第三十五話 判断の分岐点

 クロスカブで走り、登り、時に押して歩いた小熊と礼子は、八合五勺目に達したところで停車を求められた。

 徒歩登山者で混み合った八合五勺の山小屋では、キャタピラ車が待っている。

 ブルドーザ道の前半では、バイクとの速度差でしばしばクロスカブが追い抜き、追いついてくるのを待っていたキャタピラ車は、小熊と礼子が急勾配の悪路を相手に奮闘している間に、いつのまにか小熊たちより先行していたらしい。

 小熊は山小屋裏の物資搬入口にクロスカブを停車させた。ここまでくると涼しいを通り越して初冬の気温になる。五合目では暑苦しかった借り物のオフロードジャケットは、防寒機能については万全ではないらしく、合わせ目の隙間から入った風が汗を乾かしていくのがわかる。


 礼子はクロスカブに跨ったまま、スロットルを捻ったり閉じたりしてエンジン音に耳を澄ませていた。礼子は去年、郵政カブを改造した特製のバイクでこの道に挑み、キャブ式エンジンの欠点である低酸素でのパワーダウンと自身の高山病で登頂を断念した。

 全国で郵政業務に使われているカブも、さすがに日本でもっとも高い場所にある郵便ポストまでは集配できなかったのかと小熊は思ったが、それは郵政カブが原因ではなく、礼子が郵政カブのエンジンに施したパワー優先のチューンにあったんだろう。


 標高三千五百m近い八合五勺でも問題なく稼動しているクロスカブをいじくっていた礼子が言った。

「トルクは少し落ちているわね」

 小熊は正直なところ変化に気づかなかった。最大限のトルクが必要になるような場所では押して歩いていたし、それ以外の場所では問題なく走っている。たぶん礼子が自分の乗っていた郵政カブと、今乗っている同じキャブ式エンジンのハンターカブに贔屓目になっているだけ。

 その郵政カブも、礼子自身が低酸素による体力低下で転倒して壊すまではブルドーザ道を走っていた。昔からホンダのエンジンは高高度に強いと言われていることは、昼休みのお喋りで礼子自身が教えてくれた。


 一九六〇年代に二輪車レースの世界選手権で全部門を制覇する活躍を見せたホンダは四輪のF1に参戦した。

 技術的、予算的な問題であまり勝ち星を挙げられず数年で撤退したホンダが初優勝したのは、標高の高いメキシコで行われたグランプリだった。

 他のチームが酸素濃度の薄い空気に合わせた燃料調整に苦労する中、当時ホンダF1の総監督だった中村良夫氏は、かつて航空機開発の技術者だった経験を活かし「わざわざ計算する時間も勿体無いほど」易々と燃料濃度を合わせ、他車を圧倒する速さでチェッカーフラッグを受けたらしい。

 エンジンが電子制御化されたスーパーカブにも、その思想は受け継がれているのかもしれない。小熊がそう思いながら九合目に至るブルドーザ登山道を見上げたところ、撮影スタッフのうちの一人、この企画を担当する女性編集者が近づいてきた。


 また撮影かインタビューかと思って少々うんざりしていた小熊に、女性編集者は言った。

「ここで下山しませんか?」

 先ほどからスタッフの体力が限界に近いことは察していたが、小熊はクロスカブと自分自身の手を見下ろしてから言った。

「こちらでは特に問題は発生していませんが」

 横目で礼子を見る。こういう時、真っ先に文句を言う礼子の発言に期待したが、礼子は少し返答が遅れた。一度深く息を吸ってから礼子は言う。

「もしスタッフがこれ以上登れないようなら、私たちだけで頂上まで行って撮ってきますよ」

 そう言いながら礼子は、小熊と礼子のクロスカブに取り付けられた走行中の動画を撮るGoProのカメラを指し、胸ポケットからスマホを取り出す。

 最近のスマホは高品質の動画撮影が可能になっていて、最新のモデルはテレビ放送に耐えるクオリテイの動画を撮ることが出来るため、時々テレビ局のスタッフが街の風景や突然の事件現場をスマホで撮っている様を見かける。


 ブルドーザの運転をしていた山小屋の店主が話に入ってきた。

「よろしければ撮影は私が行いましょう」

 店主が見せたスマホは、礼子のものより新しかった。撮影の腕も玄人裸足であることは五合目の山小屋に飾られた、本職のカメラマンが唸るほどの写真が示していた。

 スタッフの安全のため撤退を申し出たが、登頂する姿を撮れなかったことへの悔しさを窺わせていた女性編集者が、救いを得たような顔をする中、小熊は礼子の姿を見ていた。

 明らかに息が上がっていて喋るのが辛そうな様子。もう高山病に掛かり始めているのは明らかだろう。しかし小熊の経験上、低酸素で倒れそうになっても、誰かが後ろからケツを蹴ってやれば、すぐには死ぬことが無さそうなレベル、ならば死ぬ気になればあと数百mくらい登れるだろう。登ったあとの生死については正直どうでもいい。


 小熊は女性編集者に言った。

「とりあえず一休みさせて頂きますか?決めるのはそれから」

 小熊の視界の隅に、何かを期待して自分の顔を見ている礼子の顔が見えた。頷いて山小屋に戻る女性編集者を尻目に、小熊は自分の携帯を取り出す。

 富士山を登っている小熊にとっては長い時間。あっちではどれくらいの時が経過したのかと思いながらボタンを押すと、すぐに相手が出た。小熊の意図を読み取ったように、携帯の持ち主と違う相手の声が聞こえてくる。

「そろそろお電話がある頃だと思っていました」

 小熊は携帯越しに、恵庭慧海に向かって今の状況を説明し始めた。 


 話が常に直截で無駄の無い慧海に相応しく、小熊はすぐに必要なことを知ることが出来た。

 礼を言って携帯を切る。慧海は小熊の二年後輩で、それほど長い付き合いというわけではないが、そんな事は何の意味も無い。小熊にとって慧海は、自分の中の何かを安心して委ねられる相手だということがわかった。この登山が終わったら何かお土産を買って行ってあげよう。受験勉強で部屋に篭っている姉の椎にも差し入れの一つも持っていったほうがいいだろう。そして慧海とは携帯ではなく、この冒険行について直接話し、慧海が自分に何て言ってくれるのかを聞きたい。そう思いながら小熊は、礼子のところまで歩いて行った。

 それまで休憩のたび、物見高い様子で富士山の登山用設備をあちこち見て回っていた礼子は、クロスカブのシートに座ったまま、雑誌企画のタイアップで無料提供された健康茶を飲んでいた。


 近づいてくる小熊の姿を見た礼子は、お茶をこぼしながらペットボトルを口から放し、スクリュー式のキャップを捻り閉めようとしたが、手が滑ってキャップを落とす。

 小熊は体を伸ばし、礼子の手から弾け飛んだキャップを空中で掴みながら言う。

「まだ登れる?」

 礼子は小熊から受け取ったキャップをペットボトルにねじこみながら、少し張り気味の声で言う。

「当然よ。そのために来た」

 小熊は礼子の赤いクロスカブの隣に停めた自分の黄色いクロスカブに座りながら、さっき慧海から教えて貰った内容について礼子に聞くことにした。あまり気が進まないが確認しなくてはいけないこと。

「今どんなパンツはいてるの?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る