第四十五話 バーベキュー

 昼休みが終わり、小熊と礼子は教室に戻った。

 同じ教室に帰る椎は、一年生の教室に戻る椎に付き添うといって小熊と礼子から離れる。

 小熊より後ろを歩いていた礼子からは、椎がスマホを取り出して家に電話をかけているところが見えた。

「え?グリルもうしまっちゃった?お願い夜までに準備して!すっごく大事なことなの!」

 椎の気持ちに気づいているのか居ないのか、礼子は小熊の背を見つめながら教室へと向かった。


 午後の授業を終え、小熊は駐輪場に向かった。帰りの上り坂を考えると少し気が重い。

 椎は小熊に今日の六時に来てほしいと何度も念を押してから、自分のリトルカブで帰って行った。慧海はいつも通り自分の足で歩いて帰路についていたが、その前に椎に買い物らしきメモを渡されていた。

 ハンターカブのエンジンをキック始動させた礼子が、小熊に声をかける。

「迎えに行くから」

 小熊はサドルを叩きながら答えた。

「自転車で行ける」

 礼子は小熊を見た。目の前の地味な制服の少女には自転車がよく似合っている。礼子はその姿に、小熊がこの世で最も似合う物に乗っていた頃の姿を見ていた。

「カブでも行ける」

 小熊は肩をすくめる。

「じゃあ、そうする」

 正直なところ、礼子の後ろには乗りたくなかった。あの音と振動を忘れたかった。

 でも、今の小熊には、礼子に抗う気力が沸かなかった。


 七里岩の坂を苦労して漕いで家に帰った小熊は、駐輪場に自転車を置き、部屋に入った。

 シャワーを浴びた後で着る服に少し迷う。夕食の招待といっても正装の必要は無さそうだし持ってもいない。服に煙の匂いがつくバーベキューならこれがいいだろうと思い、デニム上下を身につけ、ビアンキのベルトを締めた。

 部屋を見渡してみる。去年まで何も無かった部屋には、この一年半で物が増えていた。壁に掛かった赤いライディングジャケットに、革のブーツとキャンバス布のバッシュ、大きさの割りにまだ中身のあまり入っていない工具箱や冬用のスキー服、雑誌やプリントアウトのファイル。全部カブのために買ったもの。

 きっとこれらの物は高校卒業と同時に捨てるんだろうと思った。大学のマンション寮はそんなに広くないし、パンフレットによれば部屋に付属しているというデザイナーズブランドの家具に似合わない物もある。

 大学の書類と、これから記入して提出しなくてはいけない入寮契約書を見ている間に、耳障りな音が聞こえてきた。

 玄関を開けると、礼子は見慣れたブルーグレイの作業着上下だった。いつもハンターカブの後部につけている郵政カブ用の荷物箱は外され、二人乗り用に延長されたダブルシートが付けられている。

