第四十話 使途

 学生や社会人の昼休みが終わる頃、勝沼の解体屋から戻った小熊と礼子は、シノさんの店の裏でカブの修理作業を始めた。

 運動会で使うような屋根だけのテント越しに、夏の日差しが照りつけてくるが、とりあえず無視しようとすれば出来なくもない暑さ。上半身が汗まみれになろうと、テントの外に置いた工具箱が手で触れられぬほど暑くなろうと、カブを直さなくては帰れない。

 修理作業自体は順調に進んだ。小熊のスーパーカブも礼子のハンターカブも、エンジンやフレーム、駆動部品等、車体の基幹部分にはダメージを負っていない。

 途中で尻尾を巻いて逃げた富士登山を完遂するための挑戦とはいえ、自分では直せない部分を壊すほど愚か者じゃない。

 礼子は、まっすぐ走れないほど歪んだホイールからタイヤを外し、解体で手に入れたホイールに組み替えている。たぶん愚か者の入り口をくぐってしまったんだろう。


 作業は基本的に破損した部品を、解体で買った部品に替えるだけ。取り外しを昨日のうちにある程度終わらせていたおかげで、修理作業は順調に進む。

 部品は事前にリストアップしたものを解体屋で買い揃えていて、新品の部品もシノさんが昨日言った通り全て部販で買ってきてくれている。工具は去年の夏に買った千円の工具セットに加え、即売会や中古ショップでこまめに買い足しているので、シノさんが気を利かせて置いてくれた貸し出し用の工具を使うまでもなかった。

 割れたサイドカバーや裂けたレッグシールドが解体屋で見繕った綺麗なものに取り替えられ、折れ飛んで電線だけで繋がってブラブラしていたので、富士山からの帰路でゴミ箱に捨ててきたウインカーはレンズと電球を新品に換えた物が取り付けられる。

 あちこちが壊れ、駐輪場よりゴミ捨て場が似合うような外見だったカブが、自分の手で見る間に蘇っていく様を見た小熊は、シノさんから教えて貰った通り、バイクの整備は事前の下準備こそ重要だということを知った。段取り八分仕事二分とはよく言ったもの。


 夏の長い陽が暮れる前に修理作業は終わった。部品を購入してくれた客へのサービスで場所だけ貸してくれる約束だったシノさんがやってきて、作業内容の最終確認までしてくれたが、異常や不備は無し。

 既に小熊のスーパーカブは礼子が、礼子のハンターカブは小熊が作業を終えるたびにチェックしていた。シノさんは二人の仕事の速さに感嘆した様子。

 整備すぺースを片付けて掃除した小熊と礼子はシノさんにお礼を述べ、修復成った自分のカブに乗って各々の家に帰った。

 まだ八月は始まったばかり、礼子は明日から高校卒業後の進路について話し合うため実家に帰るらしい。

 小熊もやることがあった、こっちも進路に関わる。


 翌日、小熊は朝からスーパーカブで、韮崎駅付近まで行った。

 小熊が雑誌企画で富士山に登るという危険なアルバイトを請けた理由がここにある。結構な額が振り込まれていた謝礼金と、それまで奨学金やバイトで稼いだ金を繰り越して積み立ていた金を使い切る場所がある。

 自動車教習所。

 スーパーカブを生活の道具として活用しつつ、カブの使徒になった覚えの無い小熊にとって、普通自動車の免許は自分自身の可能性を広げるために必要なものだった。働き口ひとつ取っても、車の免許があるか無いかで大きく変わる。カブに乗る時だって、出先で不意に故障したり、解体で良好な車体を見つけた時には、積載車の運転が出来たほうがいいだろう。

 せっかく大学への推薦入学を決め、受験者への配慮のため宿題もそれほど出ていない夏休みを、わざわざ学校に行って教室で授業を受けることに費やすのは、高校最後の夏休みの正しい使い方なのかどうか、小熊にはわからなかったが、今取らないといけない気分だった。

 大学生になってからでは、慣れない東京暮らしの中で教習所に行ける時間やお金を捻出できるかどうかわからなかったし、どうせ教習を受けるなら都内より山梨のほうが車が少なくて楽だろうと思い、教習所について調べ始めた。

 学割や自動二輪免許所有者への割引を駆使し、何とか金額の折り合った教習所は、通学可能は範囲に幾つかあったが、以前自動二輪の免許を取った時に通った韮崎の教習所のほうが、勝手がわかっていいだろうと思った小熊は、教習所の受付で口座に溜め込んだ金のほとんどを叩きつけた。

 時間はともかく、金の使い道は間違っていない。きっとこの出費は将来大きな金を産んでくれるに違いない。


 自動二輪免許の時にも経験した教習所の授業は少々退屈だったが、隣に座った喋り好きのお婆さんは、新鮮な体験だと言っていた。

「だっれてこの年になって現役の女子高生と一緒の教室で授業を受けられるのよ!」

 学期が始まれば周り全部が高校生な中で、教習所より更に退屈な授業を受けさせられる小熊は、社会人になるとそんなもんなのかと思いながら、窓の外を見た。敷地内を走る教習車が見える。

「体育の授業もありますしね」

 お婆ちゃんはこの後で行われる実技の授業に少し気負っている様子だった。

「何とか生まれてこのかた無免許運転なんて一度もしたことありませーん、て感じで運転しなきゃ」

 思わず笑い出した小熊は教官に睨まれる。お婆ちゃんは手を合わせジェスチャーだけで謝っていた。

 翌日、昨日のお詫びかお近づきのしるしか、お婆ちゃんは小熊に奇妙なプレゼントを持ってきた。コールマンのキャンプ用コンロ。小熊が礼子から借りて使っているエスビットの固形燃料コンロよりだいぶ大きく重い、昭和の記録映像から出てきたような緑色のコンロは、自動車用のレギュラーガソリンが使えるらしい。

 お婆ちゃんはついでといった感じで名刺もくれた。本業は静岡のビルオーナーだが、所有するビルの一階にアウトドアグッズの店を開いているらしい。静岡ではなく韮崎の教習所に来たのは別荘に近いからだという。

 お婆ちゃんはどうせ誰も使わないと言っていたが高価そうなコンロを、最初は遠慮していた小熊は半ば強引に押し付けられてしまった。一緒に名刺も免許証を入れている革のガマ口財布に入れる。

 もしかしたらこっちの名刺のほうが値千金なのかもしれない。静岡で働き口に困ったらいつでも連絡して欲しいと言っていたお婆ちゃんは、小熊より少し早く自動車学校を卒業した。


 八月一杯を費やして自動車教習所に通った小熊は、夏休みが終わる直前に普通自動車免許を取得した。

 時間と金はだいぶ消費させられたが、これで自分自身が世の中で出来ることは大きく増えた。進路についても奨学金の給付や指定校推薦の手続きは概ね終わっている。あとは学生寮の入居契約を交わすだけ。一度壊れたカブも順調に稼動している。

 人生の使い方は間違っていない。

 

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