第四十七話 シリンダー

 礼子が一度自分の家に寄りたいというので、小熊はハンターカブを横手方面の上り坂に向ける。

 家から幾つか工具を持って来るらしい。その後は、礼子が何て言おうと自分のアパートに連れ込む積もり。小熊のカブの修復に礼子が付き合う義理は無いが、後ろに乗った礼子が悪い。

 満月の夜なのか、普段はカブに補助ライトが欲しくなるくらい真っ暗な山道が明るかった。月にまでこれからやる作業を応援して貰っている気がした。

 走る時には頼りになる月の光もエンジンの整備には足りないと思ったのか、ログハウスに入った礼子が吊り下げ式の作業灯と革製の工具袋を持って出てきた。パーツの入ったヘルメット袋に荷物を入れて背負う。この薄い布製の袋はヘルメットを買うとタダでついてくる割に丈夫に出来ている。

 坂を下りて上って、小熊の家に着いた。小熊がお茶でも飲むかと聞く前に、礼子は作業灯をアパートの大窓を開けたところにある物干し竿のフックに吊るし、電源コードを小熊に投げる。小熊が部屋までコードを引き込んでコンセントに繋いだところ、室内の電灯よりずっと光量の大きい裸電球の灯りが、小熊の部屋の軒先を照らす。

 小熊は駐輪場から自分のカブを転がしていき、部屋の大窓前に移動させた。部屋のからの灯りと作業灯、それから満月で充分に照らされた作業スペースが出来上がった。


 小熊はカブの前に座り込み、窓の桟に腰掛けている礼子の横に工具を置いた。

「自分でやるから。工具出しだけ手伝って」

「いじるお楽しみは独り占め~?」

「わたしのカブだから」

 礼子は言われた通り工具箱を手元に引き寄せ、座り位置を変えた。小熊の手元がよく見えて必要な工具を差し出せる場所。

 作業中に何か危険なことが起きた時、即座に肩を掴んで自分のところまで引き寄せられる位置。


 虎の巻なる整備解説書を読みながら行ったエンジンヘッド取り外しは、思ったよりも簡単だった。

 オイルを抜き、一つ折れたシリンダーボルトの残り三つのボルトからメガネレンチでナットを外し、シリンダー横のボルトをスパナで外す。それから樹脂製のテンショナーを外してカムチェーンを弛ませ、スプロケットごと外す。

 チェーンの位置がスプロケットからずれるとバルブタイミングもずれるので、チェーンとスプロケットに目印をマジックで書いておいた。

 あとは引っ張っただけでエンジン上半分が外れる。雑誌の略図やネットの写真でしか見たことの無いスーパーカブのピストンが、目の前に露出した。

 小熊はピンポン玉ほどの直径のピストンに指先で触れる。スーパーカブの重い車体と荷物、そして小熊を他の車に劣らぬ速度まで引っ張ってくれる力は、ここで生まれる。

 クロスハッチと呼ばれる、オイル定着を良好にするために微小な傷を刻む処理が施されているのを指の腹で感じた。カブのエンジンが丁寧に扱われているか否かの、あまり当てにならない基準では、オイルや回転数の管理が悪く暖機もいい加減なピストンは、このクロスハッチが磨り減り消えているらしい。


 虎の巻とかいうカスタムパーツメーカー製の整備解説書と、スマホに表示した個人オーナーのカブ整備ブログを見ながら、ピストンの周囲に刻まれた溝からピストンリングを外し、新しいリングを入れる。

 ピストンをオーバーサイズに換えて一年。リングは交換にはまだ早かったらしく、目で見てわかる磨耗は無かったが、消耗部品は消耗する前に換えて予備に回すことが大事だと礼子に聞いていた。これからまたリングを交換しなくてはいけない時、すぐに部品を買いにいけるとは限らない。作業中にリングの破損や紛失で急に予備が必要になることもある。

 リング交換の作業は、教科書通り慎重に行ったおかげで、問題なく終わりつつあったが、三枚重ねのリングの最後の一つを入れた時、オイルで手を滑らせ。リングが人差し指に食い込んだ。皮膚か切り裂かれる。

 けっこう深く切ったらしく血が滴ってきたが、小熊の頭の中にあったのは指の怪我より、デリケートで異物の混入に注意する必要のあるピストン周りを血で汚さないこと。

 とっさにリングを押さえる指を中指に切り替え、作業を終わらせる。人差し指は血ごと握りこんだ。

 礼子が少し顔を傾けて様子を見たが、特に何もしない。礼子自身の手にも過去にカブの整備で出来た傷があちこちに刻まれていた。それは勲章で、以後戒めるべき未熟の証。

 ピストンリングの装着を終えた小熊は水道で手を洗う。井戸水の外水道から出てくる九月の水は冷たかった。水道下の金網に血混じりの水が流れていくのを見た小熊は、スーパーでも売られている南アルプス天然水で手を洗うとは贅沢な話だと思った。

 傷がふやけて白くなるまで水洗いしたら血は止まった。軍手を付けたほうがいいのかと思ったが、エンジン下部から伸びた四本のシリンダーボルトが小熊の目に入った時、これは素手のほうがいいと思った。

