも読まずにはいられなかった。

 彼はベッドの上に腰かけて、窓の向こうに広がる森を眺めた。これが、えりながいつも眺め、たびたび手紙にも書かれていた風景かと思うと、流石に切ないものに駆られた。孝雄は慌てて風景から目を伏せた。

 えりなは森の木で首を吊ったのだと、死体になって発見されたと電話があった時に聞いていた。その木はどれか、ふと聞いてみたいような気がしたが、思い直した。

「えりなは、一日のほとんどをこのベッドで過ごしていたんですか」

 孝雄は自死の木についての質問を飲みこんで、代わりにそんなことを日奈子に聞いた。えりなの院内での生活に少しでも触れたいという思いも彼の中に湧き上がっていた。手紙で読み、幾度も夢想した風景を目の当たりにしたせいで、罪深い自分には分不相応な感傷に引き摺られていると気付きながら、それをどうしようもなかった。

 日奈子は、孝雄に話しかけられたのが意外そうな面持ちで、

「はあ……」

 と曖昧に言ってから、微笑を浮かべた。

「でも、えりなさんはみなさんにとても愛されていましたし、えりなさんも素直に甘えてましたから、病室を出て来て食堂やホールで楽しそうに遊んでることも多かったですよ」

 確かにえりなが手紙に書いていた通り、この女性の微笑みは優雅だと孝雄は感じながら、

「あいつはほとんど私としか触れ合わずに育ってしまいましたから、そんな風にみなさんと交流が出来たのは意外です」

「確かに初めは怯えてましたけど、でも、すごく素直で温かい子でしたから。まるで、みなさんの心に灯りを点してくれるようでした」

 その言い方に意表を突かれて、孝雄は彼女の顔を見つめた。彼女は、今そこにえりながいるように、虚空にやさしい眼差しを据えていた。

「えりなさんが来てから、私たち看護師も含めて誰もが、爽やかな風を胸の中に送ってもらったような思いがしてたんです」

 孝雄は、娘への称賛を、素直に喜べる立場になかった。えりなが自分にとってのみならず、誰しもの天使であるのなら、もし彼女が自分のような者のところにさえ生まれてこなければ、それさえ間違えなければ、幸福な人生を歩んだのではないか。孝雄はそう考えて、えりなではなく自分が死ぬべきだったと、これまで何度となく魂の底で叫んだ言葉を、また胸に浮かべた。

 澱んでくる思考を振り払うように、孝雄は明るい声を出した。

「そういえばちえりさんという方にもご挨拶しておきたいですね。えりなの手紙に、お姉さんのように優しくしてくれる人だと何度も書いていましたから」

「ああ、ちえりさん……」

 日奈子の表情が曇った。

「ちえりさんは、亡くなっておられます」

「亡くなっている?」

 孝雄は意味が分からずそう繰り返して、

「ちえりさんですよ、あの、ペンギンのぬいぐるみを大切にしてらっしゃるという……」

「ええ。そのちえりさんは、半年ほど前に亡くなっておられます」

「半年? でも、えりなの最近の手紙にも」

 孝雄は言いかけて、はっと言葉を失った。日奈子が、気遣うような曖昧な笑みを、彼に浮かべた。

 一年も会わぬうちに、えりなの精神の乱れさえ忘れていた自分に、孝雄は激しい嫌悪を感じた。えりなを壊したのはお前だぞ、と自分に向かって喉が割れるほど叫びたかった。しかし自分がそう出来ぬような怯懦な人間であることを、彼はあまりに知っていた。


                   〇


 何枚かの事務的な紙に名前を書き、判を押し、孝雄は病院を後にした。

 ようやく煩わしい手続きから解放されてみると、どこか呆気なくて、物侘しくなっている自分に彼は気付いた。それは手続きの簡潔さゆえではなく、えりなが死んだからだとも気付いていた。水が土に染み込むようにじんわりと、えりなの死がはっきりしてくるのだった。

