虹の淵から


 拝啓、愛しいパパ。

 こちらはようやく梅雨が明けて、朝夕などは、初夏の爽やかな匂いが森から流れてきて気持ちいいです。いかがお過ごしですか。

 今日はパパに謝りたいことがあってお手紙を書いています。

 昨日、私はパパでない人と遊んでしまいました。

 私から誘ったんじゃありません。病室でお昼寝をしていて、身体を揺さぶられて起きて、突然キスされました。拒むひまもなく、おどろくことしかできませんでした。

 パパはいつ私を迎えにきてくれるのですか。

 やっぱりパパ以外の人に遊んでもらったって、さみしさのつのるばかりです。物心ついた時から、いいえそれより前から、ひとに甘えてばかりの私ですけど、すべてをゆるしてくれるパパにとびきり甘えられます。

 私はわがままに育ちすぎなのでしょうか。

 そういえばパパの心をきちんと考えたこともありません。

 いくら娘とはいえ、ママもいなくて一人で育ててくれているパパに、今までよりかかりすぎたのでしょうか。それで私が嫌になっちゃったのですか?

 でもパパの腕で眠る以上のよろこびを私は知らないのです。

 どうか、お願いだから、捨てないでください。私は私のものじゃなくて、パパのものです。パパに捨てられちゃったら、どこまでも落ちていくしかありません。

 落ちていくことよりも、さみしいのは嫌です。

 このごろ私を慰めてくれるのは、夏の森です。

 霧のない季節ですし、沈みがちな日も多いので、たまにしか朝の散歩に出ませんけど、それでもみずみずしい木々の表情は私の心を潤してくれます。

 ある朝、ちえりさんと二人で散歩しました。

 夏の太陽はせっかちで、朝早くの木漏れ日でもはげしいのですけど、それが鮮やかな緑と調和してなんとも生き生きしいです。蝉の鳴きしきるのも、幼い子どもたちの力いっぱいの合唱みたいで、胸の内が明るみます。

 少し歩くと、なんとリスに出会いました。ちえりさんと二人で駆け寄りました。リスはぐったりと腹這いになっていました。

 死んでいるのかとおどろきましたが、きっとただの夏ばてだとちえりさんが笑いました。たしかにその子は、気だるそうに首を動かして、私たちの方をちらと見ました。

 私がこの病院に入ったばかりの時に、病室に遊びにきてくれたあの子だとは、すぐに分かりました。

 まさか今になって再び会えるなんて、私は今思い返すと恥ずかしいくらいはしゃぎながら、木漏れ日にきらきらと輝く毛並みを、さらりと撫でました。

 あの子はそれを鬱陶しがるように身をよじって、森の奥へさあっと走り去ってしまいました。火の玉が飛び跳ねていくような、爽快な駆け方でした。生きものの強さに、私は胸を打たれました。

 でも気がつくと、景色がぼやけてきてしまいました。ちえりさんに、どうして泣くのか聞かれても、私は答えられませんでした。

 そういえば家で泣くといつも、パパが私の涙の理由を教えてくれましたね。パパに言われるといつも、きっとそうだと信じられました。

 一人ぼっちでは、自分のこともなにひとつ分かりません。

 ふとするとママのことを思い出しがちなのもどういうわけでしょう。

 いつも私のなかに蘇るのは、幼い日の記憶です。

 ママがいなくなったのを、パパに知らされた時のことです。ママの生きている姿は、もう私には残っていません。

 家のなかまで冷え冷えとする、真冬の白昼でしたね。私はパパの膝を枕にしながら、パパの温かい手を握って、自分の頬に当てていたのを覚えています。

 花のない庭が寒光に白んでいて、匂いも色もないからっぽのようでした。

 ママにはもう二度と会えないと、唐突にそう言われて、幼い私は、なぜかそれほどおどろいていませんでした。

 あまりかなしくもありませんでした。

 はかないさみしさが、微かな雪煙のように胸に揺らめいただけでした。私は生まれてから今まで、ほんとうのかなしみやくるしみを知らないような気がします。

 私にあるのはさみしさばかりです。

 あの時、私はからっぽの庭を眺めながら、言いました。

 パパといっしょになる

 あれがどういうことだったか、私にも未だに分かりません。

 いっしょになるとはどういうことなのでしょう。

 ママのかわりに、パパの奥さんになる、というのではないでしょう。だって私はずっと、自分をパパの娘だと想って、いつもわがままに甘えてきてしまいましたから。

 パパに添い遂げる、パパに私のすべてを明け渡す、ということだったのでしょうか。

 たしかに、あの後、はじめてキスをされて、そして、すべてをゆるした私は、身体の痛みに涙しながら、甘いやすらぎのなかにありました。

 こんなパパも覚えているはずのことをわざわざ書いてごめんなさい。でも、どうしても、パパにもはっきり思い出してほしくて……。

 私はママを思い出しているようで、パパを想っているみたいです。ママだけでなく、なにを見るにつけてもパパを想います。

 梅雨の末ごろのある日、激しい雨の後に空が生まれ変わったように晴れ渡った朝、私は窓から虹を見ました。森のどこかからのびていて、その行く末は雲に隠れていました。

 雨のせいで朝の散歩に行けなかったところに、ようやく晴れたと思うと虹が出てるのですから、うきうきしてすぐに病院を出ました。

 木々の隙間からのぞく虹を仰ぎながら、私は走りました。

 虹の淵に、虹のはじまりに、触れてみたかったのです。

 でも、走れば走るほど、近づいていくほど、虹は薄らいでいきました。

 ついには消えてしまいました。

 私は涙が流れるのをこらえもせずに、とぼとぼ来た道を引き返しました。

 すると、意地悪みたいに、また虹が鮮やかになってきました。

 どうしていいか分からなくて、私は涙でぐしゃぐしゃになった顔を抑えて、うずくまってしまいました。

 その時ふと、鈴の鳴るような清い音色がどこからか流れてきました。耳を澄ますと、私のいる土の下からでした。

 おどろいて立ち上がると、土のなかから、虹が浮かび上がりました。

 虹は美しい音をたてながらどんどんと伸びていき、はっと驚いているうちに、雲の向こうにまでかかりました。

 私はすぐに涙を拭って、スキップで虹の上を歩きました。

 森より高くまでのぼると、辺りの街が見渡せました。人の家や、ビルや、そういうものを私はほんとうに久しぶりに目にして、懐かしさにひたりました。

 でも、なによりも見たい家は、パパと私の家は、見つけられませんでした。

 虹にのぼっても、パパには会えない。

 そう思った途端、虹はすうっと消えて、私は湿った土の上にぽつんと立っていました。

 身体から魂が抜けるように、私はへたりこんでしまいました。私は、一人ではなにもできません。パパに会うこともできません。パパに迎えにきてもらうのを待つしかできないのです。

 でも、もしかしてそれはもう、叶わない幻なのでしょうか。



                  七月三日 虹の淵から あなたのえりなより

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