第三十九話 棒人間

 車体のあちこちを破損させた小熊と礼子のカブは、とりあえずシノさんの店の裏手に置かれた。

 修理の間はこの場所を貸してくれるらしい。気休め程度の日除け屋根がついている店裏の気温は三十度を超えていて、涼しい富士山とは別世界だったが、都内はすでに三十五度近い気温だと聞き、それよりはまだマシなんだろうと思った。

 夏至から間もない季節。時計が告げる時間は夕方から夜になろうとしていたが、まだ空は明るい。早朝に山梨を出てカブで富士山を登り、たった今ここまで帰ってきた小熊と礼子は、カブほどでないにせよ服と体のあちこちに傷を負っていた。

「これからどうする?」

 小熊の問いに、早速ハンターカブの破損箇所をチェックし始めている礼子は答えた。

「部品屋はもう閉まっちゃってるけど、やれるとこまでやる」

 小熊も自分のカブの横にしゃがみこみ、見ているだけで修理費用による散財を思い起こさせる破損部品を外しはじめた。


 その日は空が暗くなり、店が閉まるまで作業を続け、とりあえず交換が必要なものだけはわかった。書き留めるためにシノさんにもらったメモ用紙の紙面を使い切るくらいの部品が必要になる。

 小熊と礼子は部品のリストアップ作業が終わったあたりで、気まぐれな店の閉店と共にシノさんに追い出された。代車を出してくれたが二人で一台だったので、貸し出されたカブ90に二人乗りして帰る。

 出る前にパッキンやガスケット、電球等、中古品ではなく新品が必要な部品だけ別のメモ用紙に書き出してシノさんに渡した。礼子は出来るだけ急いでと言っていたが、シノさんはリストにざっと目を走らせて言った。

「急ぐまでもないよ、カブの部品はどの部販にも在庫がある」

 小熊や礼子のように個人が趣味や実用で乗っているならともかく、業務でカブを使っていて。車両が故障等で一日使えないだけで結構な損害の出る事業主のため、スーパーカブの消耗部品は、部販と呼ばれるメーカーによって各地方ごとに設けられた部品流通拠点に欠品無く置かれている。

 整備業務関係者への部品販売を目的とした部販に個人でパーツを買いにいくのは少々敷居が高いが、守るべき流儀や取引方法を守るならば出来ないことはない。


 礼子に代車のカブ90で日野春駅前の自宅アパートまで送って貰った小熊は、明日の約束をして走り出す礼子の背に手を振る。明日は早朝にここを出て、甲府の隣にある勝沼の解体屋まで部品を買いに行く。

 アパートの部屋に入った小熊は、中にあるものは何も変わらないのに、なんだか心細い感じがした。いつもなら窓から駐輪場を見ればそこにあるカブが、今は無い。

 小熊の頭に、来年から行く八王子の大学と、その学生寮が思い浮かんだ。生活に必要な全てが徒歩圏内にあり、カブに乗る必要の無い街と、二輪禁止でカブに乗ってはいけないマンション寮。

 もうすぐ自分は、こういう暮らしを始めるのかもしれない。その思考はとりあえず頭の奥底に押し込んだ。

 ジャージを脱いでメスティンに研いだ米と水を入れ、椎の母から貰ったバーズアイ・マッチを壁で擦って固形燃料に火を点けてから小熊はシャワーを浴びた。体のあちこちについた傷と耳や髪から出てきた富士山の火山灰に苦笑する。

 固形燃料が燃え尽きると同時に炊けたご飯と鮭の中骨缶詰で夕食を終えた小熊は、ベッドに入った途端、地の底に引きずりこまれるように眠りに落ちた。 

 

 翌朝、小熊は代車のカブ90で迎えに来た礼子と二人乗りして、勝沼の解体屋に向かった。

 自動二輪免許を取得して一年以上経てば、道交法では二人乗りが出来る。夏休みの後半に免許を取った小熊はあと数週間。もし夏休みが明け、二人乗りが出来るようになったら誰を乗せようか少し考えた。

