雨の光から


 拝啓、愛しいパパ。

 いつもパパの忙しさも考えずに、自分のさみしさを慰めようとお手紙を書いてごめんなさい。でも、お仕事が大変なのは知っていますけど、たまにはパパからもお手紙をもらえないと心細いです。これってわがままですか? でもどうしても、文字だけでもパパに触れたいです。

 去年の夏からですので、ここへきて半年ほどになります。

 クリスマスもお正月もここで一人ぼっちで済ましてしまって、中学三年生になる時もここでたった一人と思うと、パパが恋しくてやりきれません。

 看護婦さんやみなさんもやさしくしてくれますけど、パパがいないのなら、私はいつもどこでも一人ぼっちです。

 自分がすうっと煙になって消えてしまいそうに感じることがあります。

 パパの腕に抱かれて、パパに甘えて、それで私は生きていたのだと知りました。パパから遠く離れればなんでもなくなる、儚い身の上と知りました。

 私はさみしい自由よりも、パパのものとして甘えている方が、はるかに好きです。私は私よりもパパが好きなのですから。

 強く生きるとはなんとさみしいことでしょう。

 そんなせつない生なら、いっそ椿の花の落ちるように、崖からとびおりでもしてしまったほうがよほどましではないでしょうか。

 そうすれば、たとえ手を握り合うことは難しくても、美しい思い出にはなれるかもしれません。これもまたわがままでしょうか。

 よく夢を見ます。

 パパが迎えにきてくれる夢です。私も退院がゆるされて、一緒に何時間も歩いて家まで帰ります。

 途中で疲れて、抱っこして、と甘えると、パパはいつものすべてを受け入れてくれる微笑みを浮かべて、腕を広げます。

 そして私は、まるで幼い頃にもどったように、パパの身体にしがみつくのです。

 世界には誰もいなくなったのか、物音ひとつしません。

 うたたねのように静かな町を、私はパパに抱かれて進んでいきます。

 帰ったらどうする?

 私が聞くと、パパは子どもを寝かしつけるように背中をやさしくさすってくれながら、

 えりなのしたいことをしよう

 したいことは、なんでも?

 うん。心中だっていいよ

 じゃあね

 私は少し考えてから、こう言います。

 そのはじめに、私のしたいことがなにか、教えて

 パパは虚空に響く笑い声をあげます。

 いいよ。教えてやろう。えりなはぐっすり眠りたいんだ

 ほんとう?

 ああ、パパがえりなの気持ちを、知らない時があったか?

 ほんとうだ、なかったね

 私はパパの硬い髪を手で梳きながら、言います。

 でも、一つだけ、わすれてるよ

 わすれてる?

 私のしたいこと。ぐっすり眠りたいだけじゃなくて

 私の言葉を、パパの言葉が遮ります。

 それだけじゃなくて、パパの胸を枕にしたい、だね?

 私はうれしくなって、うなずくこともしません。うなずかなくても、なにもかも通じているのですから……。

 この夢から覚めた朝は、しばらく幸福にひたります。

 おだやかな波に揺られるような心地よさです。

 そして、夢から完全に覚めきって、うつつにもどると、深いため息がこぼれるのです。

 このごろは病院の門にある桜が満開です。

 一本だけなのですけど、それでも十分に、春のほのぼのした温かさを心へ運んでくれます。そちらでも桜が咲いているとうれしいです。

 桜というのはみんな、夜になると死んだ人の肌みたいに見えて怖ろしいですけど、私は時々この桜の幹に夜更けに一人で手を添えます。

 とても不気味なだけにかえって、あの世のママにまで想いを伝えてくれそうに思えます。

 この世にいるパパにもきっとつなげてくれるに違いないと信じています。私は桜の木にパパへの想いも託します。

 折々パパを胸に浮かべてどんな言葉を投げかけているか、ここにはくわしく書きません。

 私の拙い言葉で綴るより、桜の花びらに運ばれる方が美しく聞こえるでしょう。

 それに、もし桜の木にそのような秘密の力がなくても、言わないで気づいてほしいと甘ったれたいのです。

 桜の木に祈るのは私ばかりではありません。ここの桜の木には女の子がいます。

 私は勝手にさくらちゃんと呼んでいます。

 私よりもずっと小さくて、五歳にもならないような子です。

 たまに桜の木の下で偶然会うことがあります。いつも桜の木をじっと見上げて、なにかかなしそうにしています。それがさみしそうにも見えるので、会うとかならず、一人ぼっちの二人で一緒に、桜の木のそばで祈っています。

