第四十二話 松竹梅

 小熊が何度キックしても、カブはキックレバーの動きに連動した音を発てるだけで、自ら回りだそうとはしない。

 数日前から気になっていた異音だけは聞こえる。ネズミが何かを齧るような音。

 今までの記憶と経験を総動員した結果、ガス欠の時のことを思い出した小熊は、シートを持ち上げてガソリンメーターを見たが、目盛りは八分目のあたりを指している。メーターの故障を疑うまでもなく、シート下のガソリンタンクを掌で触れば、冷たい感触で充分なガソリンが入っていることがわかる。


 ガソリンコックがONの位置にあることを確かめた小熊は、厳寒期の朝にエンジンのかかりが悪くなった時のことを思い出し、左ハンドルグリップの下に付けられたチョークレバーを引く。再びキックするが、やはりエンジンはかからない。

 異音は相変わらずどこかから発生している。このネズミの音がエンジンの重要な部分を齧ってしまったのか。

 小熊は礼子に聞いたことを思い出す。無茶な走りと改造でしょっちゅうカブを壊している礼子は言っていた。バイクのエンジンが動かなくなる要素は無数にあるけど、さっきまで動いていたエンジンが突然動かなくなる時は、燃料か点火のトラブルだと。

 

 そうやって故障部位を大まかに類別する、トラブルの切り分けが重要だということはわかった。とはいえエンジン内部の異変なんて見てわかるものではないと思いながら、小熊はしゃがみこみ、白いレッグカバーの奥にあるエンジンを覗き込みながら、腕でキックレバーを踏みおろした。

 ネズミの異音が発生している場所を探るように、視覚と聴覚を研ぎ澄ましたところ、病巣らしきものがわかった。プラグコード。千切れかけたコードの銅芯が露出し、鉄板の車体との間に電流のリークを起こしていた。ネズミが何かを齧るような音は、このコードのスパークが原因だろう。


 こんな奥まった場所に傷がつく理由は思い浮かばなかった小熊は、富士登山のことを思い出した。幾度も岩にぶつけたり、自分の膝を当てたりして壊したレッグシールド。

 エンジン部分のカバーも兼ねているレッグシールドは、解体で見つけた中古パーツに交換するまでは、あちこちが割れ、鋭い切り口が突き出していた。そのうちの一つに引っ掛けたか擦れたかしたコードが千切れたんだろう。割れたレッグシールドが発するビビり音で異音を聞き逃したことで、初期治療が遅れた。

 外装部品のレッグシールドは走行には関係ないので、壊れても見た目と防風などの少々の利便性を損なうだけだと思っていた小熊は、バイクの部品というのは相互に干渉し合っていて、ある部品の故障や破損が、別のトラブルを引き起こすことを知った。

 原因はわかったが、直そうにもすぐ直せるものではない。小熊はとりあえずカブを買う以前から乗っていた自転車を出し、学校へと急いだ。


 いつもは始業チャイムが鳴るまでに余裕を持って来ることが多い小熊が、時間ギリギリに自転車で来たのを見た礼子が、さっそく野次馬根性むきだしの顔で理由を聞いてきた。

「カブが壊れた」

 どこが壊れたかを話す前に授業が始まった。中休みにもう一度礼子に聞かれたが、説明が長くなりそうなので昼に話すとだけ言う。

 昼休みのチャイムが鳴り、小熊と礼子は椎や慧海とともに、いつも四人の昼食スペースになっている駐輪場に集まった。

 礼子は自分のハンターカブのシートに座っているが、小熊は椎と慧海に挟まれてコンクリートの花壇に座る、椎はうれしそうな様子だけど、小熊は何だか自分のカブが無いというだけで礼子から物理的にも心理的にも見下された気分になる。

 無駄な自尊心を発揮したところでバイクは直らないので、とりあえず小熊はメスティンでご飯と缶詰のアサリを一緒に炊いたアサリ飯を食べながら、礼子に今朝の故障について説明する。

 礼子はバゲットにハムとアジア野菜、ニョクナムを挟み込んだベトナム風サンドイッチを齧りながら話を聞いていたが、特に考えることなく答える。

「それでは小熊さん、本日ご用意した修理プランは、松、竹、梅、あとゴールドと取り揃えておりますが如何いたしますか?」


 人のカブが壊れたというのに、それを逆撫でするような話し方をするとは大した根性だと思いながら、とりあえず一番安いもののメニューを聞いてみた。

「梅は百均コース。切れたプラグコードの銅芯のとこに百均の銅ワイヤーを挿してコードを繋ぐ、あとはやっぱり百均で売ってるビニールの絶縁テープを巻いとけば充分よ」

 必要最低限とはいえ、あまり見栄えが良くない気がした。それに雨水が直に当たる位置にあるカブのエンジンとプラグコードで、ビニールテープがどれほどの耐水、対候性を発揮できるのか気になった。

