第四十八話 昂然と

 シリンダーボルトの交換は無事終わり、小熊のスーパーカブは路上に復帰した。

 季節が秋を迎え、冬が近づく中、カブは小熊に試練を与えるかのようにあちこちが壊れ始めた。

 復活して間もなく謎のエンジン不調が起き、原因がガソリンタンクに外気を供給する空気穴を兼ねたタンクキャップの鍵穴の詰まりであることがわかるまで時間がかかったが、構造上分解清掃出来ないタンクキャップを中古部品通販で未使用品に交換したのを機に、キャップを鍵を挿さなくても開けられるように加工した。以後ガソリンスタンドで給油のたびにいちいちエンジンキーを抜かなくて良くなる。


 走行中にエンジン回転が下がらなくなった事があった。原因はスロットルワイヤーが切れかけて、バラバラにほどけたワイヤーがアウターと呼ばれるワイヤー保護チューブの中で引っかかっている事だと気付いたので、とりあえず掌の感覚で微妙なスロットルワークを駆使して家に帰り、ワイヤーは予備を含めて二本買った。いつもながら純正消耗部品の値段が自転車並みのカブに驚かされる。

 ブレーキワイヤーが切れて、突然レバーを握っても何の感触も無くなった時には焦らされた。切れた箇所はタイコと呼ばれるワイヤー末端。ワイヤーはほとんどの場合ここで切れる。以前プラグの電極ネジ部分にドリルで穴を開けて作った即席のワイヤータイコ補修具を工具箱に入れていたため、それで応急処置した小熊は家まで自走し、スロットルワイヤーと一緒に買ったブレーキワイヤーを交換した。

 メーターケーブルも一度切れた。スピードはサイクルコンピュータやスマホの機能で計れるし、走行に支障無いのでしばらく放っておいたが、動かないメーターを見るたび自分が不完全で杜撰な人間だとカブに言われているような気分になったので、シノさんに店にあった解体屋行きのカブから抜き取って貰い、付け替えた。


 通販で買った部品の値段を送料無料の価格に合わせるため買った駆動チェーンを取り付けたところ、接続クリップ部分の作業ミスでチェーンが切れ、出先で動けなくなったこともあったが、ダメモトで飛び込んだホームセンターが、農業用品中心でバイクグッズコーナーはあまり広くないのに、農家の足としても必須のカブと軽トラの消耗部品は置かれていて、カバーを外せばプライヤー一つで交換できるカブのチェーンを無事取り付けることが出来た。


 シリンダーボルト交換の時には手を付けなかった腰下と呼ばれるエンジン下半分のクランクケース部分を分解したこともあった。修理の必要があったのではなく、交換に特殊工具が必要なクランクメタルを一般的な工具で替えられる裏技を知ったので、試したくなっただけ。

 カブに使われているバイク用としては珍しいガラス製ヒューズが切れた時は、切れても普通に走るのでしばらく気付かなかったが、故障の連続で習慣になった定期的な各部の点検でヒューズ切れを発見し、カブのバッテリーケース内に標準で装備されている予備ヒューズに交換した。ホームセンターの電工部材売り場に無かった特殊サイズのヒューズはバイク用品店で買った。


 ガソリン内の水分凍結を防ぐキャブヒーターに繋がる配線が切れ、晩秋に至る頃にやってきた急な冷え込みで、凍結した水分が燃料経路に詰まるアイシングを起こしたこともあったが、配線の補修部材を注文し届くまで、ガソリン内の水分を溶解させる水抜き剤を入れてしのいだ。

 概ね電球切れとは無縁だった小熊のカブも、ヒューズ切れとバッテリーの弱りでアイドリング時には点滅状態だったテールランプの電球が切れ、交換した電球も一ヶ月で切れたので、今度は小熊がキレてLED電球に交換した。


 夏の富士登山以来、車体の直進性に違和感を覚えていたため測定したところ、フレームに微小な歪みが出ていたことが判明したが、シノさんのコネでレーザー測定によるプレス修正を行い、新品より公差の少ない高精度なフレームにすることが出来た。

 一緒にスイングアームやステム等の車体の回転稼動部のベアリング交換とグリスアップを行った時は、シノさんが作業の早さと丁寧さに舌を捲いていた。


 サスペンションから軋み音が出ていた時は、偶然手元にあった別車種のサスペンションのサイズがぴったりで、取り付けて走らせてみたところかなり硬くスポーティーになったと思ったら、タイヤへの負担から一週間で二回パンクを引き起こし、結局純正の新品を取り寄せてノーマルに戻した。

 パンクには去年の秋頃に続けざまに経験して以来無縁だったが、今回は常備している予備チューブではなく、物は試しと思いスプレー式のパンク修理剤を使ってみた。応急処置には必要十分な性能を備えていることと、自動車と兼用のサイズでは大きすぎることを確かめたので、バイク用のミニサイズ品を買ってリアボックスに入れた。


 シリンダーボルトを折った時のように、カブの維持を諦めようと思ったことも一度や二度ではない。そのたび小熊は立ち上がった。しょっちゅう自分のカブを壊しているのに、これくらいトラブルのうちに入らないって態度を取る礼子に負けるのは癪だったし、小熊が悩むたび自分の受験勉強をほっぽりだして世話を焼いてくれる椎を見るとこっちのほうが心配になる。