 えりなはもう話さない。

 えりなはもう自分の手を握りはしない。

 えりなはもう自分を愛してはくれない。

 そんな当然のことを、孝雄は胸の内で何度も呟いた。

 かなしむ権利はないのだとも、孝雄は何度も自分に言い聞かせた。それでも、今にも倒れてしまいそうに、身体から力が抜けた。

 孝雄は森を見回して、せめて、えりなの歩き慣れたこの森を散策してから、ひとりで家へ帰ろうと思った。

 森は夏の風にささやかにそよぎ、汗の飛沫のような光の粒を、きらきらと散らしていた。

 えりなの自殺は間の抜けたものだった、孝雄は森の爽やかさに誘われてか、そんな風に考えてみた。そう夢見たいだけだ、と瞬時に批判が浮かんだ。

 死んでなお、えりなを美しく彩ろうとする。狂人なのはえりなより自分だろうか、と孝雄は思った。

 乾いた土を彼は力なく歩いていきながら、手紙を返さなかったやるせなさに沈んだ。後悔はなかった。返事を書くことはありえないことだったから、悔いなぞは起こるはずもないが、そうするしかなかったという憂いはどうしようもなかった。

 孝雄の後悔はただ一つ、娘をもってしまったことだった。

 自分が父であれるはずがないとどうして分からなかったのだろうかと、孝雄は自分を責めた。彼が娘に溺れたのは、妻の死の絶望に狂ってだったが、妻が生きていても自分はいつか歪んだだろうと思った。妻であれ娘であれ、人形を愛でるようにしか他人を愛でられなかっただろう。

 そんな風に考えるのは、運命という抽象に罪をなすり付けているだけではないかと、孝雄は訝った。彼は自分の憂鬱を信じられる性質ではなかった。だいたい、病的なかたちではあっても愛した娘を、このような森の奥に投げ捨てたのだ。そのような自分が繊細な抒情など気取ることは出来ないというのが彼の考えだった。

 自分と離れては生きていけないことの明らかなえりなを、彼が冷酷に捨てたのは、愛への恐怖からだった。さみしさに憑かれて、全身を投げ出すように甘えてくるえりなを、孝雄はいつからか果てしなく深く愛しはじめていた。孝雄はよく、愛、という言葉を口に出してみた。なんと幸福で、なんと重苦しい言葉だろう、孝雄の愛への感覚はそれだった。彼は幸福の花を咲かせるためにえりなと寄り添い合うことに耐えられなかった。悲しみや苦しみをも分け合いながらささやかな生活を営むことに、生活というものの温かい重みに、彼は人生に対峙する少年のように怯えて逃げ出した。

 孝雄は罪からも逃れるように、森の深くへ歩みを進めた。

 小さな湖があった。

 彼はほっと息をつき、湖のほとりに腰を下ろした。透明な水で、汗ばむ顔と頭を洗った。いつまでも同じところを回転している思考と、やるせない怒りのようなものを、すっきり洗い流したかった。

 湖は鏡のように澄んで、夏の雲がかかる空を映していた。森の深くに、もう一つの静かな空が眠っているようだった。

 孝雄が濡れた顔と髪を拭いもせず、ぼうっと湖を眺めていると、少し先のほとりに、何かが動いているのを見つけた。

 ささいな好奇心からそっと歩み寄ると、一匹のリスだった。リスは水を舐めていた。

 孝雄の目に涙が浮かんだ。

 これがえりなの手紙にあったリスなのか、彼女の掌をやさしく温めたリスなのか、それは分からない。しかしなぜか、そのように思えて、疑うことも出来ないのだった。

 いや、違う、彼はすぐに自分の本心を見つけた。自分はそう信じたがっているだけなのだ、生きているえりなとは一緒にいられなかったから、せめて彼女が愛でたリスを、やさしく撫でていたいのだ。

 えりなを自分の中からも殺すためには、リスにこれ以上近付くべきではない、そう考えながらも孝雄はまた一歩近付いた。

 そして、息をのんで、その場に静止した。

 そのリスには、尾がなかった。

 何かの獣に襲われでもしたのか、ふさふさとした尾が短く千切れて、惨たらしい形に折れていた。

 えりながこの尾を手紙に書かなかったのは、なぜだったかと、孝雄は思った。

 無論、彼女が出会ったのはこのリスではなかったのかもしれない。

 もしかすると、やさしさで目を瞑ったのかもしれない。

 そもそも彼女の掌にリスが乗ったことなど、現実にはなかったのかもしれない。

 多くの考えが、彼の中に浮かんだ。

 しかしどれも、きっとこうだと信じ得なかった。

 孝雄は自分がえりなの心をほとんど知らないことに気付いた。そして、リスの尾について、えりなに聞くことは、もう出来ないのだった。

 泣く権利はない。

 孝雄はそう思ったが、涙は溢れた。

 彼は押し寄せる悲しみを沈めるように、リスからそっと目を逸らした。

 湖に映る青空が、微かな風に震えていた。


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えりなのおたより 〈少女の清冽な魂を綴る連作〉 しゃくさんしん @tanibayashi

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