「竹は?」

 小熊の左隣にいる椎はトマトソースのパスタを食べながら、礼子と小熊のやりとりを興味深げに見ている。右の慧海は缶詰のナポリタンを箸で食べていた。自分と係わりの無い話には割り込んでこないし、興味も持たない。周りの話に入れなくとも、それを苦痛に思わないタイプ。だから小熊は、椎との間に割り込むように。慧海の左隣に座らせて貰った。

 小熊と椎の視線を意識し、得意げな様子の礼子は。練乳で淹れた甘いベトナムコーヒーを一口飲んでから、小熊の問いに答えた。 

「竹はホームセンターで千円コース。プラグコードをカー用品店でメートル幾らで売ってる新品に換える」

 こっちはまだマシな案って気がした。エンジンヘッドから伸びているため、見た目的なアクセントにもなるプラグコードをあまり汚らしく補修したくない。赤や白のビニールテープでグルグル巻きでは、街を走る他のバイク乗りにケンカでも売っているような気分になる。


 礼子が持ちネタを出し切る前に話を打ち切っては不憫なので、とりあえずもう一つのメニューも聞いてみた。

「松は?」

 礼子はうれしそうに答える。

「松はホンダ純正部品で一万円コース!コイルごと新品に交換してプラグキャップも換える」

「問題外」

 ただでさえ自動車免許取得で口座の金をほぼ使い切ってしまったのに、そんな出費ができる訳ない、部販で買ったら幾らになるのかと考えた時、今はその部販に行く足すら無いことに気づいた。


 やはり自転車や電車で行けるホームセンターで揃う材料で直すのが、最も現実的だろう。そう思った小熊は、途中まで食べていた昼食を再び口に運び始めた。

 修理の見通しが立たなかった時は何の味もしなかったアサリ飯が美味い。横でナポリタンを食べる慧海の端正な姿を横目で見る余裕すら生まれてくる。

 パスタのトマトソースで口の周りを赤くした椎が、フォークを持った手を上げた。

「あの、松竹梅の上にあるゴールドって何?」

 小熊はすっかり忘れていた。聞かれることなく話が終わりそうだったので、なんとも寂しそうな顔をしていた礼子の顔が輝く。

「よく聞いてくれたわ!ゴールドはチューニングショップでノロジーやスピットファイアの高性能プラグコードに交換!コイルもデイトナとかキタコ、タケガワの高電圧タイプに換えて、お値段は時価!」

「ふざけんな」


 とりあえず修理の手順は決まった。小熊は午後の授業を終えた後の帰り道で、牧原の交差点から一㎞ほどのホームセンターまで自転車を走らせプラグコードを買いに行く。

 それから、カブならあっという間に登れる七里岩の坂で苦労してペダルを漕いだ小熊は、汗まみれでアパートに帰ってジャージに着替え、すぐに作業を始める。

 コードはプラグキャップ側は捻るだけで簡単に抜けたが、コイル側が少し難物だった。しっかりと接着されていてコード単体での交換が困難な構造のコイルから何とかコードを引き剥がし、新しいコードを繋いだ後、作業で外した各部のパーツを取り付け直し、祈るような気分でキックレバーを踏んだ。

 今朝エンジンに点火できない状態で何度もキックしたせいか、カブりと言われるガソリンに濡れた不完全燃焼状態のプラグは、最初は点火を渋ったが、何度かキックしていると。カブが小熊の待ち望んだ音を発した。

 無事エンジン始動し、順調な排気音を発するカブに、思わず安堵のため息をついた小熊は、作業スペースを片付けて工具箱を持ち、部屋に入った後、疲労のあまり床に倒れこんでしまった。そのまま深い眠りに落ちる。


 翌朝、昨日の不調が嘘のように無事始動したカブで学校に向かった小熊は、校門の目前でしばらく縁の無かったパンクに見舞われた。

 とりあえずカブを降り、手で押して駐輪場まで転がしていった小熊は、今日が午前だけの授業だったことを思い出し、昼の駐輪場でパンク修理をすることになった。

 気まぐれに作業を手伝う積もりになったらしき礼子がニヤニヤしながら聞いてくる「ご注文は?」

 小熊はカブ後部のスチールボックスを開けた。パンクしたチューブに継ぎを当てて使う梅コースでは少々貧乏臭いし、パンクが再発する可能性もある。かといって対パンク性能に優れた高価格なチューブに換える松コースは懐が痛いし、ホイールごとチューブレスに換えるゴールドコースなど論外。

 小熊は後部ボックスに工具箱と共にいつも入れている、通販で八百円の純正納入メーカー製予備チューブを取り出しながら答えた。

「竹で」

 贅沢すぎず、みすぼらしすぎない中庸の選択をしていれば、これからもカブに乗り続けられる。きっと来年からの暮らしもそうなんだろう。

 

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