 もしもう一度怪我をしても、その時はまた洗えばいい。指を一つ失っても、あと九本もある。今は目の前のカブを組み上げることしか頭に無かった。


 手術室の看護師のように、必要な工具をその都度出してくれていた礼子が、いつの間にかアパート前の自販機で買ったレモンスカッシュを小熊の横に置く。礼子も同じものを買ったらしく、缶を開ける音と共に香りが漂ってきた。レモンスカッシュを一口飲む。普段はあまり好まない炭酸飲料の糖分が、思考力を回復させていくのがわかった。

 レモンスカッシュを飲みながらシリンダーボルトに触れた小熊は、レンチを当てるところがどこにも無い、ただネジ山を切っただけの鋼の棒を、どうやってエンジンから外すのかと思ったが、礼子がおせっかいに口を挟むまでもなく、スマホで調べた小熊は、ナットを二つ重ねて上下に締め上げるダブルナットという方法を知った。


 やりかたはわかったが使うナットが無いことに気づく。今まで整備をした時に余ったナットは、漬物の空き容器に入れて取っておいてあるが。プラスティックの漬物容器をかき回してもぴったり合うナットが無い。サイズが合ったと思ったらネジ山のピッチが住宅用の中目で、自動車用の細目ピッチとは合わなかったり。

 ようやく一つ見つかったが、ダブルナットの作業には二つのナットが必要になる、シリンダーのヘッドを留めているナットは貫通していないので使えない。

 今までの整備経験がそれほど豊富でな無い小熊は、溜め込んだネジもそう多くない。個人の趣味でバイクの整備をしていると、必要な工具や部品を揃えていてもネジ一つ外れないだけで作業が止まることがあると聞いて、それを杜撰だと決め付けていた小熊は、たった一つのネジが無いことで行き詰った。

 もう降参して、さっきから退屈でうつらうつらしている礼子に助けを求めようとした。礼子ならネジくらいどこからか出してくれるだろう。そう思った時、小熊の目にいつも彼女を助けてくれる存在が映った。

 スーパーカブ。あちこちにネジが付いたものが目の前にある。


 小熊はカブに飛びつき、車体を探って合いそうなサイズのナットを見つけて外した。これでネジは揃った。ダブルナットを使ってシリンダーボルトを外す。小熊がカブを手放す決断を下す寸前まで追い詰めた破損ボルトもあっさり外れる。

 新しいボルトをビニール袋から出し、再びダブルナットを噛ませてエンジン本体に捻じ込もうとした時、礼子が小熊に言われていない工具を出した。

 トルクレンチと言われる、締め込みの強さを調整できるレンチ。小熊がまだ持っていなくて、礼子がわざわざ自分のログハウスから持ってきた特殊工具。

 ボルトを締めるトルクについては、整備解説書やネットの整備体験記にも書かれていたが、小熊はそういう数値はプロの人が見る物で、自分のバイクを個人で整備しているだけの人間には無縁なものだと思っていた。

 故障やトラブルは素人にも整備上級者にも等しく襲ってくる。整備解説書にはプロが経験則ゆえ省略している記述はあっても、初心者が無視していいことは書いていない。

 トルクレンチを手にした小熊は、解説書に書かれていたトルクを守りつつ、四本のシリンダーボルトを締める。ようやく破損部分を取り外してして新しい部品に換えることが出来た。


 去年原付二種登録のため、シリンダーブロックのボーリング修正をしてから一年と経っていないためか、シリンダーガスケットは綺麗に剥がれたが、合わせ目を律儀に以前百均で見つけたオイルストーンで研ぎ磨き、ボルト穴のスリーブを落とさないように注意しながら、手で持つと重いシリンダーをシリンダーボルトに通した。オイルを塗ったピストンリングを指で押さえながら、エンジン下部のクランクケースと結合する。続いてシリンダーヘッドもヘッドも装着した。

 そこからはさっき行った作業の逆回し。一度カムチェーンにマジックで付けた印が消えていて、バルブ開閉のタイミングに合わせてチェーンとスプロケットを組み合わせる方法がわからず焦ったが、整備解説書を見ると合わせ方が載っていた。カブはバルブや点火のタイミングを、通常の自動車エンジンでは必要になる特殊な測定器具を使うことなく、発電ホイールに刻まれた目盛りとをクランクケースの溝を目印にするだけで正確な位置に合わせることが出来る。

 さっきから工具が出てこないと思ったら、礼子はもう寝ていた。最後に以前捻じ切ったシリンダーボルトのナットを、トルクレンチを使って正確な値で締め上げ、小熊のカブのエンジンは復活した。

 小熊はそのまま工具を落とす。バーベキューでスタミナ補給をしたとはいえ、先日の富士登山よりも疲労し消耗した気がする。こんな苦行をさせられるくらいなら、次から整備はシノさんに任せたほうがいいのかなと思った。

 後片付けをしなくてはいけないのに、俯いた姿勢のまま体が動かない。睡魔とも意識消失ともつかぬ閉じかかった目で、今ままでより低い視線からエンジンを見た。整備中には目に入らなかったものが見える。去年ブロック修正した特製のシリンダー。礼子からはコンロッドかロッカーアームあたりをチタンに換えたのかと疑われるくらい、よく回るエンジンになった。もしかして、他の部分も調整と調律をを重ねれば、更によく回る高回転型のエンジンになるのかもしれない。

 次の瞬間。小熊の体が起き上がった。手は礼子が持ってきた工具袋を探っている。

「タペットを調整しようかな」

 

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