 さくらちゃんのかなしみは、桜の花びらのかなしみに似ています。儚い生のかなしみです。

 私はさくらちゃんとなにも話したことがありません。

 はじめて出会った時、いじらしい薄桃色の頬と、夜空とつながっているような黒だけの瞳を見て、桜の妖精だとすぐにわかりました。

 どうしてかと言われても答えられません、でもわかったのです。

 まるまるした掌を握ってみようとしたことがありますけど、透き通って触れられませんでした。冷たい風が仄かに私の掌を撫でただけでした。いたずらのばれた子どもの切ない笑みをさくらちゃんが浮かべると、さあっと頭上で桜の花びらの揺れる音がやわらかく響きました。

 幽霊を信じない人がいるということが、私にはとても信じられません。

 ここの人たちのなかにも、さくらちゃんなんていないという人がいます。

 でも、時間が止まって真空にいるような、よく晴れた白昼の瞬間に、私はママのそばにいることがあります。生きている私が死んでいるママのところに行けるのです。死んだ人が私たちのところに散歩しにきてもなんの不思議もありません。

 病院のみなさんとお花見もしました。

 ひらひらと蝶の舞うような優雅な無邪気さで落ちる桜の花びらを眺めながら、私の心は去年の桜へ漂っていました。

 二人で電車に乗って見に行った、あの桜並木です。

 そういえば私がパパにご飯を作ってあげたのはあの時だけかもしれませんね。あの日、朝から私が用意したお弁当を桜の下で食べて、ママの料理より美味しいとパパが言ってくれたのはなんだか記憶というよりいつか見た夢のようです。

 今の私が幸福から遠すぎるからでしょうか。

 桜並木のそばを流れる川面に花びらが舞い降るのを、じっと見つめるパパの横顔が珍しく子どもみたいだったと、私は思い出していました。私は思い出し笑いをしながら、どうしてか涙ぐんでいました。

 看護婦さんのひなこさんに、『花霞』という言葉を教えてもらいました。

 咲き乱れる桜の花を遠くから眺めると、白と薄桃色に霞みがかっているように見えるのを、花霞というそうです。知っていましたか? とてもやさしくて綺麗な言葉で、一度聞いた時からずっと、お手紙に書こうと思っていました。

 ひなこさんはこういう胸がきらきらするようなことをたくさん知っていて、いつも色んなことを教えてくれます。

 何日か前、病院で運動会があった時のことです。

 どうしてパパは運動会に来てくれなかったのですか。

 みなさんのご家族もいらっしゃったのに、私は一人ぼっちで、パパに久しぶりに会えるのが何日も前からそわそわしてしまうぐらい楽しみで、その日は朝からちえりさんに髪も可愛く結んでもらったのに。

 お団子を二つ作ってもらって、みなさん可愛いと褒めてくれました。パパは見れなくて残念だったと思います。写真も送ってあげません。

 パパが来なくて、私は赤ちゃんみたいに一日中泣いてしまって、楽しみだったパン食い競争もできませんでした。

 これもひなこさんが教えてくれたことですけど、恋という字は昔は、『糸』を二つと『言』を一つに『心』と書く字だったそうで、それをひなこさんは『いとしい、いとしい、というこころ』の意味だと教えてくださいました。お手紙もくれず会いにもきてくれず、いとしいという想いをきちんと伝えてくれないと、パパが私のことをもう好きでいてくれてないのかと不安になりそうです。

 悪い疑いだと思ってますけど、そんな風にしか思えないようになったら、私はもうどうなってしまうことか、自分の運命が怖ろしいです。

 ひなこさんの教えてくれた素敵なことが、他にもあるのです。その運動会の前の日、昼下がりからお天気雨が降ったのでした。

 明日は運動会が出来るのかなと不安になりながら(どうせパパが来てくれないのなら中止になってくれた方がいっそよかったのですけど)私は病室の窓から見える空と雨に見惚れていました。