 カブはシート交換もボルト二つを外すだけだから、と思った小熊の掌に、レンチを回す感触が呼び覚まされる。それを打ち消すように手を振った小熊は、玄関を出ようとする。

 自然に手が靴箱の上に置いているヘルメットに伸びた。


 椎の家に着くと、早仕舞いした店の裏にある中庭に煙が上がっていた。

 耐火レンガを自分で組んで作ったらしきバーベキューピットで、椎の父が炭火が熾していて、椎の母が何か言いながらキャンプテーブルに食材を並べていた。

「だからバーベキューとグリルは違うのよ。日本でバーベキューと呼ばれているものはみんなグリル」

 小熊と礼子がハンターカブで乗りつけると、椎が出てきて両手を振った。慧海は大きな塊の肉を包丁ではなくナイフで切っている。

 見知った顔の中に見慣れない客人が居た。白髪混じり髪を長く伸ばした男性、上下ツナギの作業着姿で、背は見上げるほど高い。椎が男性の横に擦り寄ってきて紹介してくれた。

「今日はわたしのお爺ちゃんが来てくれました」

 教えられる前にそうじゃないかと察したのは、孫の慧海に顕れた隔世遺伝。目元や体つきがよく似ている。

「はじめまして。お話は伺っておりました、一度お会いしたいと思っていました」

 椎と慧海の祖父から握手の手を差し出された。体格に似合い、鋼のように強い握力。椎が少し困った顔で祖父のことを話す。

「お爺ちゃんは旅人なんです。あちこちを車で回っていて、たまにしか帰ってこないんです」

 慧海が少し誇らしげな顔をしていたのは、小熊にとっても今まで見せることの無かった慧海の表情を見られてちょっと得をした気分だったが、問題は礼子が旅をして暮らす老人を憧れの目で見つめていること。


 他人にまともな挨拶の出来ない礼子は、無遠慮に老人の背後にあるものを指差して言った。

「それ!見せてもらってもいいですか?」

 小熊も気になっていた白いホンダの軽トラック。ほどよく使いこまれたトラックの後部には、車体をはみだすほど大きいボックスが装着されていて、横には人が出入りできるドアが付いている。軽キャンパーと呼ばれる車だった。

 老人は嬉しそうに礼子と小熊を招き、車内を見せてくれた。電動で高さが変わるルーフを上げると人が立って歩けるほどの天井高がある車内には、ソファ兼用のベッドと、プロパンコンロや流し台のついた台所、冷蔵庫に液晶モニター、ノートPCの置かれたミニテーブル、スペースは一畳半くらいながら、小熊のアパートより暮らしやすそう。

 老人はソファに座り、サイドテーブルに置かれたカットグラスにミニ冷蔵庫の上部から取り出した氷を放り込む。それからグラスに白州のシングルモルト・ウイスキーをダブルで注いでから言った。

「綺麗な景色はここで見るのが一番いい」

 小熊は老人が窓の外に広がる南アルプスの夕暮れのことを言っているのかと思ったが、老人の視線が小熊と礼子の脚に向いていることに気づき、顔を赤らめる。礼子が横でちょっと見栄えいい姿勢に足の位置を踏み変えたのがわかった。

 小熊の記憶では地元の物産展で結構なお値段を付けられていた白州のボトルを、老人が差し出してきたので、思わずグラスを探そうとする礼子を引っ張って軽キャンパーを出たところで、バーベキューの準備が整った。


 小熊と礼子は、近隣のハンターから譲ってもらったという猪の肉や、慧海が買ってきた地元の野菜を焼いては食べまくった。小熊のカブの話については、椎が両親に何か言い含めたのか話題には出なかった。礼子は老人から聞く旅の話、主に旅先で出会った女性とのロマンスに目を輝かせていた。

 息子である椎の父は呆れたような顔をしていて、椎も不潔とでも言いたげな顔をしていたが、小熊はもしも今より少し若かった頃の老人が慧海に似ていたら、昔は行く先々で女に泣かれて困ったという自慢話は、本当だったんだろうと思った。あるいは今も。

 老人は小熊にも聞いてきた。

「あなたは旅に出たいと思ったことはありますか?」

 老人は自分の軽キャンパーを自慢げに叩いている。もしかして一緒に旅に出ようなんて誘っているんだろうか。横では礼子が自分にお誘いの声がかからないものかと一生懸命アピールをしている。

 小熊は最近少し早くなった日暮れを見ながら言った。

「もう秋になっちゃいましたから」

 老人は自分の軽キャンパーを振り返った。室内ではなく、簡素で後部モニターを兼ねたカーナビとスマホ以外何も装備の付けられていない前部座席の窓越しに、老人の想像の中では無限に広がる道を見ながら言う。

