第三十七話 生還

 クロスカブで富士山に登るという、奇妙なアルバイトで小熊の七月は終わり、八月は諸般の事情で登頂断念した富士山に、自分のスーパーカブで再アタックするという刺激的な体験で始まった。

 奇行ともいえる富士登山の理由は些細なものだった。バイトを終え満額の謝礼を貰えることへの充実感と、手に届くほど近くに見えていた頂上に到達できなかった不完全燃焼な気持ちが混じり合ったまま夏本番を迎えようとした小熊は、雑誌社貸し出しのクロスカブに乗っている間アパートの駐輪場に置きっぱなしになっていた自分のスーパーカブに乗り、どこへ行くでもなく走りに行った。


 冷涼な高原避暑地に挟まれているとはいえ、真夏になるとそれなりに暑い日野春近辺、カブの行き先は自ずと小熊と礼子が溜り場にしていたBEURREに向く。あのログハウス店舗のイートイン・スペースは剥き出しのホワイトパイン丸太材のせいか、エアコンの冷気がコンクリートの自宅アパートに比べ体に優しい気がするし、以前椎の命を救った時に椎の父からコーヒーと軽食の年間無料パスを貰っている。

 受験勉強をしている椎の邪魔になるかもしれないと思い、夏休みが始まってから小熊と礼子の足は遠ざかっていたが、昨日の富士登山の最中に電話した時、椎は寂しそうな声で早く会いたいと言っていた。だから椎の家まで来た。


 いつも通り盗難リスクの高いカブを表通りから見えず、店内からは見える場所に駐めた小熊が、店のドアを開けると、戸に取り付けられたカウベルが鳴る音に反応し、店内に居た慧海が顔を上げた。それ以前からドアの前に立っているのが誰なのか知っていた顔。

「おかえりなさい。お待ちしていました」

 両親と椎に替わり店の手伝いをしているらしき慧海は、白いノーネクタイのブラウスに折り目の利いた濃紺のパンツ。琥珀色に近い濃いオレンジ色のウエストエプロン姿だった。

 柔らかくクセのあるポニーテイルで長身美麗な彼女は、パリのカフェを仕切るギャルソンとして完成した見た目を備えていた。イタリアン・バールのバリスタに憧れつつも、まだ様にならない様子の椎が見たら悔しがるに違いない。

「山からここまで、三千五百mも落ちてきた甲斐があった」 

 小熊は椎に会うためにこの店に来た。そして、慧海に会いたかった。ただ来たのではなく、ここに至るまでに生存に必要な判断と実行を繰り返してきたことを、慧海に聞いてほしかった。 


 イートインスペースの隅にある椎のセンスで飾られたテーブルの前に座った小熊に、慧海は椎に比べ大雑把ながら無駄の無い仕草で、熱いカフェオレを淹れてくれた。

「椎を呼んできます」

 小熊としては少し慧海と二人で話したかったが、慧海が椎の部屋のある二階に上がるまでもなく、椎が階段を駆け下りてきた。

「小熊さん!生きて帰って来てくれたんですね!」

 小熊は普段は砂糖を入れるカフェオレをノーシュガーで一口飲み、慧海に視線だけで美味しいと伝えてから言った。

「大げさすぎる」

 受験勉強のため娯楽や外界との接触を絶ち、ずっと部屋に篭っていたらしき椎は、ジャージ姿といい少し乱れた髪といい、こっちのほうが死地から生還してきたような顔をしていた。


 BEURREのイートインスペースを占拠した三人は、コーヒーとサンドイッチを供にお喋りを始めた。椎の質問攻めに小熊が答え、慧海は黙って聞いているといった感じだったが、お喋りの合間に久しぶりに触れるらしきエスプレッソマシンやパニーニメーカーを操作している椎は生き生きとしていて、そんな姉の姿を慧海は優しい目で見ていた。

 小熊は出来れば富士山を登り、一人も怪我人を出すことなく帰ってきた自分のことも、そんな目で見て欲しいと思っていたが、力量も幸運も足りず登頂出来ぬまま降りてきた身にはそれも叶わぬことなんだろう。


 特に雑誌社から口止めの類をされてはいなかったので、雑誌企画による富士登山のことを一通り話したあたりで、遠くから野太い音が聞こえてきた。小熊のスーパーカブや先日まで乗っていたクロスカブと同系列車種とは思えない、傍迷惑な排気音。