 礼子は乗せたくとも乗せたくなくとも乗せることになるんだろう。後ろに人を乗せたままステップを擦るほど車体を傾けてコーナリングする恐怖を、たまには自分でも味わえばいいと思う。椎はきっと自分のカブがあるのに乗せてくださいと言ってくる。たぶん椎は自分の前でわざと転んで、足を怪我しちゃったカブを操縦できないと泣きながら、こっちをチラチラと見てくる。そんな椎に「後ろに乗る?」と言い、椎の目がパっと輝くのを見てみるのも悪くない。

 慧海はどうだろうかと思った。必要があれば電車や母の運転するシボレーには乗るが、基本的に動力に頼った移動を嫌う慧海は、小熊が乗る?と誘ってもすげなく断るに違いない、でも、何度も頼めば、もしかして折れて後ろに乗ってくれるかもしれない。慧海が見せるであろう色々な表情を想像していると、そんな過程も楽しみになる。

 少々甘ったるい想像をしている間に、礼子の操縦するカブは甲府を通過し、勝沼の解体屋に着いた。


 甲州街道から、自治体にフルーツラインと名づけられた果樹園の中を抜ける広域農道に入ってすぐのところにあった解体屋の主人は、ツナギ越しに見える体に膨らみや窄みの乏しい、棒のような体をした無口無表情な男性だった。

 どこかルーカスの映画に出てくる機械人間を思わせる解体屋は、多数のバイクが並べられ、野積みしてある敷地の奥を指しながら言った。

「CT」

 輸出専用車種のため、解体屋に車両が入ってくることの稀な礼子のCT110ハンターカブは、目の前の棒のような男が指差す方向にあることだけはわかった。礼子は早速乗ってきたカブ90の前カゴから工具を掴み出し。その方向へと歩いていく。小熊も言葉が通じるかどうかもわからぬ棒人間に形だけの挨拶をしてから、礼子の背を追った。

 

 小熊と礼子の二人で、野ざらしのカブから必要な部品を外す。ハンターカブの廃車は一台しか無い。必要な部品の欠品が幾つかあったらしく。礼子は新品で買わないといけない部品が増えたと嘆いていた。小熊の乗っているAA01型カブはちょっと見回しただけで十数台の廃車があり、状態のいいパーツを見繕うことが出来た。

 敷地内に積まれていた、オイル汚れで元の色がわからないスーパのレジカゴに部品を入れた小熊と礼子は、棒人間の座っているテント屋根の下まで行った。それまで何かの部品を磨いていた棒人間は汚れた手のままカゴを受け取り、業務用の秤に乗せた。それからkg単位で計算される値段を電卓で計算した棒人間は、数字を書いたメモ紙を渡してきた。


 小熊はちょうど財布に小銭が充分に入っていて、必要な金をピッタリ出せることに感謝した。汚れた手のままお釣りを渡されることが嫌だったのではなく、目の前の棒人間が釣銭を計算してそれに応じた小銭を、レジなど見当たらない場所のどこかから出し、それを渡す作業にどれくらいの時間を要するのか見当がつかなかった。

 礼子は空気を読まず端数をマケてほしいと言い出したが、小熊が横から尻を叩いて重量相応の金を支払わせた。 

 棒人間は会計を終えると、さっさと何かの部品の修理作業に戻る。きっとあれは自分の予備の腕か何かなんだろう。

 奇妙な棒人間が営む解体屋で、必要な中古部品を思いがけぬ安価で手に入れて帰路についた小熊と礼子は、炎天下を走る暑さで熱射病になりそうだったので、冷房の涼しそうな甲府のファミレスに逃げ込み、昼食を済ませることにした。

 作業用の汚れたジャージ姿の小熊と礼子ににこやかな顔で注文を取りに来た店員は、席についてからもこまめに皿を下げに来たり、コーヒーのおかわりを注ぎに来る。

 小熊はこの店員が機械仕掛けの棒人間なら、きっとお気に入りの店になるんだろうと思った。

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