「じゃあ私はずっと夏ですね」

 頬を殴られた気がした。

 スーパーカブと共に過ごした小熊の夏。失ったことで始まった秋。夏が去り秋が訪れたのではなく、小熊は自分自身の手で夏を終わらせ、秋を始めてしまった。

「まだ夏が終わっていない場所もあるんでしょうね」

「探せばあります」

 老人は小熊が最近手に入れたスマホを指し、少し見せてくださいと言った。軽キャンパー運転席のスマホホルダーを見る限り、老人のほうが新しい機種を使っている。

 小熊が差し出したスマホを操作した老人は、開けた窓に手を突っ込んで自分のスマホを手に取り、素早く自分のアドレスを入れて小熊に返した。礼子は手近にあった紙に自分のアドレスを書いて老人に渡している。 


 肉をたらふく食い、用意された食材を食べつくした小熊と礼子は、そろそろおいとまする時間になったと思い、席を立った。椎の両親に礼を述べる。    

 椎からカブのことを話すのを禁じられているらしき椎の母は、小熊に言った。

「小熊さんがとても好きなものは、たとえ今は離れることになっても、ずっと小熊さんのことを待っています」

 椎が自分のことを言われたのかと勘違いしたのか、小熊を見て頷いている、小熊は慧海のことをチラっと見た。慧海は祖父の横に立っている。小熊はこのまま慧海が夏から来たような男と一緒に旅立ってしまうんじゃないかと思った。引きとめるにはずっと欲しがっていた革のブーツでも買ってあげればいいんだろうか。

 椎の父が小熊に声をかけた。

「今度は猪のモツを譲ってもらうので、鍋とホルモン焼きをする時には来てください、椎の同級生なだけではなく、私の友人として、必ず来ると約束して頂けませんか」

「あまり辛くしないなら、是非またご馳走になります」

 礼子が口を挟む。

「え?何で?唐辛子で真っ赤になるくらい辛くするから美味しいんじゃない」

 相変わらず相容れぬ礼子に、小熊は掌を出した。

「礼子」

 息を呑んだのは礼子か椎か、それともこんなことをした小熊自身か。

 礼子は落ち着きない様子で作業ズボンのポケットを探った後、樹脂警棒クボタンの付いたハンターカブのキーを、小熊に渡した。


 小熊は礼子のカブに跨った。外見は異なるが車体を共有するハンターカブは、各部の寸法が小熊のカブと変わらない。同じ位置にあるキックレバーを蹴りおろして始動させる。礼子が後ろのシートに乗った。

「ガソリンは?」

「七分目。あと百kmは走れる」

「オイルは?」

「こないだ換えたばかり、キャブも今日は濃い目に合わせてるから思い切り回していいわよ」

 スロットルを回して吹かす。チタンマフラーが相変わらず反社会的な排気音を吐き出すが、それを発しているエンジン自体は、紛れもなく小熊のスーパーカブと同じもの。

 大型バイクにも負けぬ迫力のサウンドに老人が口笛を吹く。押し殺した声で椎が泣いているのがわかった。慧海は小熊の横に来て言った。

「小熊さん」

 小熊の肩を抱いた慧海は、唇が触れるほど近くで、祈るような、当たり前のことを確認するような声で言った。

「あなたは死なない」 

 人の生命や身体、あるいは夢の生殺与奪を決めるのが神ならば、きっと小熊にとって慧海はそれより幾らか当てになる。

 小熊は親指で後ろを指した。

「死にそうになったら、これを差し出す」

 礼子が本気で怖がって「やめて!」と叫んでいる。


 小熊はハンターカブで走り出した。後ろに捕まっている礼子が、小熊の首筋に冷たい指を這わせた。

「やっぱり、あんたはこれから逃れられない」

 礼子の言うことはあまり信用できないが、自分自身で否定していても傍目にそう見えるならそうなんだろう。小熊は後ろの礼子に向かって言った。

「ホンダの部販と勝沼の解体、今から行って間に合うのはどっち?」

 礼子がオメガ・スピードマスターの腕時計を見て答える。

「シノさんのところ。今から叩き起こす」

 小熊は頷き、今の自分が必要とする物がある場所までカブを走らせた。  

 

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