 慧海はもう今度こそどうしようも無いと弱音を吐きそうになった時にふらりと現れ、小熊と一緒の時間を過ごしてくれるようになった。彼女は小熊に言った。

「人の作った物が人に直せないわけがありません」

 小熊はしぶとくこのカブに乗り続ける理由を得た気分になった。あらゆる状況における生存のみを目的に生きている少女に、簡単に死ぬ奴だと思われたくない。一度はカブを手放し慧海に押し付けようとさえ思ったが、これから先も慧海と対等で居続けるには、カブに乗る人間としての自分を殺してはいけない。自らの能力全てを使って生き延びるしかない。


 バイク整備の経験が浅い小熊は何度も怪我をして、ホンダの初代社長ほどでもないながら手に傷が増えてきたが、故障と同じく怪我にも慣れてきた小熊は、そのうち折れたドリルの刃が手を貫通したことを半ば笑い話として語れるようになった。同類の人間はバイクの世界に多い気がする。それは傷の苦痛やそれより痛い作業が止まる損害と共に、怪我をしない、怪我した時のダメージを最小にする作業方法を身に付けていったから。


 普通自動車の免許を取ったことも、小熊のカブ維持に役立ってくれた。

 バイク屋でトランポと呼ばれる二輪車輸送用のバンやトラックを運転出来るようになったことで、出先で止まって修理不可能になった時に電車で帰り、シノさんがトランポに使っている旧い日産サニーのトラックを借りて自分でカブを引き上げられるようになった。

 まだ実際にトランポに頼るような、自走して帰ることの出来ないトラブルの経験は無かったけど、それが可能になったというだけで安心感が加わる。壊れたらどうしようと思いながら走っていた道も、壊れたらこうすればいいと余裕を持って考えながら走行を楽しむことが出来る。シノさんを頼らずともカブを運べるような軽トラは全国のレンタカー会社や、ホームセンターでさえ借りることが出来る。


 シノさんの店で整備設備を借りるため長居している時に、客のバイクや解体屋で出た掘り出し物の廃車をトランポで取ってきてくれと頼まれたことは何度かあった。一度知り合いの店で面倒を見ているというカブを引き上げることになった時は、車体にアニメキャラがラッピングされたプレスカブに乗っていた少年が、たかがピストンの焼きつき程度でこの世の終わりのような顔をしていたので、小熊はスーパーカブには各社から0.25mm刻みでオーバーサイズピストンが供給されていて、あと何回か焼きつかせても平気だと教えてあげた。

 小熊より背が低く、バイクに乗るには線が細すぎるように見えた少年は、自分のカブを自力で持ち上げてトラックに載せていた。まだ細い腕にはグローブとジャケットの間に出来るバイク乗り特有の日焼け跡が出来ていた。少年は小熊にカブを預け、そのまま駅の方角へと去った。秋の連休の間にカブで回る予定だったアニソンイベントへの参加を、徒歩と電車で続けるという。どうやらこの少年もカブに育てられたらしい。


 バイク維持の最大の要素となる金銭については、ギリギリの線で持ちこたえた。林道を走っていてミラーをぶつけ、割ってしまった時は中古のミラーさえ買えないほど窮乏していたが、鏡面は割れていても本体が無事であることに気づき、ダメモトで百円ショップに行ったところ風呂用品のコーナーに使えそうな鏡が売られていたので、カブのミラーの形にカットして、これも百均の接着剤で付けた。金が無ければ無いで知恵を絞れば何とかなることもある。

 去年のバイク便バイトの縁で今年も仕事の依頼がそこそこ入ったが、バイトの給料も奨学金の入金もカブの維持費に消えていく。時に食費にすら困って一週間野菜炒めばかり食べたこともあった。小熊はそれが苦痛だとは思わなかった。バイクのために生活に負荷をかける。自分がそういういことをする人間のうちの一人になったことが妙に嬉しかった。

 自分の財布に応じて無理ない範囲でバイク趣味を楽しむ。それは大切なことだけど、小熊にはそれだけではスロースピード過ぎる。バイクに乗る時も、バイクとの暮らしを送る時も、たまには皮膚が擦れて痛くなるほどのハイスピードを味わいたい。


 小熊にカブの維持を諦めさせようとする魔物が根負けしたのか、礼子の言う通り長期消耗部品の交換が一巡したのか、秋を終え冬を迎える頃にはカブの故障が落ち着いてきた。礼子に「今どこが壊れてる?」と聞かれ「どこも壊れないからやる事が無い」と答える余裕も生まれてくる。

 バイクに乗る人間にとっては試練となる冬は今年も律儀にやってきたが、去年の冬を経験した小熊には充分な備えがあった。冬という季節は、冬のバイクにしか味わえない面白い事と共にやってくることは知っている。


 スーパーカブから幾多の試練を与えられ、そのたび判断を迫られていた小熊に、もうひとつの決断をする日がやってきた。

 今まで散々引き伸ばしてきた大学の指定校推薦に伴う学生寮への入居契約。二学期中に書類を提出しないと入寮の申し込みが不可能になり、春から路頭に迷うことになると言われたが、小熊の回答はもう決まっていた。

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