 久しぶりに見るような気のするお天気雨には心うばわれました。ふっくらした春空から、音もなく落ちていく水の糸は、陽の光をうけてきらきらと、まるで遠い星のような儚い光でした。空の青が溶けてぽつぽつと落ちてきているかのように清らかでした。

 お薬を持ってきてくれたひなこさんが、お天気雨の降る外を見て、狐の嫁入りとおっしゃいました。狐の嫁入り……ほっこりする言葉です。

 ひなこさんいわく当たり前に使う言葉だそうですけど、私は聞いたことがありませんでした。

 物知りのひなこさんは、狐の嫁入りという言葉の由来を教えてくれました。

 むかしむかし、とある狐の女の子が結婚したそうです。

 それで嫁入り行列をしようと狐さんたちは話し合ったのですが、しかし人間の住むところをぞろぞろ歩くわけにもいきません。

 そこでみんなが思いついたのが雨ごいでした。雨が降れば景色がぼやけて人間からは見つかるまいというわけです。

 狐さんたちが花嫁の女の子のために精一杯雨ごいをしたところ、どうにか行列の周りにだけ雨が降り、そうして嫁入りは無事に遂げられたそうです。それから晴れた日の雨を、狐の嫁入りと言うようになったそうです。

 雨ごいというのがどういうものか私にはあまり分かりませんけど、舞のようなことをたくさんの狐さんたちが頑張ってやってる光景は、想像するだけで愛くるしいです。

 その願いを聞いてあげる神さまのやさしさも、この話の素敵なところだと思います。

 それになにより、おめかしをした狐さんたちの行列が、澄んだ晴天からさらさらと降る雨に守られて、純白の薄煙のなかを歩いていくというのはとても美しいです。

 私が思わずにっこり笑ってそういう感動をつらつらと話すと、ひなこさんは窓辺によりかかってお天気雨を眺めながら、でもね、狐の嫁入りっていう言葉が私たちに今まで伝わっているっていうことは、その行列を目にしていて全てを知る人間がいたってことよね、とおっしゃいました。

 そして続けておっしゃることには、その人間は行列を妨げることもなく見届けて、狐の嫁入りという綺麗な言葉だけを私たちの世に残した、私がこの話で好きなのはそこね、と、こちらを振り返って慎ましく笑みをこぼしました。

 ひなこさんの表情は、よろこびもかなしみもいつもとても上品なのですけど、それは健康な血が肌を鮮やかにするように、美しい心が滲むからなのだと私は知りました。

 看護婦さんの着るオパールのように清廉な服、あの衣装が最も似合う人はひなこさんだと思います。

 ひなこさんは看護婦さんですから、やさしいばかりではありません。

 むしろ怒ると他の看護婦さんよりも怖いくらいです。

 誰かが取り乱したりして、あばれたりすると、他の看護婦さんたちはなだめたり手足を抑えたりするだけですけど、ひなこさんは違います。

 白い服の内側から、全て伸ばせば腕ほどの長さになる、細い黒の棒を出してきます。

 そして微動もしない面持ちで、その棒を高い音を鳴らして振るいます。

 私も一度だけ裸の背中に受けたことがありますけど、その棒には電気が流れていて、叩かれたところが裂けて千切れてしまったように痛むのです。

 ひなこさんは相手が謝るかうずくまるまでそれを決して止めません。

 途中で気の絶える人もよくいます。

 その刑罰を与える時間の、ひなこさんの非情の面持ちは、いつにも増して上品で身ぶるいするようなうるわしさです。

 こうしてひなこさんのことを書いていると、今廊下から、夜の見回りの足音が聞こえてきました。

 ひなこさんの歩く音です。

 みやびな静けさで、でも冷ややかな鋭さがあります。私はひなこさんの足音を聞いているといつも、薄氷の上を歩いている姿を想像します。

 そういえば、狐の行列の足音とは、どういうものなんでしょう。

 私にはどちらも愛おしく、どちらもあこがれです。

 きっと今夜も、パパが迎えにくる夢をみます。



               四月五日 雨の光から あなたのえりなより


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