第四十四話 秋

 翌朝、小熊は自転車を出した。

 駐輪場に置かれているカブを見ないようにしながら自転車に跨り、学校へと向かった。

 カブを買うまで、高校二年の初夏まではずっとこうしていた。あと半年もしないうちに、カブも自転車もいらない生活が始まる。

 漕ぐことなく走らせることの出来る七里岩の坂を降りている時、制服の中を通り抜ける風が涼しいことに気づいた。まだ紅葉には早い山の木々から、緑の濃厚さが失われているのを見て、小熊は秋になったことに気づいた。

 昨日までは夏だった。


 釜無川を渡る橋を境に始まる緩い上り坂を経て、学校に到着する。校門をくぐり、校舎奥の駐輪場に向かう。トタン屋根の駐輪場は手前にある自転車用のスペースと、奥のバイク用スペースに分けられている。小熊の体が自然に奥のほうに行こうとしたが、その必要は無いことに気づき、適当に空いている場所に停めた。

 スタンドを掛けた後、手が顎に伸びる。今はヘルメットを被っていないことに気づき、最初からそうする積もりであったかのように髪をいじった。去年の今頃より少し伸びたのかもしれない。

 教室に入ると、礼子はまだ居なかった。少し安心する。目を合わせるとカブのことを聞いてくる礼子とは、今は話したくない。椎も居なかった。察しのいい椎はこっちが聞かれたくないことを聞かないでくれることが時々あるが、今は慧海の教室にでも行っているのかもしれない。


 始業のチャイムが始まる寸前に椎、続いて礼子が教室に入ってきた。小熊のことを一瞥もしないのは、それどころでないほど急いでいたからなのか、それとも小熊から礼子や椎の目を惹く何かが失われたからなのか。

 授業の間の短い休み時間は、礼子が昨日行っていた場所について一方的に喋るだけだった。道路が複雑な多層構造になっている新宿西口や、渓谷の地形にそのまま街を作ったような渋谷、いいサーキットになりそうな内堀通りをハンターカブで駆け抜けた話を熱っぽく語っている。

 小熊は礼子の話に適当な相槌を打ちながら、列車なら三時間もかからず行ける場所なのに、と思った。

 

 昼休み、いつも通りバイク駐輪場に小熊と礼子、椎と慧海が集まり、昼食の時間になった。

 礼子はジャンボン・ブールと呼ばれるバゲットにハムとバターだけを挟んだサンドイッチ。小熊は少し腕を振るって作った茄子の味噌炒めをメスティン飯盒とは別のタッパーに入れて持ってきた。椎は冷めてもオリーブオイルほどひどい味にならないグレープシードオイルを使ったペペロンチーノ、慧海はコミスブロートと呼ばれる軍隊黒パンとレバーパテ。

 礼子の自慢話は昼まで続き、椎が受験に合格したら通うことになる紀尾井町の大学周辺を見てきたあたりで一区切りになった。礼子は思い出したように小熊に聞く。

「カブは?」

「壊れた」

「今度はどこが?」

「エンジン」

 礼子の眉が少し上がる。エンジンのどこなのか、どうやって直すのか聞きたくて堪らない様子。

「直そうか、どうしようかと思ってる」

 礼子の表情が変わった。小熊に何を言われても堪えなかった彼女が泣きそうな顔になる。

 

 小熊より長くバイクと付き合っている礼子は、数多くのバイク乗りを知っていた。そのうちの何人かは、怪我や金銭問題、家族の事情、またある日突然乗る気力が失せたなどの理由でバイクに乗るのをやめている。

 礼子の頭に浮かんだのは、そんなバイクから降りた人間では無かった。バイクの世界には、乗り続けるべきでない時に乗り続けた愚か者も山ほど居る。家庭や仕事を犠牲にした人間。分不相応な出費で生活を破綻させた人間、バイク事故で折れた骨も繋がらぬうちから再びバイクに乗った結果、二度と戻ってこなかったレーサーも居る。

 小熊はこれから人生にとって大事な時期を迎える。親の失踪で一度踏み外した人生を、東京の大学生として取り戻そうとしている。それをバイクに固執して投げ捨てろとは言えなかった。


 いつもは自分と関係の無い話、特にカブの話には入ってこない慧海が、小熊の横に座った。

「茄子を少し貰います」

 小熊が一人暮らしには少し作りすぎた茄子味噌炒めのタッパーを箸で摘み、慧海の黒パンに乗せた。慧海はもう一つの黒パンに、外科医のような慎重な手つきでレバーパテを盛り、小熊に差し出す。

「ありがとう」

 小熊はすりつぶした腎臓を乗せたコミスブロートを齧った。肉の味、血の味、生きる味。小熊が礼子や椎と遠出した時によく食べた黒パンからは、カブの味がした。

 レバーパテの黒パンを半分ほど残した小熊は、タッパーの茄子をつついた。農家の直売所ではもう秋野菜が出ている。たぶんカブで走り回り、普通の高校生には出来ないような経験を重ねた夏は過ぎたんだろう。今はは好きなことをして遊び暮らすより先に自分の人生を組み立てなくてはいけない秋の時期。そうしないと、大人という長い冬が訪れた時に生きていけない。


 椎は小熊に身を寄せ、妹の慧海に時々そうしているように、小さな体で悩みや苦しみを吸い取ろうとしているかのように背に額を押し付けた、椎の目に小熊の食べかけたレバーパテのパンが映る。椎はそれを奪い取り、もしゃもしゃと食べながら立ち上った。黒パンをごくんと飲み込んだ椎は話し始める、

「小熊さん!今日はうちで晩ご飯を食べませんか?」

 いつもより時間をかけてメスティンのご飯を食べていた小熊が顔を上げた。

「ちょうど今夜、バーベキューをしようとしていたとこなんです!パパとママもきっと小熊さんに来てもらいたがってます!」

 慧海は「そうだよね?」と言う椎に押し切られたように頷く、礼子はバーベキューという言葉だけで目を輝かせている。

「行ってみようかな」

 屋外でのバーベキューは夏にしか出来ない。カブから降りると共に夏が終わるというなら、バーベキューでも何でも、この季節をしめくくろうと思った。 

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