第四十三話 無理

 山梨は九月も半ばを過ぎると残暑が落ち着き、カブで走るのが気持ちよくなる。

 二学期の初めに何度かのトラブルに見舞われた小熊のカブは、それから特に何事もなく稼動している。

 おそらくあれは夏休みに礼子と二人で経験した危険な遊びの後始末のようなものだったんだろう。そう思いながら小熊は最近手に入れたスマホの地図を見た。


 今まで持っていたガラケーから抜いたsimを挿しただけの中古スマホは、貰った時にはまだネット非対応だったが、あれから契約内容を変更し、ちょうどよくやっていた学割キャンペーンで、ネットと通話が定額無制限で使えるようになった。

 以前は高校の図書室にある古臭いデスクトップや、礼子から借りたスマホで見ていたバイク関連のサイトが、いつでも見ることが出来る。今見たものやこれから行く場所についてすぐに調べることも出来る。自分自身の行動範囲を広げてくれるのは、カブの部品や身につける物のようなハードウェアだけでな無いと思った。情報というソフトウェアを手に入れたことで、走ることもカブを維持することも今までより低いコストで行える。


 受験生への配慮で午前中に授業が終わった日。今日は午後一杯をカブに費やすことが出来る。スマホで調べたところ天候も良好で幹線道路の渋滞も無い。気温や湿度もカブを走らせるのに理想的。

 ホームルームが終わると同時に教室を飛び出していった礼子は、さっそく東京まで走りに行っているらしい。先日、夏休みに小熊と二人で参加した雑誌社バイト関連の用事で新宿に行った時、カブでなく列車で行ったことへの不満というか敗北感を解消するためだろうかと思った。

 椎は走り去る礼子の背を羨ましそうに見ながら、受験勉強のためリトルカブに乗ってまっすぐ家に帰った。小熊が指定校推薦で早々に決めた東京の大学生という身分を、何とか一般受験で手に入れるべく頑張っている。

 慧海は相変わらず徒歩でどこかに行っている。どこで何をしているのかは小熊にさえ教えてくれないが、よく高山の森林限界より上にしか無い暗灰色の土を靴裏に付けて帰ってくる。


 小熊はもう一度スマホに表示された地図を見た。どの道路を走ってどこに行こうかと考えていても、どこに行きたいのかが思い浮かばない。

 去年の今頃、高校二年生の時を思い返してみた。あの頃はもうすぐやってくる冬の前に走れる道を走り尽くす勢いで、毎日のようにショートツーリングのような徘徊のような真似をしていた。

 まだカブを買って半年少々の頃。カブも小熊も色々な部分が真新しかった。あの時はスマホなんてものは無く、小熊自身の知識も今より浅かったが、それだけに走ることそのものが新鮮な経験の連続だった。山脈の稜線に沿う細い道路を飛ばしている時は、このままカブに翼が生えて鳥のように空を飛べる気さえした。

カブもガソリンさえ入れていれば、このまま永久に壊れること無く走り続けるんだと思っていた。


 小熊は、今の自分が去年とは違うことを自覚していた。カブという機械に関する知識が増え、バイクでの走行についても経験を積んでいた。おまけにスマホなんてものまである。

 だからこそ、先日の故障が忘れられなかった。

 突然カブのエンジンが始動しなくなったトラブルも、いざ修理をしてみれば単純なプラグコードの断線。小熊はそれを不幸だと思ったが、後になってみると自宅のアパート駐輪場で故障したのは、稀な幸運だということに気づく。


 もしもあの故障が、走行中に起きていたら。通学やその往復で買い物等を済ませる寄り道の途中なら、あるいは、自分が今まで行ったことの無い遠方の街や、バイクのレッカー業者も出動できない山中の林道だったなら。

 そんな状況で修理や引き上げを諦め、バイクを捨て廃車手続きに必要なナンバーだけ持って帰ってきた話なら何度も聞いたことがある。それを周りに半ば自慢のように話す人間が居たように、起きてはいけない瞬間に起きたトラブルが原因で、生きて話すことが出来なくなった奴も居るんだろう。

 事故でも起こせば、体は無事でも今まで地道に学校での信用を積み上げてきた結果得た指定校推薦の話が消えてなくなるかもしれない。高校生活そのものが不可能になることもある。

 世の不幸の大半は、家で大人しくしていれば遭遇しなかった類のものだというが。今の小熊はカブで遠出することに消極的になっていた。

 どこにでも行けるカブに乗っているのに、どこに行けばいいのかわからない。

 

 走れば壊れる、事故も起きるバイクという乗り物の危険性と、走り続けるということの困難さをいまさらながら知らされた小熊は、どこにも行くことなくアパートに帰った。駐輪場にカブを停める。

 キーを抜き、後部ボックスから通学用のディパックを取り出した小熊は空を見た。こんなに陽が高いうちにどこにも行かず家に帰るのは久しぶりかもしれない。太陽の光が眩しすぎたのか、俯いた小熊の視界に、不吉な物が映った。

 カブを駐めたコンクリートの駐輪場に出来た黒い染み。しゃがみこんで見てみると、水でもガソリンでも無いエンジンオイル。

 オイル染みの表面は濡れている。別のバイクや自転車から垂れたものではなく、たった今、小熊のカブから漏れたもの。

 小熊は顔をエンジンに近づけ、オイルの漏れた箇所を確認しようとした。頭の中では、エンジンの修理、あるいは交換が必要になった時の高額な修理費用が思い浮かぶが、幾らになるかは見当もつかない。


