第三十四話 半クラ

 小熊と礼子、それから撮影スタッフは食事休憩を終え、富士山八合目から出発した。 

 クロスカブに跨る前に、小熊と礼子は互いを見つめあう。今更見慣れた顔を改めて見たいと思ったわけじゃない。互いヘルメットのストラップやモトクロスジャケットの襟。ライディングパンツのウエストベルトやオフロードブーツのバックルを意地悪な目でチェックする。 

 ここから先の道に広がる鋭い岩や、山肌に突然吹く風は、もっと意地が悪い。

 他人から見れば互いを信頼しているように見えなくもない姿に、撮影スタッフはカメラを向けている。先ほどまでの頭痛や吐き気は食事休憩で少しマシになった様子。高山病は基本的に休憩ではどうにもならず、下山しないと直らないと言うが、何とか仕事が出来る程度の現状を維持しているらしい。


 九合目までは、本八合目、八合五勺と細かく区切られている。徒歩なら各三十分弱で九合目まで一時間少々。

 ならば少なくとも三十分で登らないとカブに乗っている意味は無いだろうと小熊は思った。もしかしてカブ乗りとしてのプライドが無駄に高い礼子の思考が伝染ったのかもしれない。

 どっちにしても、これから九合目を突破し山頂まで登るなら、自分の体力は持ってあと一時間程度だと思った。

 最初は以前にここを走ったことのある礼子の先行で、ブルドーザ登山道を走り出す、小熊はタイヤが道の石ころを噛んですぐに、今までとは違うことに気づいた。

 キャタピラ車が走るために最小限の整備をした道は、相変わらず粒が大きく鋭い石の道で、二輪車で走るには無理のある路面だったが、明らかに斜度が強くなっている。一速で走り出してから二速に上げられる場所がほとんど無い。


 エンジンに最大限のパワーを発揮させるには、高回転を維持しなくてはいけないというのが、電動モーターとは違う内燃機の避けられぬ特性。

 軽量なスポーツカーが大型で大出力で、おまけに高価格なスーパーカーを打ち負かすことの出来る、急カーブだけで出来たテクニカルな峠道を指す言葉に「ローとセカンドだけで充分」というのがあるが、この道は既に一速とたまに二速しか使えない。

 クロスカブで何とか走り抜けることの出来る岩の道のあちこちに、キャタピラ車でないと乗り越えることの出来ぬ大きな岩が散在している道では、それらの障害物を左右に避けながら走らなくてはいけないが、走行抵抗が極めて高い状態で回避行動をする時、ギアを上げすぎていると車体にトルクをかけられない。

 街中で狭い場所を低速で走らせている時も、ギアを上げたまま急角度で曲がろうとしていて、エンストしそうになることがある。そんなアスレチックのような状態が終わり無く続く道で、小熊は何度目か前進を阻まれて足をついた。


 前方を走っている礼子を見る。礼子も同じような状況で失速していた。エンジンが最大のパワーを発揮するはずの一速でスロットルを回しても、岩に食い込んだタイヤが回ってくれない。小熊と同じように足を付くかと思われた礼子は、スロットルを戻し、シートから腰を浮かした。

 体重移動でバランスを取り、停止状態を維持しながら、礼子は踵でシフトペダル後部を踏んでギアを一速からニュートラルに落とし、それから爪先でペダル前部を踏み込む。

 ハンドレバーによるクラッチ操作の不要な遠心クラッチのカブは、シフトペダルを踏んでいる間はクラッチが切れている。礼子はスロットルを捻り、タイヤの抵抗から解き放たれたエンジンを高回転まで回す。それからシフトペダルを踏んでいた爪先を緩めた。

 急激にクラッチを繋がれたことで、クロスカブは飛び出すように窮地を脱した。何事も無かったように走行を続ける礼子の背が遠くなっていく。

 小熊も礼子のやっていたことを真似て、シフトペダルを踏みながらエンジンを回し、爪先を抜いてみる。一度では上手くいかなかったが、何度かやるとコツを掴めてきた。

 これは山道じゃなく街中で信号停止したカブを急発進させるのにも使える技かもしれないと思ったが、たぶん力加減を間違えると前輪が持ち上がり制御不能になる。あまり調子に乗って使うことはしないほいうがいいだろう。


 小熊は新しく覚えた技を使いながら礼子を追った。ゆるい窪地のような場所に足を取られた礼子が、また前進不可能な状態になっている。またエンジンを回してクラッチを繋ぐが、それでも脱出できないらしい。

 バックミラー越しに後ろをチラっと見た礼子が、今度は小熊に教えてもらったテクニックを使った。走れない場所ではカブを降りて押して歩く。単純だけど礼子のようにカブの性能を妄信していている奴には抵抗のある方法。

 どうやら礼子は馬鹿にはならなかったらしい。そして自分は少し馬鹿になったのかもしれない。小熊はそう思いながら走り続け、本八合目を通過した。

 頭の悪い人間には不可能だが、賢くなると出来ない難業はまだ続く。

  

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