 小熊と同じく暑さに耐えかねたのか、それともよほど暇だったのか、礼子がハンターカブでやってきた。

 店に入ってきた礼子に小熊は言った。

「富士山に登りに行こう、今度は頂上まで」

 礼子は目を丸くしていた。小熊の口から出た予想外の言葉ではなく、自分の言おうとしていたことを先に言われたことに驚いたらしい。


 翌日、小熊と礼子は自分のカブで再び富士山へと向かった。

 大した準備をしたわけではなかった。小熊のスーパーカブは礼子の家に転がっていたオフロードタイヤを装着し、前後のスプロケットと言われるチェーン歯車を交換してローギアード化しただけで、礼子のハンターカブは、悪路走破の邪魔になるチタンショートマフラー等、いくつかの改造部品をノーマルに戻しただけ。

 身に着ける物もヒートテック上下に高校のジャージ、下着は慧海の言葉に従いウール製。八合目より上で着るため冬に使っていたツナギのスキーウェアをカブに積んだ。

 履物に少し迷った。押して歩く過程を考えると徒歩の登山より運動量の多いカブ登山。小熊や礼子が持っている重い革ブーツでは足裏の感覚が鈍る。かといってスニーカーでは心細い。 

 小熊がまたしても慧海に助言を頼ったところ、慧海は作業用品店やホームセンターで売っている普通の地下足袋を薦めてくれた。

 明治時代に当時の豪華な装備に身を固めた登山家に反発するように、地下足袋履きで数多くの高峰を踏破した登山家が居た。車でも大学自動車部等のアマチュアレーサーの中には、練習で履くシューズに地下足袋を選ぶ人間が少なからず居るらしい。

 

 思い立ったその日に準備を終え、翌日に登りはじめた富士山は、スタッフの同行と各過程での撮影という縛りが無かったため自由に登れたが、前回断念した八合五勺から上の道は悪戦苦闘の連続だった。

 立っていることさえ困難な急斜面で二人がかりでカブを押したり、幾度も転倒した末、蟻地獄のような地形に呑まれそうになったり、山肌に吹く突風に車体を持ち上げられたり、それでも小熊と礼子は九合の鳥居を越え、キャタピラ車で並走してくれた山小屋主人の助けを借りることなく頂上に達した。

 途中でキャブレターを分解してセッティングを変えたとはいえ、電子制御式のクロスカブより高山に弱いカブをごまかすように走れたのは、クロスカブで走った時の経験が活きたから。礼子も一度登って間もないうちに再び登ったせいか、高山病の発症はだいぶ遅らせることが出来た様子。


 登山シーズンで混雑した頂上で、二台のカブに観光客の視線が集まる中、小熊は日本で一番高い場所から地上を見下ろしながら、ここまで登ってきたあちこち傷だらけのカブを撫でた。

 さっきまでバテていた礼子は「次は冬の富士山ね」と調子のいいことを言っていたが、小熊はそれも悪くないと思い始めていることに気づいた。

 ボリビアやチリでは、この富士山の頂上より高い場所に人は街を作り暮らしている。そんな中でもスーパーカブは人々を乗せて走っているんだろう。

 礼子からは、それゆえコロンビアの麻薬カルテルの間では、カブ等の小型オートバイの後部に射手を乗せた暗殺者による殺人が、最も確実性の高い方法として頻発していると、あまり嬉しくないことも聞いたが。


 スーパーカブによる登山に必要とした技術や手順は、クロスカブで途中まで行った事とあまり変わりのないものだったが、それより幾らか多かった難所の数々は、数日前に慧海が言っていた、自分自身の感覚が最大限に研ぎ澄まされる瞬間。その端っこ程度を見せてくてた気がする。小熊にとってス-パーカブは、日常の足となる便利な生活道具というだけではなく、自分自身が生存に適した選択を行う能力を得るために必要なもの。それは世に数多く存在する移動手段には無く、オートバイにのみ存在する。

 登りと違ってスピードの乗るブルドーザ道でカブを滑らせ、徒歩の登山者が数時間かけて降りる下山ルートを数十分で降りながら、小熊は自分がこのカブから離れなれないことに気づいた。

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