 オイルの漏れている部分は特定出来た。シリンダーヘッドと呼ばれるエンジンの先頭。その最上部にあるフタのようなものを留めている四つのナットのうちの一つ。他の三つのナットの座面に挟まったスチール製ワッシャーと色違いの銅製ワッシャーが使われているナットから、エンジンオイルが滲んでいた。

 小熊はすぐにスマホを取り出し、色々とキーワードを変えて検索した。シリンダーヘッドのナットからのオイル漏れは、他のカブでも時々起きているらしい。位置は小熊のカブのオイルが漏れていた箇所と同じ銅ワッシャーのナット。ここはシリンダーとシリンダーヘッドを固定するナットというだけではなく、エンジンオイルの通り道にもなっていて、多走行や経年劣化等のエンジンへの高負荷でナットが緩んでくると、オイルが漏れる。

 対処法と修理方法は、緩んだシリンダーボルトの増し締め。どうやらそれだけで直るらしいということがわかり、胸を撫で下ろした小熊は、一度アパートに入って室内の下駄箱近くに置いていある工具箱を手に、駐輪場まで戻ってきた。


 メガネレンチを取り出してナットにかける。学校帰りで制服姿のままなので、しっかりと地面に腰を下ろす安定した姿勢が取れない。ナット四つを締め直すだけならそれで充分だと思い、小熊は四つのシリンダーナットを順番に締める。

 最後はオイル漏れしていた銅ワッシャーのナット。しっかり締めなくてはまたオイルが漏れる。しかし締めすぎてはいけないとスマホで見た整備体験記には書いてあった。

 小熊がしゃがみこんだ姿勢でナットを回している時、足のバランスが崩れ、一瞬、レンチに右半身の体重が乗った。そのまま地面に転ぶことなく済んだことで安堵した小熊は、レンチを握る掌に変な感触が伝わってきたことに気づいた。他のナットより柔らかい。


 ナットの下に挟んだワッシャーが、他の三つがスチール製なのに対し、銅で出来ているからだと思った小熊は、その銅ワッシャーのナットが、他のナットより半回転ほど余分に回しても、しっかり締まった感覚が伝わってこないことに違和感を覚える。

 もう少し締めてみよう。そう思った時。もう一度変な感触が伝わってきた。鋼のボルトをナットで締め上げる感じではなく、何か柔らかいものを引き伸ばすような感触。

 不安に駆られた小熊がナットからレンチを外そうとしたところ、ナットもレンチと一緒に付いてきた。

 ナットには、ボルトの先端が嵌ったままだった。

 銅ワッシャーが駐輪場の地面に落ちる。小熊は自分が、エンジン本体から生えたボルトの先端を、ナットで捻じ切ってしまったことを知った。


 小熊はレンチを持ったまま立ち尽くした。単純なナットの増し締め作業で、エンジン本体に深刻なダメージを与えてしまった。慌ててスマホを取り出し、汚れた手であれこれと検索すると、同様の例が報告されていた。

 エンジン本体に埋め込まれたボルトは交換が可能だが、それにはエンジンの上半分を取り外さなくてはいけないらしい。今まで外装のちょっとした部品を交換したことがある程度の小熊に、バイクのエンジンを分解するなんて出来るわけない。

 混乱した小熊の頭の中で、馬鹿げた考えが浮かぶ。四つのナットで締められたシリンダーヘッド。ネジ一つくらい無くても問題なく稼動するのではないか。


 都合のいい願望に取りつかれた小熊は、カブのキーを回し、キックレバーを踏みおろす。エンジンは問題なく始動した。やっぱり思った通りだと思い、スロットルを回して吹かしたところ、エンジンが咳き込むような異音を発した。

 試しに駐輪場前の敷地でカブに乗り、走ってみたところ、走り出しは普通でも加速させた途端にエンジンが不安定になり、車体がガクガクと揺れる。カブを止めてエンジンの前にしゃがみこんでみると、ナット一つを失っただけのシリンダーから圧縮が漏れ、ナットの無いボルト穴からはオイルが垂れ流されている。 

 これではどうしようもない。小熊は途方に暮れた思いでカブを駐輪場に戻し、オイルの漏れたエンジンの下に雑巾を敷いてから、工具を持って部屋に入った。

 そのまま床に転がった小熊は、何もする気が起きなかった。壊れたならその故障の詳細を知り、直し方を調べるべきなんだろうと思ったが、それを可能とするスマホも今は見たくない。


 床の上で仰向けになった小熊は、腕で目を覆いながら呟いた。

「やっぱり、無理があったのかなぁ」

 奨学金暮らしの高校生に、バイクの維持なんて不可能だったのかもしれない。幸運にもほぼ新車のカブを手に入れて一年半。鎌倉への遠出に始まり九州ツーリングや富士山登頂、他の多くの原付より負担の大きい使い方をしたカブは、もう維持に必要なコストを払うことなく乗りっぱなしに出来る時期を終え。機械の寿命を使い切ってしまったんだろうか。

 小熊は制服姿のまま、何も食べず床の上で眠った。

 いつもなら窓から見える駐輪場のカブが、今は霞んで見えない。

 

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