第三十六話 頂

 小熊からの意外な問いに、標高三千五百mの冷気に顔色を失っていた礼子の顔に少し血色が戻った、赤面する礼子なんて今更見たくはなかったが、気力が普段よりだいぶ落ちているらしき礼子は、小熊の問いに答えてくれた。

「こないだあんたと一緒に買った奴よ!こんな山の中でお洒落してもしょうがないじゃない」

 小熊は思い出した。一ヶ月ほど前に中央市の大型ホームセンターに行った時、近隣のカジュアル服チェーンに寄ったことがあった。

 目的はその店が出している防寒インナーだったが、シーズンオフで思いがけず安く買えたため、浮いた金で下着を買い足した。小熊はライトカラーで礼子はダークカラー、素材は同じ。

「じゃあダメ、私も礼子もこれ以上登れない」


 小熊が慧海に教えてもらったのは、ごく単純な確認方法。気温、気圧の下がる高山での生存に適していない人間のひとつの例として、木綿の下着を着けていること。

 木綿は吸湿性に優れているけど透湿性や速乾性では他のマテリアルに一歩譲る。普段カブに乗る時にデニム上下をよく着る小熊も、通り雨に降られた時の乾きの遅さに閉口させられる時はある。濡れた木綿が急速に体を冷やすことも知っていた。

 防寒ウェアに身を包んでいても、その下に着ているのがコットンだと、汗はそのまま湿気になる。なかなか乾かない汗は体温を奪っていく。今は晴天の富士山でも、突然の雨と強風に晒されれば、どんどん体から熱が失われ、そのまま身体は意識と判断力の維持が可能なラインを保てなくなる。

 まだ冒険行が徒歩頼りで、地元から歩いて行くには時間のかかる富士山に登ったことの無い慧海も、自宅から慧海の基準ではすぐ近くの甲斐駒ケ岳には登ったことがあって、高校生の限られた予算ゆえ合皮のブーツに釣具屋の安売り防寒服という格好ながら、インナーだけはウールを身に着けている。

 

 礼子もさっきから汗のなかなか乾かない下着と、それがもたらす肌寒さについては意識していたらしく、悔しそうな顔で呟く。

「冒険に一番大事なのって、撤退の判断よね」

 小熊は頷いた。自分にも礼子にも、この山をクロスカブで制覇する力はまだ無いけど、生き延びるために必要な判断力は得ることが出来た。頑張れば出来るという子供マンガじみた幻想ではなく、まだ出来ない自分と向き合い、これから出来るようになるため必要なことを行う力。


 小熊はキャタピラ車のところまで歩いて行き、女性編集者に登山の中止を伝えた。撮影スタッフの間に安堵の表情が広がる。一時は記事の内容を登頂断念ではなく成功という文字で飾るため、小熊と礼子が申し出た二人での山頂アタックを実行させようという空気にもなったが、これで怪我人でも出れば雑誌記事どころではない。

 スタッフの間でも既に小熊たちの登山継続を強制的にでも止めさせようという話し合いが行われていた。

 その女性編集者はまだ若く知らなかったが、ずっと自動車、バイク雑誌の仕事をしているという撮影スタッフの中のカメラマンは、ある有名な自動車チューニング雑誌が谷田部のテストコースで開催した改造車による最高速チャレンジで、前輪駆動車による最高速記録にチャレンジした副編集長が事故死した現場を直接見ていた。

 

 下山が決定し、形だけの写真と動画の撮影が行われた後、小熊と礼子はクロスカブで、撮影スタッフはキャタピラ車でブルドーザ道を下った。

 降りるのは勾配による負荷が無いだけ、登るよりだいぶ楽だった。小熊も礼子もブルドーザ道特有の切り返しでクロスカブの車体を滑らせてコーナリングする。小熊はクロスカブに乗りながら、このバイクは自分のカブとは違った方向で面白いと思った。サスペンションの容量は普段乗っているカブよりだいぶ大きく、最初は違和感のあったプラスティック製の車体も、その中にあるパイプフレームは旧式カブの鉄板車体より強度感がある。少なくとも後部フェンダーをぶつけられただけで車体全体が歪んで全損になるという、旧カブ特有の欠点はこのカブには無いだろう。


 途中の七合目、六合目でゆっくり降りてくるキャタピラ車を随分待たされつつ、小熊と礼子は五合目に帰着した。

 そこで再び撮影を行った後、小熊は五合目で待っていたワンボックスの取材車にクロスカブを載せようとした。撮影スタッフの話ではこのままメーカーにクロスカブを返却しに行くという取材車で自宅まで送ってもらえるらしい。

 登山の間ずっとクロスカブを自分のハンターカブと比べ、しきりに文句を言っていた礼子が、赤いクロスカブを取材車のテールゲート前まで押してきたが、載せようとしない。小熊は取材車のスタッフに言った。

「どうせ家まで行くのなら、クロスカブに乗って行ってもいいですか?」

 少し考えていた撮影スタッフは「それはいい画が撮れるな」と言って小熊の申し出を了承してくれた。話を聞いていた礼子は嬉しそうな様子でクロスカブのシートをポンポンと叩き、跨ってエンジンをキック始動させている。セルスターターの付いた新しいカブに浮気心が沸きつつ、自分の流儀は変えないらしい。

 その後、小熊と礼子は二台のクロスカブに乗って、富士山から山梨へ帰路についた。

 登頂は途中で終わったが、自分の限界まで登った達成感は味わった。


 数日後、女性編集者が小熊と礼子によるクロスカブで富士登山の記事をまとめつつ、当初の約束より少し上乗せした謝礼の振込み手続きを進めていたところ、一通のメールが届いた。

 企画を進めている間も連絡先として使っていた礼子のアドレスから送られてきた、小熊と礼子の連名による形だけの礼状。

 ビジネス文書作成のテンプレートを丸写ししたような生硬な文面の下に添えられたファイルを開いた女性編集者は、周囲の人が振り返るほどの驚きの声を上げる。

 女性編集者に驚愕の声を上げさせたデスクトップの内容を注視した編集者たちが発した「ええええ!?」って声は、もっと大きかった。

 ファイルの内容は、小熊と礼子が自分のスーパーカブとハンターカブに乗っている写真と動画。

 あのクロスカブによる富士山八合五勺目までの登攀を終えて地元に帰った小熊と礼子は、それから数日もしないうちに自分のカブで富士山まで引き返し、そのままブルドーザ道を登り始めた。

 キャタピラ車で伴走したらしき五合目主人によってプロ並みの技術で撮影された動画のラストは、山頂の観測所前に並ぶ、泥まみれであちこちの部品が折れ飛んだカブと、服も顔もボロボロながら満面の笑みを浮かべている小熊と礼子だった。

「走るならやっぱり自分のカブがいい」

 

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