第四十一話 異音

 二学期が始まって最初の日曜日。小熊と礼子は列車で東京に向かっていた

 夏休みに小熊と礼子がアルバイトとして参加した、クロスカブで富士山に登るという雑誌企画。

 担当編集者から記事原稿と配信動画が出来上がったので、本社まで来てチェックしてほしいという連絡を受けた二人は、郵送されてきた中央線特急列車の指定席券を利用し、東京にあるという出版社まで行くこととなった。

 礼子は東京ぐらいカブで行こうと言った。特急券を金に換えれば往復のガソリン代を差し引いても充分なお釣りが来るという。都内に実家のある礼子も、大学の下見で何度か八王子に行った小熊も、山梨と県境を接した東京という場所はカブで行く場所としてはそれほど遠いものとは思っていなかったが、それだけにカブでの移動しか知らないと自分自身が狭く閉塞した人間になってしまう気がした。


 結局、小熊が礼子を押し切る形で、二人は韮崎から特急に乗ることとなった。最初は改札等での手間が多く、ホームや列車内で出発を待たされる電車での移動に文句を垂れていた礼子も、来る途中で買ったコンビニの弁当を食べながら、空調の利いた指定席で車窓を眺めているうちに悪くない気分になったらしく。中央線特急の旧式車両から漂う、もうすぐ用を終えて消える物特有の雰囲気を楽しんでいる様子。

 小熊もしばらく縁の無かった列車での移動を新鮮な経験として味わいたい気分だった。出版社の経費で自分の懐が痛まないというだけで得した気分。列車は自分で操縦し自らの意思と責任で走るカブと違って、何から何まで他人任せ。それもたまにはいいもの。

 もう一つ、小熊が列車で東京に行こうといった理由があったが、それについては後で考えることにした。


 東京までの列車旅は短かった。行楽気分に浸れるような車窓の風景を楽しめるのは前半だけで、以後は路線も窓から見える風景も通勤電車のものになる。山梨に暮らす小熊には異様に見えるほど短い間隔で置かれた駅を幾つも飛ばしているうちに、出版社最寄りの新宿駅が近づいてくる。

 車内での会話は主に礼子の進路だった。高校卒業をあと半年後に控えつつも何にもなりたくない礼子は、その考えを両親に話し、説得し理解してもらうべく実家に帰ったが、両親は進学も就職もしたくない礼子の進路に反対するどころか、それを可能とする様々な選択肢を示してくれた。

 浪人、出家、自宅学習、家業従事、芸術活動、そんな中で、礼子は放浪という言葉を聞いた瞬間、天啓を受けた気分になったという。


 以前進路希望票に書く内容に迷った時、小熊から受けた助言に従い、留学準備のための語学習得というそれっぽい建前まで用意したという礼子は、もう進路に関する問題は全て片付いたような顔をしている。

 それからどうするという問いは聞いても無意味だろう。礼子はそんな先のことは後で考えればいいと思う性格だってことはわかっている。たぶん礼子の両親もそう思った。自分のやることが未来まで決まっている生活に耐え難い閉塞感を覚える人間だって居る。

 礼子が今度は小熊の進路について聞いてきたので、小熊はもう奨学金の給付手続きも大学の指定校推薦に必要な書類の提出も終わっていると答えた。ただ一つ、学生寮の入居契約を除いて。

 礼子が何で?と聞いてきたので、小熊はその寮がバイク禁止だということを答えると、礼子は目の前の物を片手で払うジェスチャーをしながら、迷わず言った。

「問題外ね」

 まだ迷っている。小熊がそう言おうとしたところで列車は新宿駅に着いた。

  

 駅を出て新宿駅西口を少し歩き、近代的なビルの中にある出版社に入る時には、自分の格好のせいか少し気が引けた。残暑の残る都内で、小熊はデニムパンツにホワイトダンガリーのシャツ、礼子はワークパンツに袖を短く切った紺のスウェット。

 ここには用があって来たという意識を発揮して、受付でアポイントを確認し入館証を借りた小熊と礼子は、出版社の会議室に通され、記事チェックというものを始めることとなった。

 記事が社外持ち出し禁止のため、小熊たちが直接来て確認することとなったが、直接作業そのものは形式的なもので、雑誌記事に関しての知識が無い小熊と礼子には、専門用語の間違いを指摘するくらいのことしか出来なかった。


 内容は企画段階であちこちに書かれていた富士山登頂という言葉が綺麗に消され、ブルドーザ登山道という富士山の知られざる設備について女の子二人が実際に走りながら紹介するものに差し替えられていて、高山病に苦しむ描写などどこにも無い、ちょっと変わり味の名所観光といった感じ。

 その雑誌社が配信している動画番組に使われるという登頂の映像も、それに準じたものになるらしく、幾つかの箇所で小熊と礼子が実際に現場で発した言葉とは異なる台詞に吹き替えられるというので、その音声素材を録られたりもした。


 記事チェックとそれに付帯する作業はあっさり終わり、謝礼等のお金に関する書類のやりとりをした後で、女性編集者は小さな箱を小熊に差し出した。受け取って中身を見ると、スマホタイプの携帯電話。

「小熊さんはまだガラケーでしたよね?それでもし良かったら、うちの人間が使わなくなったスマホ、いらないかなと思って、そのタイプのガラケーならsim抜いてこっちのスマホに差すだけで使えるはずだから」

 女性編集者の話では、編集部の中にガジェット系の記事を担当している人間が居て、職業上常に最新のスマホを使っていなくてはいけないが、買い替え時に下取りの手続きを忘れ、まだ新しいモデルがほぼ未使用のまま余ってしまったらしい。


 小熊もカブを維持するようになってから、ネットでの情報収集が出来れば便利だと思い始めていたが、中古屋で少しスマホの値段を見てみたところ、自分に手の届くものでは無かった。それがタダで貰えるなら渡りに船。

 女性編集者が譲ってくれるというスマホより少し旧いモデルを使っている礼子がうらやましそうな目で見ていたので、横取りされる前にありがたく頂戴した。

 その場でsimを差し替えてみたところ、動作や通話は問題無い様子。携帯キャリアとの契約の関係でネットは使えないが、それは契約変更するなり安いキャリアに乗り換えるなりすればいい。


 一通りの用を終えた小熊と礼子は出版社を出た。これで雑誌記事に参加するバイトで義務的に課せられた仕事は全て終わり。その上思いがけずスマホまで手に入れることとなった。

 日曜をほぼ一日潰したけど損をした気分にはならなかった。帰りの特急は礼子にスマホの扱い方を教わっているうちに韮崎に着く。

 往路の車内で話そうとした、カブではなく特急で行くことにした本当の理由については、今は言いたくなかった。

 出版社からチケットが届く数日前、通学で何度も通った道をカブで走っていた時。小熊が気づいたこと。

 カブから聞こえた微かな異音。明らかに今までカブが発したことの無い機械的なノイズ。

 それが小熊に、カブで普段より長い距離を走ることを躊躇させたということを、認めなくなかった。

  

 月曜日を迎えた小熊は、ここ数日異音を出しつつも、通学や近所の買い物で問題なく走っていたカブで、いつも通り学校に行こうとした。

 キーを捻ってキックレバーを蹴り下ろしたが、カブのエンジンは始動しない。

 小熊のカブが動かなくなった。

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